仇
「昼からスオメラ語辞典か?」
弁当と一緒に、スオメラ語辞典を取り出したイアンへ、ヘルベルトはあきれた声を上げた。イアンはその声に動じることなく、しおりを挟んでいたページを開くと、サンドイッチを片手に目を通し始める。
「おれが作った弁当なんだぞ。もっと味わって食え」
「ちゃんと味わっている。今日のピクルスは中々だな。元々の野菜の味と、酸味のバランスがいい」
それを聞いたヘルベルトは、まんざらでもない顔をした。
「浅漬けにしてみた。そんなことより、ソフィア王女からは、謹慎以外は何も言われてないのか?」
「特に何もない」
ヘルベルトはほっと息を吐いた。
「このままほとぼりが冷めてくれれば、言うことなしだ。ここ数日間、俺は生きた心地がしなかったぞ!」
「お前が変なものを見つけてくるからだ。それよりも、こんなものが俺の所へ回ってきた」
イアンがヘルベルトへ、一通の封書を差し出す。
「セシリー王妃様からか?」
「違う。署名を確認しろ」
それを眺めたヘルベルトの手が震えた。
「スオメラ大使の接待役を命じるだって!? しかも、陛下直筆の指示書じゃないか!」
「間違いなく母上の横やりだよ。男子生徒はキース兄さん、女子生徒はソフィア姉さんが無難なところだ。それを父上の指示書まで使って、俺に差し替えた。おそらく女子の接待役は……」
「赤毛嬢か……。だがイアン、いくらセシリー王妃様の要望でも、これはあまりいい事とは思えないぞ。どう考えても、キース王子の不興を買う」
「もう決まったことだ。今さらじたばたしても仕方がない。おかげで、真剣にスオメラ語を勉強することになった」
「それは大変だな」
ヘルベルトがイアンへ、肩をすくめて見せる。
「そうでもない。他の国の言葉を学ぶのは面白いぞ。温かい、寒いという表現一つでもだいぶ違う。ロストガル語での表現は一つだが、スオメラ語では、花や植物の形態に合わせた表現が山ほどある」
「単にめんどくさいだけだろう」
「情緒のないやつだな。あの国が温暖で過ごしやすいことを考えれば、これはきわめて興味深いことだ。味の表現だって違う。スオメラ語は甘い、辛い、しょっぱい、苦いだけじゃなく、うまいというのも味の中に入っている」
そう告げると、イアンはサンドイッチに挟んだピクルスを指さした。
「スオメラだったら、今日のピクルスにはうま味があると言う」
「お前にほめられてもな。どうせほめられるなら、オリヴィアさんにほめられたい。あの人の食べるものは、すべて俺が作る」
「好きにしてくれ」
「でも、辞典だけで大丈夫なのか?」
「発音が怪しいから、母国語を話せる人に、協力をお願いすることにした」
「クレオン君か?」
「そうだ。それよりも……」
イアンはそこで言葉を切ると、ヘルベルトへ目配せをした。ヘルベルトが指で大丈夫だと合図すると、言葉を続ける。
「例の秘文書だが、本当に昔の生徒のいたずらだったのか?」
「実家へ送って確認した。何の痕跡もないそうだ。インクも紙もかなり前のものらしい」
それを聞いたイアンが、何か考えこむ表情をする。
「まだ何か気になるのか?」
「すくなくとも、紙は本物を用意したと言う事か……」
「おい、本当に鑑定するのか聞かれたぐらいだぞ。それに見つけたのは偶然だ」
「それにしては、あまりにもタイミングが良すぎる」
「イアン、いくら何でも……」
「ヘルベルト、今回の件だけじゃない。南区の時も、決闘騒ぎの時も、何か不自然なものを感じなかったか? あまりにもタイミングが良すぎ、いや、悪すぎるんだ」
「やぶから棒になんだ。お前自身、全て赤毛嬢が引き起こしていると言っていただろう?」
「そう思っていた。だが今回の件といい、誰かが影で、俺たちをからかっているようにしか思えない」
イアンはそこで言葉を切ると、ヘルベルトを眺めた。どうやら、こちらの言葉が耳に入っていないらしい。
「どうした?」
ヘルベルトがはっとした顔をする。
「すまない。実家へ戻った時に、耳に挟んだ話を思い出していた」
「何があった?」
「お前には関係のない話だ。忘れてくれ」
「ヘルベルト、お前は俺の半身だ。お前に関係あるなら話せ」
イアンの言葉に、ヘルベルトはあきらめた顔をした。
「黒曜の塔で『腕』をしていた一族が、亡くなったらしい」
「らしい?」
「表向きは行方不明ということになっている」
「事故にでもあったのか?」
「俺たち魔法職は常に死と隣りあわせだが、事故じゃない。同僚に殺されたそうだ」
それを聞いたイアンの顔色が変わる。
「黒曜の塔の腕が、腕に殺されたのか?」
「話を真に受ければそうなるな。だが何かおかしい。普通は事故があっても、療養所送りということになって、死んだことが公になるのはかなり先の話だ。それが実家へ戻った時に、死因と一緒に漏れてきた。確かに、俺たちの周りで起きることは、色々とタイミングが良すぎる、いや、悪すぎる……」
「何か裏があるな。亡くなった人は?」
「ナターシャ、俺の少し上のいとこで、一族の中でも百年に一人の逸材だと言われていた。性格は最悪だったけどな」
「最悪?」
「短気なうえに、ともかく変わり者でね。護衛役なんて不自由なものはまっぴらごめんだと言って、王宮魔法庁へ行ったぐらいだ。同僚をぶっ殺して逃げたと言われた方が、よほどに納得できる」
「ずいぶんな言い様だな」
「本当だから仕方がない。それに魔法職である限り、真の自由なんてもんは存在しない。ナターシャは、それに逆らおうとしていた。何かあるとすればそこだろう」
「術者の呪いか……。逃れるすべがないと言う点では、王族も似たようなものだ」
「俺は今の立場はきらいじゃないぞ。いや、十分に楽しませてもらっている。イアン、お前のおかげだ」
それを聞いたイアンが、いかにも嫌そうな顔をして見せる。
「ほめ殺しはやめてくれ」
「別にほめてはいない。本当の事だ。でもナターシャがいなかったら、俺はお前の護衛役にはなれなかった」
「どう言うことだ?」
「年が近いお前の護衛役になりたかったが、まだガキだと一部の大人たちに反対された。でもナターシャが、『私も、あんたたちも、ガキだったじゃない? それの何が問題なの?』と言ってくれた……」
そこで言葉を詰まらせたヘルベルトの肩へ、イアンがそっと手を置く。
「俺はナターシャに借りがある。本当に殺されたのなら、俺がその仇を打つ」
「その時は俺に言え。いや、俺に遠慮するな。お前の仇は俺の仇だ」