夢心地
王宮の大ホールでは、スオメラからの使節を招いた舞踏会が行われていた。使節団はハチドリみたいに色あざやかな衣装を身にまとっており、その周りをロストガルの名だたる王族や貴族たちが囲んでいる。
アンジェリカはホールの壁際で、じっと息をひそめながら、足元の黒光りするオーク材を見つめていた。磨かれた床には、ホールの天井に掲げられた豪華なシャンデリアや、その下で踊る人々が映っている。
『私なんかが来るところじゃない……』
アンジェリカは心の中でつぶやいた。外国の使節を招いての舞踏会だ。本来は第二夫人の次女が、顔を出せるような場所ではない。だが、舞踏会には長女のフレデリカではなく、母のカミラが名代として招かれている。アンジェリカはカミラによって、無理やりここに連れて来られた。
当のカミラはと言うと、スオメラとの縁で使節団から声を掛けられると、アンジェリカの事をほったらかしにして、その人たちと歓談に励んでいる。アンジェリカは大人たちから好奇の目にさらされるのと、緊張のためか、裏返った声で話すカミラに耐え切れず、壁際へと逃げていた。
姉のフレデリカは、お披露目の時に一度も踊ることなく、壁際でじっとしていたそうだが、今はその気持ちがよく分かる。自分がお披露目で踊れたのも、フレデリカが意地悪な少年たちを投げ飛ばしてくれたからだ。そうでなければ、落ち目のカスティオールの、それも第二夫人の次女の自分には、誰も声をかけてくれなかっただろう。
『ともかく早く終わって!』
アンジェリカが、何度目になるか分からない願いを、心の中で唱えた時だ。目の前に、いきなり手が差し出された。
「やっぱり、アンジェリカさんだ!」
屈託のない声が耳に響く。顔を上げると、白い正装に身を包んだ少年が、薄茶色の瞳で、アンジェリカをじっと見つめている。
「サイモンです。覚えていますか?」
「は、はい」
アンジェリカはそう答えてから、相手が王子であることを思い出し、淑女の礼をしようとした。だが礼をするより早く、その手がサイモンによって握りしめられる。
「アンジェリカさんがいて良かったです。スオメラ語は話せないし、イアン兄さんもいなくてつまらないから、お腹が痛くなったことにして、帰っちゃおうかと思っていたとこですよ」
そう告げると、サイモンはアンジェリカをホールの中央へ連れて行こうとした。そこでは大貴族の子弟たちが、スオメラの使節団を相手に、自慢の踊りを披露している。立ちすくむアンジェリカに、サイモンが首をひねって見せた。
「スオメラの人たちにも、アンジェリカさんの踊りを見てもらいましょう。何の心配もいりません。踊りに言葉はいりませんからね」
サイモンはそう声をかけると、アンジェリカの腰に手をまわした。その姿勢のまま、大きく円を描くように、ホールの中央へ進み出る。そして大胆にも指を鳴らすと、楽団に曲を止めさせた。ホールで踊っていた人々も動きを止めて、サイモンとアンジェリカを見つめる。
「楽団長、『歌の翼に』をお願いする」
急な要求に、楽団長は驚いた顔をしたが、すぐに指揮棒を振り始めた。アンジェリカはこの場にいる全員が、自分たちを注目している事に恐れおののく。だが、横笛と弦の切ない調べが流れ始めると、アンジェリカの足は自然と動き出した。
やがて大貴族たちのきらびやかな衣装も、シャンデリアのまばゆい光も、全てが溶けて流れていく。耳に聞こえてくるのは、もはや楽団の調べではなかった。自分の鼓動と、サイモン王子の足音だけ。それはより早く、より情熱的に響き続ける。
『なんて心地いんだろう……』
アンジェリカは思った。自分の背中に羽が生え、それで宙を舞っているみたいだ。しかし、不意に自分の足が止まった。気づけばサイモン王子の足も、楽団長の指揮棒も止まっている。あっという間に、一曲を踊ってしまったらしい。
パチ、パチ、パチ……。
静寂の中、拍手の音が響いてくる。振り返ると、銀色の髪をした美しい女性が二人、こちらへ拍手を送っていた。その隣にはどこか見覚えのある男性もいる。アンジェリカは、それが家の居間に飾られている肖像画と同じな事に気づいた。
『国王陛下!』
その隣にいる二人の女性は、セシリー王妃にソフィア王女だ。背後にいる鮮やかな衣装を着た若い男性が、スオメラからの大使らしい。
バチバチバチバチ!
今度は雷雨の様な大きな音が響いてくる。それはこのホール全員による盛大な拍手だった。サイモンはアンジェリカの手を取って、観衆に対して挨拶を返すと、拍手を背にホールの横へと戻る。
「やっぱりアンジェリカさんと踊ると、踊りが上手になった気がしますね。続けて踊りましょう。でも、その前に何か飲み物が必要かな?」
胸の高鳴りを抑えつつ、アンジェリカはサイモンへ頷いた。サイモンは自分から侍従の所へ飲み物を取りに行く。その後ろ姿を眺めながら、アンジェリカがほっと息をついた時だ。背後に立つ大人たちの会話が、アンジェリカの耳に聞こえてきた。
「あれがカスティオールの娘ですか?」
「長女は赤毛ですから、おそらく第二夫人の次女かと思います」
「見栄えする子ですが、次女では意味がありませんね。長女殿は来ていないのですか?」
「第二夫人が名代のようです。ロベルト殿の意向かもしれません。まだ我らから隠されるおつもりらしい」
「婚約者も決まっていないですし、噂の赤毛嬢と話をしたかった御仁は、たくさんいたでしょう」
「スオメラの件もありますし、早い者勝ちですか?」
「流石にそうとはいいませんが……」
「そう言えば、コーンウェル家のイザベル嬢とフェリエ家のお嬢さんも来ていませんね」
「流石はエイルマー殿、他の王妃様との間でうまくバランスをとっている。そう言えば、フェリエ家のお嬢さんはご病気だったのでは?」
「この前、学園のお茶会で見かけました。完全に回復されたようです。母上に似てとても美しい……」
『誰も自分の踊りなど気にしていない』
会話の端々を聞きつつ、ため息をついたアンジェリカの目の前に、金色の液体で満たされたグラスが差し出された。気づけば、同じグラスを手にサイモンが立っている。
「疲れましたか?」
「ちょっと緊張しただけです」
「余計な人たちでいっぱいですからね。でもまだまだこれからですよ。これを飲んだら、また踊っていただけますか?」
「はい。よろこんで」
それを聞いたサイモンが、自分のグラスをアンジェリカのグラスへ近づけた。澄んだ音が辺りに響く。しかしアンジェリカの中では、踊りとは全く別の事が渦巻いていた。
結局のところ、これは白日夢と同じだ。今宵の踊りも、サイモンと自分が、まだ大人とは言い切れない年だから許されているだけ。
でもフレデリカお姉様がいなければ、決して夢ではなくなる。アンジェリカはホールの反対側へ視線を向けた。そこでは母のカミラが、誰かのお世辞に、まんざらでもない笑みを浮かべている。
『心配しないでお母さま。お母さまの望みは、私の望みよ』
有頂天のカミラを眺めながら、アンジェリカは自分に告げた。