追憶
目を覚ますと、部屋の中にパンの焼ける香ばしい匂いがした。マリは気を使って、ぎりぎりまで私を起こさなかったらしい。
昨日は体力の限界まで頑張ったせいか、余計なことを考えずにぐっすり寝れた。それどころか、マリに髪を洗ってもらっている途中で、何度か桶の中に顔を落としそうなぐらいでした。
「マリ、おはよう!」
ベッドから起き上がって、マリに声を掛ける。足首からふくらはぎにかけて痛みを感じるが、動けないほどではない。
「フレアさん、おはようございます」
マリも肩越しに声をかけてくる。真っ白なエプロンを着たマリが、手際よく朝食の準備をしているのを見ると、将来マリをお嫁さんにできる旦那さんは、本当に幸せ者だと思う。
「先に顔を洗って、着替えちゃうね!」
肌着を手に洗面所へ入った。パジャマを脱いで桶に水を汲む。水に手を浸すと、ありがたいことに、指が凍りそうなほどではなくなっている。だけど、鏡に映った自分の髪に、思わず手が止まった。
「何これ?」
ただでさえ癖のある赤毛が、まるでいばらみたいに私の上で渦巻いている。昨日の晩に香油の匂いを落とすため、何度も洗った影響らしい。いくらマリでも、これを何とか出来るとは思えない。出来たとしても、間違いなく遅刻です。
「マ……」
マリに声をかけようとして止めた。これは私の軽率な発言が引き起こした結果だ。ともかく髪ひもで縛り上げる。前世で八百屋をやっていた時は、これで何とかしてきたはず。そこからもれたアホ毛が、頭の上でさまよっているけど、そんなのは無視です。
続けて顔を洗おうとすると、肌着のひもがほどけて、私のさしてはない胸があらわになった。同時に、こちらを見ていた茶色い瞳が頭に浮かんでくる。
「覗きにくるだなんて……」
思わず口から声が漏れた。
「フレアさん……」
振り返ると、私を呼びにきたマリが、心配そうな顔で立っている。
「遅くなってごめんなさい。今日はひどすぎるから、髪を後ろに縛っていくね!」
部屋へ駆け戻ると、テーブルの上でパンと目玉焼きが湯気を立てている。
「いただきます!」
「申し訳ありませんでした」
さっそく朝食を頂こうとした私の前で、マリがいきなり頭を下げた。
「あの場で、遠い所へ送ってやるべきでした」
マリが窓の方へ、殺気のこもった視線を向ける。その先には男子宿舎の赤い屋根が見えた。ちょっと待ってください。そこへ忍び込む気じゃないですよね?
のぞきは重罪ですが、命を取るほどのものではない気する。そう言えば、前世でも近所の悪ガキたちが、私の湯あみを覗きにきてましたね。まあ、父にどやされるか、首根っこつかまれて、叩き出されていましたけど。
「マリ、まだ子供なんだよね」
私の発言に、マリが当惑した顔をする。
「イサベルさんとかはすごく大人だけど、それでもまだ大人とは言い切れない年なんだと思う。と言うか、アンもそうだけど、周りが無理やり大人にさせすぎなのよ」
「貴族の家に生まれると言うのは、そのようなものだとは思いますが……」
「ロゼッタさんに言われて気づいたの。やっぱり前世で冒険者をやっていた時の考え方で、物事を見ているときがあるじゃない。でもこの世界はこの世界で、前世の世界とは違うのよ」
「そうですね。少なくとも黒き森はないですし……」
「お酒もそう。前世では、明日生きているかどうかも分からないから、楽しむときは楽しむと言うのがあったけど、ここではあと腐ればかりを気にしている」
「貴族の家に生まれた者の宿命ですね」
「宿命か……。マリ、あたなと私の出会いもそう」
「はい。間違いなくそうです!」
私のつぶやきに、マリが目を輝かせる。
「前世で、私たちが初めて試合をしたときのことを覚えている?」
「はい。私はフレアさんを、いえ、風華さんを本気で殺そうと思ってました」
本当にそうです。めちゃくちゃ怖かったですよ。
「美亜さんが止めてくれなかったら、間違いなく殺されていたと思う。試合の後で、才雅君や朋治君たちと残念会をしたの」
「残念会ですか?」
「うん。本当は勝ったら、多門さんが食事代を出してくれると言う話だったんだけど、なぜか残念会をしろと言って、お金をだしてくれたの。でもその時にとんでもないものを見たのよ」
「とんでもないもの?」
私の発言に、マリが首をひねって見せる。
「私たちがいた酒場の床で、多門さんが酔いつぶれて寝ていたの!」
「多門さんがですか?」
マリがびっくりした顔で私を見る。
「あの、いつも偉そうなことを言っている多門さんが、床で大の字になっているんだから、こっちもびっくりよ」
「それでどうしたんですか?」
「もちろん介抱してあげた。ほら、監督官って偉いんだって、いつも言っていたじゃない。そのお偉い監督官様が、床に寝ているなんてやばいでしょう。でもそれだけじゃないの。その時に、私を美亜さん以外の女性と見間違えたのよ!」
「一体どこの誰と見間違ったんです!」
マリが私へ詰め寄ってくる。あの~、私が悪いことをした訳ではないんですけど……。でもその気持ちはよく分かります。
「知らない人だった。男って、あの多門さんでもそうなんだよ。あの二人も、女の子の体に興味を持ち始める年ごろじゃない。一の街では、近所の悪ガキたちが、よく湯あみを覗きに来ていたし……」
「そいつらも全員抹殺すべきです!」
話が元に戻ってますよ。
「そうなんだけどね。だから今回の件も、いくら大人びたことを言っていても、まだ男の子なんだということで、なかったことにしてあげようと思うの」
「甘すぎだとは思いますが、フレアさんがそうおっしゃるのなら仕方がありません」
マリは不満げだが、一応は王子ですので、暗殺などされると困ります。それに気づいたことがある。
ロゼッタさんがあのタイミングで現れたのは偶然なんかじゃない。ロゼッタさんもあの場にいたのだ。だから、私がオリヴィアさんの飲酒について、何も説明しなくても、すべて分かってくれてた。
前世の私は、成り行きで冒険者になっただけで、みんなの足を引っ張るだけだった。それでも白蓮や百夜、マリや多門さんに美亜さん、色々な人に守ってもらった。この世界でも同じだ。私は何の力もない、たまたま貴族の家に生まれただけの娘だけど、ロゼッタさんをはじめ、色々な人に守ってもらっている。
前世では何も返せなかったけど、現世ではいつか恩返しが出来るだろうか? いや、今度こそ出来ないといけない。お風呂場でのぞかれたぐらいで、右往左往していてはいけません!
でも何であいつらは風呂を覗きに来たんだろう? そもそも女子寮のお風呂は修理中で、私たち以外には風呂に入る予定はなかったから、誰かの裸を見るのが目的だったと言うことになる。お邪魔虫は間違いなくオリヴィアさんだ。嫌味男はイサベルさんですね。
女の私でも後光がさして見えるくらいです。覗きたくなるのは当然か。でも、なんかしらないけど、ものすごく腹が立つ。
「マリ、もちろんただで許すつもりなどありません。絶対にぶんなぐってやります!」
「はい、フレアさん。当然です!」