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助け舟

 ゼェ、ゼェ……。


 自分の息が直接耳に響いてくる。なんでこんなにも荒い息をしているかと言えば、意識のないオリヴィアさんを背負って、上り坂を歩いているからです。行きでお風呂場までの道のりが近いと思ったのは、完全に私の勘違いでした。めちゃくちゃ遠い!


「やはり、みんなで交代したほうが……」


 イサベルさんが心配そうに声をかけてくる。イサベルさんたちは交代で背負うと言ってくれましたが、交代などしていると、いつ宿舎につくか分からない。


 マリなら背負えるだろうけど、彼女にはこれ以上の面倒事が起きないよう、周囲の警戒をお願いしていた。


「毎朝、荷車を引いていましたから、これぐらい大丈夫です」


 大根や葉物は本当に重い。それに比べたら、オリヴィアさん一人ぐらい、何とかなるはずです。


「荷車をですか?」


 イサベルさんが驚いた顔をする。またしても、心の声が漏れていた様です。


「今の発言は忘れてください」


「フレアさん、宿舎が見えてきました!」


 前を進むマリの声が聞こえた。顔を上げると、宿舎の明かりが見えている。


「マリ、例のものをお願い!」


 小瓶を手に、マリが私の元へと駆け寄ってきた。


「本当によろしいのですか?」


「他に手はないと思う。遠慮なしにいって!」


「それでは、やらせていただきます」


 大きく深呼吸をして息を止める。次の瞬間、液体が私の頭上めがけて降り注いできた。それを見たイサベルさんたちが、数歩後ろに下がる。


 ゲホゲホゲホ!


 息を吸った瞬間、思いっきりむせた。強烈な臭気に、めまいがしそうになる。


「お、お酒の匂いは消えましたか?」


 この場にいる全員がうなずくと同時に、顔を引きつらせた。私が何を被ったかと言えば、髪につける香油だ。


 爪の先ほどもあれば十分なやつを、小瓶ひとつぶっかけたのだから、多少の酒臭さなど、どこかへ飛んでいく。でもこれで終わりではありません。ここからが本番です。


「帰宿届を出します」


 イサベルさんが、玄関横にある当直室の扉を叩いた。


「イサベル・コーンウェル、フレデリカ・カスティオール、オリヴィア・フェリエの三名並びにその付き人です。ただいま、旧宿舎から戻りました」


「はい!」


 当直の上級生が、扉の向こうから顔を出した。だが、思いっきり顔をしかめて見せる。


「なんの匂いですか!?」


「すいません。香油の瓶の口が外れてしまい、思いっきり被ってしまいました」


 小さく舌を出して見せる私に、上級生が「はあ?」と言う顔をして見せる。しかし、私がオリヴィアさんを背負っているのに気づくと、その顔を心配そうに覗き込んだ。


「この匂いのせいで、具合が悪くなったのでしょうか?」


 上級生の発言に、その手があったかと思いつく。この匂いを嗅ぎ続けたら、間違いなく具合が悪くなる。でも、今さら段取りを変える訳にもいかない。


「湯あたりをされたみたいです。横になれば、すぐによくなると思います」


「意識は?」


「オリヴィアさんとは、先ほどまで会話をしていました。お疲れみたいで、フレデリカさんの背中で寝てしまったようです。このまま部屋へ連れて帰ります」


 イサベルさんがうまく話をつないでくれた。これで何とかなる、そう思った時だ。


「すぐに医務室へ連絡します」


 そう告げると、呼び鈴へ手をかけようとする。医務室に連絡されてしまったら、どんなに匂いでごまかそうが、オリヴィアさんの飲酒がばれてしまう。


「医務室のお手を、煩わせるほどではないと思いますが?」


 イサベルさんの説得に、上級生は首を横に振った。


「その判断を私たち生徒で行う訳にはいきません。それにこの様な場合は、すぐに医務室へ連絡する規則になっています」


「なんの騒ぎでしょうか?」


 不意に背後から声が聞こえた。振り返ると、真黒な詰襟の服を着た女性が立っている。


「ロゼッタさん!」


 ロゼッタさんは私の呼びかけを無視すると、上級生の前へ進み出た。


「ロゼッタ先生、一年生が風呂場の利用で外出したのですが、具合を悪くしたらしく、医務室へ連絡を取るところです」


「私に見させてもらってもいいかしら?」


 ロゼッタさんが、オリヴィアさんの首元に手を当てる。


「脈は安定しているわね。少しほてりがあるけど、湯あたりでもしたのかしら?」


「はい、そのようです」


 私の答えに、ロゼッタさんは頷いた。


「部屋まで運んで、様子を見ることにしましょう。フレデリカさん、二階ですが、このまま運べますか?」


「はい、もちろんです」


 上級生が、当惑した顔でロゼッタさんを見る。


「医務室への連絡は、どうしましょうか?」


「クラウス先生には私から連絡します。心配は要りません。薬師の資格はもっていますし、実際のところ、医務室の処方箋の大部分は私が出しているのです」


 そう答えると、ロゼッタさんはいつもの小さな手帳に何かを書き留めた。そして宿直室の窓の結露に、複雑な幾何学模様を描いていく。その手が止まった瞬間、派手な赤色をした小鳥が飛び出してきた。


 いや、小鳥ではない。目は4つあるし、羽が6枚もある。魔法職が使う連絡用の使い魔だ。使い魔はロゼッタさんから手帳の切れ端を受け取ると、いずこかへと姿を消す。


「ではフレデリカさん。混合戦の練習で、どのぐらい鍛えたのか、見せていただくことにします」


「はい、ロゼッタさん。まかせてください!」


「フレデリカ様、私が代わります」


「マリ、大丈夫よ」


 ロゼッタさんに頼まれたのは私です。それに私の責任でもある。とは言え、足に震えが来ているので、気合で一気に昇らないといけません。


 タァ――!


 女子らしからぬ掛け声と供に、一気に螺旋階段を駆け上がると、イエルチェさんが開けてくれた扉の先へと飛び込んだ。花柄の刺繍がされた、いかにも女の子らしいベッドの上へ、オリヴィアさんを降ろす。


「ご苦労様でした。あとは私が見ますので、イサベルさんはお部屋へお戻りください」


「ロゼッタ先生。ここで失礼させていただきます」


 イサベルさんが頭を下げて退室する。それを見届けると、ロゼッタさんはベッドの横の椅子へ腰をかけた。オリヴィアさんの腕をとって脈を測る。続けて油明かりを手に、オリヴィアさんのまぶたへ手を添えた。


「疲れて寝ているだけのようです。夜中にのどの渇きを訴えるかもしれません。イエルチェさん、水の用意をお願いします。マリアンさん、フレデリカの部屋に置いてある私のカバンを、持ってきてください」


 二人に告げると、ロゼッタさんは私の方へ顔を向けた。


「自分の常識が、他人にとっても常識だとは思わないことです。時として、思いもよらぬ失敗につながります。ですが、混合戦で鍛えた効果はあったみたいですね」


「はい!」


「カバンをお持ちしました」


 ロゼッタさんはマリから黒いカバンを受け取ると、小さな薬包を取り出した。それを水差を持ってきたイエルチェさんへ差し出す。


「もし、頭痛や吐き気を訴えるようなら、これを飲ませてください。少し苦いですが、楽になると思います」


「ありがとうございます」


 薬を受け取ったイエルチェさんが、深々と頭を下げる。


「疲れたでしょうから、今夜の補講はお休みにしましょう。それと髪をよく洗ってください」


 そう告げると、ロゼッタさんはわずかに顔をしかめて見せた。

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