私
「私は一体誰なのだろう?」
私は自分が書いた日記を前に置くと、大きく溜息をついた。これを書いたのが、自分だという事はよく分かっている。
そこに書かれている事の多くは、すでに忘れ去っていたものが多いが、思い返そうと思えば、庭の菫の花が日の光を受けてきれいだったことや、ロゼッタさんに叱られて、人知れず涙を流した事など、色々と思い出すことだって出来る。
つまり自分は間違いなく「フレア」だ。カスティオール家の長女であり、実際はお父様の次女であり、12歳のお披露目の時に、誰にも声を掛けられることなく、壁際でじっと立っていた女の子であることに、間違いない。
だけど、今この時に頭の中で何かを考えているのは、この日記を書いた「フレア」と同一人物ではない。世の中にはあれやこれやめんどくさい事が一杯あって、日々働かないと生きていくことが出来ないことを知っている、19歳までは生きていた別人だ。
もしかしたら、私がこの「フレア」といういたいけな、それでいて世間を全く知らない女の子を、乗っ取ってしまったのだろうか?
それならば、この日記に書いてあることを覚えている訳はない。ロゼッタさんは怖さと同時に、この人が私に注いでくれる優しさも、その手の温もりも思い出す事が出来る。
コリンズ夫人の、この世のものとは思えない小言の山も、それが私の事を、心から心配してくれているからだと言うのも理解している。
それに私の継母であるカミラお母さまが、私の事をとても疎ましく思っていることも……。
きっと私は遠いところに行く前の記憶を、取り戻しただけなんだろう。13歳、もうすぐ14歳だが、19歳の記憶を取り戻すというのは、とてもちぐはぐな気がする。
もしこれが、60歳のおばあさんの記憶を取り戻したら、これからおきる人生のあれやこれやを全部思い出して、もう一度それをやり直せることに万歳するのだろうか?
それとも鬱陶しくて、そのような運命に対して呪いの言葉を吐くのだろうか?
この年齢差だと微妙過ぎてよく分からない。ただし、私の13歳とフレアの13歳は天と地程も違う。
13歳の私は、家業の八百屋の店先に立って商売をして、仕入れや売り上げの事を毎日必死に考えていた。荷馬車を引いて行商にも出かけていた。
だけどフレアにとっての13歳は……私には全く知らない世界の13歳だ。庭の花がいつ咲くのかを心待ちにし、手入れが行き届かなくて荒れる花壇に心を痛め、ロゼッタさんの出す問題がよく分からなくて、途方に暮れている……。
「なにこれ!?」
思わず口から声が漏れた。人生そんな生やさしいいもんじゃありません。完全に舐めまくりです!
八百屋の私だって、領地の動乱に巻き込まれた挙げ句、冒険者なんてものになって、マ者と切った張ったすることになったんです。人生いつ何時、何が起きるか分かりません!
でも悪い事ばかりでもありません。私だって蝶よ花よと育てられれば、「フレア」のような心優しい、それはそれは穏やかな人になれた、という事です。
つまり素の私は、そんな心穏やかな存在だったという事です。出来ることなら、前世の嫌味男たちに見せつけてやりたいぐらいです。もしかしてこの記憶を思い出したという事は、私、フレアが何かに薄汚れてしまったと言う事?
『そんな事はありません。遠いところに送られる前でも私は清く正しい乙女でした!
『そうかな?』
小刀ぐらい投げていたような気もするけど……。乙女であったことに、変わりはありません!
ある男に騙されて、冒険者なんて者になったのが間違いでした。結果、森でマ者に殺される以前に、良く分からない陰謀に巻き込まれ、私より遥かに優秀な弟子と一緒に殺されてしまっただけです。
ここに生まれて来る前の私は、何も悪い事など大してしていない、いたいけな少女です。フレアと何も変わりません。
それに何ですか?
妹のアン、この子自体は素直で頑張り屋さんでいい子なんですけどね。この子の代わりに神殿に行って、一生涯神に祈りを捧げて過ごす!?
寝言は寝て言えです!
フレアとしての私はいじけて、それでいいなんて思っていたみたいですが、ちょっと変なものが混じった私からすれば、そんな人生など到底受け入れられません。
どう考えても、神様は私に意地悪です。今回は食べ物と寝る所については、今のところ困っていないみたいですが、それでも色々と意地悪されています。そんな奴に祈りを捧げるんですか!?
勘弁してください!
どちらかと言えば、そっちの方から私の方まで出向いてきて、地面に頭をこすりつけて、謝っていただきたい!
