闇
「フレデリカ?」
私の声にカミラお母さまが驚いたような声を上げた。
「あ、あの、お外に出て行かれるのを偶然に見まして」
私はカミラお母さまに答えながら、手にしたランタンに火を着けた。ランタンに小さく火が灯り、あたりを黄色く照らす。その明かりの先に、カミラお母さまが立ち尽くしていた。その右手には何故か小刀が、左手には何か草のようなものが握られている。ランタンに照らしだされたその目は驚きのせいか、大きく見開かれていた。
「フ……フレデリカ……さん」
お母さまの口から絞り出すような声が漏れた。それと同時に、その顔が何かを恐れるような憎むような表情へと変わっていく。その目は私をにらみつけ、その口は横に大きくひきつったようになっている。
「あっ、あの、夜中で心配でしたので……」
「あなたが消えれば、私達は幸せになれる」
「消える?」
お母さまは何を言っているんだろう。だが思考より体が、前世で冒険者として鍛えられた本能と言うべきものが先に動いた。お母さまが手にした小刀を私の方へと突き出す。それは私が躱した体の横腹の、すぐ横を通りすぎた。
「お、お母さま!」
だがカミラお母さまは呼びかけに答えることなく、私の方を振り返ると、小刀を振り上げて私の胸めがけて振り下ろそうとする。私はその腕を左手で受け止めた。
だがその力はとてつもなく強く、私は右手に持っていたランタンを地面に放り投げると、両手でその手首を必死に抑えた。だが片手しか使っていないお母さまに、じりじりと押し込められる。本当にこれはカミラお母さまの力なのだろうか?
地面に転がったランタンが照らし出したその顔は憎しみに満ちている。
「お母さま!」
私は再度、カミラお母さまに呼びかけた。
「死ね、死ね、死ね!」
カミラお母さまは譫言の様に呟いている。カミラお母さまは私を本当に殺したいの? 血は繋がっていなくても、私達は親子ではないの!?
小刀の先は、すでに私の胸のすぐ手前まで来ている。このままでは本当に殺されてしまう。私は体を入れ換えると、勢い余って前のめりになったお母さまのお尻の辺りを蹴っ飛ばした。何だろう。蹴っ飛ばした瞬間に悪寒の様なものが足から体中に伝わった様な気がした。
カミラお母様の体が草むらの先へと倒れる。彼女が立ち上がる前に、走って屋敷迄戻らないといけない。きっとお母さまは私への怒りのあまり、錯乱されているんだ。誰かに取り押さえてもらって、落ち着いてもらえばきっと正気に戻ってくれる。
振り返ろうとした私の目に、地面に転がっていたランタンの明かりによって、身を起こそうとするカミラお母さまの影が、背後の東屋の白い壁に映し出されているのが見えた。
「何?」
走ろうとしていた足が止まった。お母さまの体の影の上に、何か黒い靄のような影が映っている。だが目を下ろしてみても、お母さまの上にはそのようなものはない。靄のような影は黒く集まると、お母さまの上にもう一人の誰かが重なっているような影を映し出した。
それがカミラお母さまの体を、腕を、地面から引きずり起こす。影の先を見ると、カミラお母さまの体は見えない何かに引っ張られて、背を弓なりに反り返し、口を大きく開けて、顔を天に向けた姿勢になっている。その姿は人というより、狼が遠吠えする時のような姿に見えた。
「殺す!」
カミラお母さまはその状態のまま、顔だけを私に向けてつぶやいた。その目には、もはや知性も何も感じられない。ただ狂気の色だけを宿している。これはお母さまではない。お母さまはその背後にいる見えない何かに操られているんだ。
助けを呼ばないといけない。今すぐにだ。私は屋敷の方へと体を向けた。だが背後で何かが跳躍したような音が聞こえる。私は体を横に投げ出して、それを避けた。横を見ると、髪を振り乱したカミラお母さまが、手にした小刀を地面に深々と突き刺している。
「フレア!」
屋敷の方から声が聞こえた。
「ロゼッタさん!」
良かった。ロゼッタさんが来てくれた。これで助かった。
「フレア、すぐにそこから離れなさい!」
ロゼッタさんが私に向かって叫んだ。ロゼッタさんが杖を前に差し出しているのが見える。私はその声に導かれるように立ち上がって前へと進んだ。進んだはずだった。
おかしい。何かがおかしい。ロゼッタさんの姿がまるで水中から見ているみたいにゆらゆらと歪んで見える。そして私の体は何かに押し返されるかのように前に進むことが出来ないでいた。
「逃げられないわよ」
背後からの声にとっさに身をよじって逃げる。
「フフフフ」
小刀を手にしたカミラお母さまが、私を見ながらほくそ笑んでいる。その背後にいる何かは、今や影としてではなく、黒い何かとして、私の目にもはっきりと見えた。
