匂い
イエルチェは窓際に置いた椅子から、天高く昇った二つの月を眺めていた。その横ではオリヴィアが、ベッドの中で小さな寝息を立てている。その姿を眺めながら、イエルチェはガラスの小瓶を月の光にかざした。瓶の中では黒い靄が、青白い光を浴びてうごめいている。
「人の魂って、本当に面白いのね」
靄を眺めながら、イエルチェは謎の笑みを浮かべた。その声に反応したのか、オリヴィアが、薄目を開けてイエルチェを眺める。イエルチェは小瓶をエプロンのポケットに押し込むと、ナイトテーブルの上に置かれた水差しへ手を伸ばした。
「お水をお飲みになりますか?」
オリヴィアは水が入ったコップを受け取ると、わずかに顔をしかめて見せる。
「少し苦いそうですが、痛み止めをお飲みになった方がいいと思います」
「別にどこも痛くないわよ」
その声に、イエルチェは肩をすくめた。
「なんだ、もう一人のあなたなのね」
「私は私、一人だけでしょう?」
「そう言うことにしておいてあげる。でも二日酔いなら、さっさと痛み止めを飲んだ方がいいと思うけど?」
「酔ったふりをして、あの人の唇を奪おうとしたのに、変な邪魔が入ったのを思い出して、腹を立てただけ」
「あら、あれは演技だったの?」
「私の体のほとんどはあなたなのよ。あれぐらいのお酒で、おかしくなったりすると思う?」
イエルチェがオリヴィアへ、含み笑いを漏らす。
「あの程度のお酒で、おかしくなったりはしないわね」
「それよりも、せっかくの機会だから、あなたに聞きたいことがあるの」
「お酒の飲み方? それとも、女の口説き方かしら?」
「どっちも外れ。叔父様はどうして私に肩入れするの?」
「あなたの事を、かわいそうとおもったんじゃない」
それを聞いたオリヴィアが、顎に手を当てつつ、首を傾げて見せる。
「私も前はそう思っていた。母と同じで、かわいそうな私を助ける自分に酔いたいんだと。でも、最近は違う気がするの」
「何が違うのかしら? ちょっと興味があるわね」
「イサベルさんのお茶会で、初めて叔父様をよく見たの。以前はベッドから見上げていたから気づかなかったけど、叔父様って、とってもお父様に似ている」
「そう?」
「髪型とかは違うけど、顔のつくりとか、体のつくりは本当にそっくり。それに髪と目の色もね。私の本当のお父様は叔父様じゃないの?」
「なんだ、そんなこと? あなたの両親なんて興味はないし、どっちでもいい話よ」
「あなたにも関係ある話だと思うけど? あなたは人じゃない。だけど、魂があるように感じる」
その言葉に、イエルチェが当惑した顔をする。
「犬や猫にだって感情はあると思うけど、自分が何者かを問いかけたりはしない。それをするのは、魂を持っている人だけ。あなたからはそれを感じる。でも、それはあなた自身の魂?」
オリヴィアはそこで口を閉じると、イエルチェの茶色の瞳を見つめた。イエルチェは何も言い返さない。無言で月の光を浴びている。
「無言は雄弁ね。それに、あなたからは血の匂いを感じる。私たち人をたくさん食べてきたのかしら? でも魂は肉体に宿っている訳ではないし、それが理由とは思えない」
オリヴィアのつぶやきに、イエルチェは大きなため息をついた。
「あなたの父親がローレンツかどうかも、私が人食い女かどうかもどうでもいい話だけど、あの男と同じで、理屈っぽいのは確かね。私はもう休むから、あなたも寝なさい」
「逃げるの?」
それを聞いたイエルチェの目が、月の光を浴びて不気味に輝く。
「逃げる? 私が?」
「せっかく月もきれいな夜だから、もうちょっと付き合ってくれないかしら。叔父様のところのニコライとサンドラの双子だけど、あの子たちもあなたと同じね。人のふりをした別の何かよ」
「どうしてそう思うの?」
「私は鼻が利くみたい。あなたと同じ匂いがした。なぜ叔父様はあの二人に、自分の子供のふりをさせているんだろう?」
オリヴィアが人差し指を顎に当てる。
「きっと誰でもいいわけじゃないのね。もともとは叔父様の子供だったのを、ニコライとサンドラが人のふりをするために乗っ取った。だから、あなたの半分である私も、間違いなく叔父様の子供よ」
「まだお酒がのこっているんじゃない?」
「ごまかさないで。これには証拠があるの」
オリヴィアはナイトテーブルの引き出しから、一通の便せんを取り出した。
「母が性懲りもなく送ってきた手紙よ。叔父様の侍従長のオルガが妊娠したと書いてある。叔父様の子供みたい。ふしだらな女だって、ものすごく非難している。それと、サンドラが病気になったとも書いてあった」
オリヴィアが便箋をひらひらと振って見せる。
「これが一緒に起きたのが、何よりの証拠じゃない。サンドラに問題があって、別の体が必要になった。それに母は昔からオルガの事がきらいだったけど、やっと腑に落ちた。母はオルガに嫉妬していたのね」
「あのね、私はあなたを乗っ取っていないけど。それどころか、命を助けてあげたのよ。そんな妄想より、ちょっとは感謝してくれない?」
イエルチェの問いかけに、オリヴィアは素直にうなずいた。
「もちろん感謝しているわよ。おかげであの人にも会えた。でもニコライたちと違って、私を完全に乗っ取らないのは、何か目的があるのね。だとすると、学園に私たちを送り込むためと言うことになる」
そう告げると、オリヴィアは辺りをぐるりと見回した。
「入学して分かったけど、ここは間違いなくお化け屋敷よ。あの目玉お化けなんかより、もっと得体のしれない何かがいる。そうでしょう?」
イエルチェがオリヴィアへ、再び大きなため息をつく。
「何も答える気はないけど、これだけは言えるわね。理屈っぽいところだけじゃない。あなたはあの男にそっくり」
それを聞いたオリヴィアが、口に手を当てて笑い声を漏らした。
「それって、答えている気がするけど? それともう一つ」
「まだ何かあるの?」
「お風呂に入って気づいたの。イサベルさんからも、あなたたちと同じ匂いがしたのはなぜかしら?」