ともかく、この状況を何とかしないといけません。先ずは実季さんと合流しないといけないですし、彼女からこの世界についての色々な事を、特にパンは一切れいくらなんだとか、それを稼ぐにはどこでどれだけ働かないといけないのかとか、マ者はいるのかとか色々な事を聞かないといけません。
そもそも私、フレアは色々な事を知らなすぎです。ロゼッタさんからこの世界の歴史や地理なんかを教えてもらっているはずですが……何も、何も覚えていません。
お前はよく分からないとか言って、日記に染みを作る前に、もっと真剣にすることがあったんじゃないの? そう自分を説教したくなってしまう。
ロゼッタさんは魔法職だった人だ。この人がすごい力を持っているのは私、フレアでも分かっている。でもそれがどう言うものなのかも、全く分かっていません。庭の薔薇とか菫もいいですけどね。もっと大事なことがあるでしょう。
ロゼッタさんはマリアンさん、この世界での実季さんにお礼のあいさつに行くと言っていたけど、私が連れて行ってもらえる可能性は限りなく低い。
彼女をここに招待するなんてのは、私がコリンズ夫人に土下座してお願いしても間違いなく無理だ。私、フレアはその辺りに壁があることぐらいは分かっている。
でも何とかしなくてはいけない。こんなところで日記を見て溜息をついていても何も解決しない。
今はただ、行動あるのみです!
* * *
「マリ! どこに行ってたんだ!?」
娘のマリアンに対して、酔っ払いの父が声を掛けた。
「どこでもいいでしょう!」
「そんな事より頼んだ酒はどうした?」
マリアンの視線の先、隙間だらけの小屋の床には空の酒瓶が大量に転がっている。捨てても捨ててもまるで虫のように増えていく。それはマリアンに自分がおかれた境遇について、その現実をまざまざと見せつけていた。
「付けが溜まりすぎていて売れないってさ。それを全部返すまでは一滴も売らないと言われたよ」
酒屋の親父は、マリアンが酒の「さ」の字を出す前に手を横に振って断った。
「何だよ。この前会った時にちゃんと伝手はあるって言っておいたのに……」
マリアンの父親、いや、マリアンからすれば単なるよっぱらいの中年男は、マリアンの側によると、鼻を寄せてその匂いを嗅いだ。マリアンは慌てて父親から離れた。例え血がつながっていたとしても、この男に寄られただけで鳥肌が立ちそうになる。
「お前、汗臭いな。裏手に行って行水ぐらいしてこい。もうすぐこちらにモーガンさんが来る。それにズボンじゃ無くてちょっとは娘らしいかっこもするんだ」
そう告げると、父親はマリアンの体を下卑た目で眺めた。その視線は、とても父親が娘を見るものとは思えない。
「お前ももうすぐ14歳だ。男勝りでその辺の餓鬼どもをどなりつけるんじゃなくて、モーガンさんに、笑顔で酌の一つでも出来るようになれ」
「何ですって!」
マリアンは思わず声を張り上げた。モーガン? この辺りの顔役だ。そしてかつては母の手下をしていた男だ。その男に酌の一つ!?
「娘と言うのは親の役にたつもんだ お前があの人に気に居られれば、俺だって少しはいい顔が出来る」
そう言うと、父親は瓶の中に少しだけ残っていたらしい酒を、縁が欠けた杯に注いだ。
「どうした! さっさと行水に行ってこい!」
マリアンの心の中にほの暗い炎が灯る。酒屋に言っていた伝手と言うのは……もしかしてそれって……。こいつは私を、自分の一人娘を、モーガンの奴に愛人か何かで売るつもりだ!
「あんた、私を、娘の私を!」
「お前だって、ただでここまで大きくなったんじゃないんだぞ!」
マリアンは焦った。もちろんモーガンなんかの愛人なんてなるつもりはない。それよりも、モーガンなんかに売られてしまったら、どこに連れていかれるか分からない。
少なくとも、自由に外に出られる様な生活が待ってはいない。それではせっかく再会できたというのに、お姉さまに会えなくなってしまう!
それに私はあの人に謝らないといけない。あの人を守れなかったことを、私の命よりも大事なものを守れなかったことを!
最後の一滴までを、口を開けて飲み干そうとしている姿を見ながら、マリアンは考えた。そうだ。何で私はこいつの言う事を聞いているんだろう。私はお姉さまの剣に、本来の役割に戻らなくてはいけない。それを邪魔するこいつらは森のマ者と同じだ。
『ならば私のやることは一つだけだ……』
こいつらまとめて、排除すればいい。