それは黒いカミラお母さまだった。背中までの長い巻き毛。その小さい顔に、切れ長の目。カミラお母さまそっくりの形をしている。ただし、その姿は塵と言うよりは滑っとした泥のような物で出来ていた。それがカミラお母さまの背後にへばりついている。そしてカミラお母さまを侵食し、取り込もうとしているかの様に見えた。
「さっさと死になさい」
カミラお母さまは鬼のような形相をすると、再び小刀を私に向かって振り上げた。これを受け止めるなんてのは無理。これはカミラお母さまの力ではない。背後でお母さまを操る何者かの手によって、私の胸へと突き立てられてしまう。
私はとっさに前世で私の弟子だった人の組手の技を思い出した。体を前に丸めて地面に手をつき、体を回転させて、相手との間合いを一気に詰める。そしてカミラお母さまの背後に出ると、その背中を蹴っ飛ばした。
私の足がその塵のような泥のような得体が知れない物に触れた瞬間、最初に背後を蹴ったときの比ではない、全身の産毛が逆立つような不快さが走った。
「た、助けて」
反対側に逃げようとした私の背後から声が聞こえた。振り返ると、地面に転がったお母さまのうめき声だった。その背後にいる黒い奴が無理やりその体を引き起こして、こちらに向かわせようとしている。
「フフフフ」
再び笑い声が上がった。その声は背後の黒い奴から漏れていた。カミラお母さまの顔は苦痛に、そして絶望に歪んでいる。
「私の母親に、何てことをしてくれているんだ?」
私の心の奥底から何かが湧き上がって来た。それは私の心から恐怖という物を追い出す。私は地面に転がっていたランタンに手を伸ばした。前世の経験で言えば、この黒い奴はマ者の「死人喰らい」に似た感じがする。ならば、この手の奴は火に弱いはずだ。
私はランタンの燃料缶の蓋を外すと、それをカミラお母さまの背中に張り付いている、黒い奴に向かって投げた。そして上着を脱ぐ。もしお母さままで火に捲かれそうになったら、これと私の体を使って火を消す。
だが私の投げたランタンは、その黒い奴の手らしきものによってはじかれてしまった。それは東屋の壁にあたると、軽い音を立てて地面と転がる。火は、火は? 転がった先に何も灯はない。どうやらはじかれた際に、ランタンの火は消えてしまったらしい。
「フフフフ」
再び黒い奴が首だけをこちらの方に向けてほくそ笑んで見せた。
舐めるな!
私だって種火ぐらいならマナを使ってつけられる。鳩尾の下に意識を集中すると、前世同様に塵の様な塊の様な何とも言えない物がそこにあるのが感じられた。マナだ。ここには森は無いはずだが、確かにマナを感じる事が出来る。
私はそこにある、靄のようなそれでいて確かに存在する何かに向かって語りかけた。
『火を、目の前の黒い奴に火を着ける。そしてカミラお母さまを救う』
私はもう母親を一人亡くしている。もう一人亡くす訳にはいかない。アンに私と同じ思いなど絶対にさせない。絶対に救う!
鳩尾の下のマナが、私が心に描いたものと重なった。前世の私は何も役に立たない冒険者もどきだったけど、これで戦って来たんだぞ!
「燃えろ!」
私の目の前に真っ赤な光が上がった。それは私が心の中に描いたものより遥かに巨大で、遥かに眩しい光だった。その炎と言うより、赤い稲妻の様な物は、私の目の前で天高く空まで伸びると、そのまま天空の彼方へと消え去って行った。
一体何が、何が起こったんだろう。ランタンの燃料が一気に燃え上がった? それともあの黒い奴はまるでランタンの燃料のような物だったのだろうか?
お母さまは、カミラお母さまは? もしかして私はカミラお母さまを焼き殺してしまった!?
私は半狂乱になりながら、赤い光が去った辺りを見回した。目の前に白い何かが倒れているのが見える。カミラお母さまだ。カミラお母さまは、上着や寝間着の背中がまるで、そこだけ何かで焼き切られたかのように消えて、その白い背中が見えている。
「お母さま!」
私はその背中に飛びついた。火傷は特に何もしていない。首筋に手をやる。脈はある。
「フレア!」
「ロゼッタさん!」
ロゼッタさんが私の足元に駆け寄って来た。周りに会ったあの水の障壁のようなものはいつの間にか消え去っている。
「術を詠唱します。カミラ奥様を抱えて、私の足元から絶対に離れないで下さい」
「はい、ロゼッタさん」
「暁を告げし絶海の鳳よ。その赤き翼の羽ばたきはあらゆる魔を打ち払わん。その鋭き嘴は……」
私の耳にロゼッタさんの詠唱が響く。私はその声に守られながら、ロゼッタさんの足元で背中を丸めて、カミラお母さまを必死に抱きしめた。