曲者
「どうされたのでしょうか?」
イサベルさんが、心配そうに私へ声をかけてきた。その視線の先では、オリヴィアさんが、私の胸に顔をうずめたまま、苦し気に息をしている。
「湯あたりかもしれません」
長い間、お風呂に入っていなかったと、オリヴィアさんは言っていた。湯に慣れていなかったのだろう。でも、湯あたりするほど、長く入っていたわけでもない。
「オリヴィアさん!」
もう一度声をかけるが、やはり返事はなかった。このままでは、湯の中へ沈んでしまいます。私は抱きかかえるようにして、オリヴィアさんの体を支えた。
「床に寝かせます。イエルチェさん、シルヴィアさん、タオルを持ってきてください。足りなければ、私の着替えも使ってください!」
私の呼びかけに、イエルチェさんとシルヴィアさんが脱衣所へ向かう。
「ともかくお湯からださないと」
イサベルさんと二人で、オリヴィアさんの体を持ち上げるが、小柄なオリヴィアさんでも、意識のない人の体は本当に重い。
「こちらへ!」
脱衣所からタオルを持ってきたシルヴィアさんが、私たちに声をかけてきた。イエルチェさんにも手伝ってもらって、オリヴィアさんをその上に寝かせる。
「オリヴィアさん、フレデリカです。私が分かりますか?」
オリヴィアさんが薄目を開けて、私の顔をぼーっと見る。
「フレアさん……」
オリヴィアさんの口から言葉がもれた。よかった。意識はある。
「イエルチェさん、お水を持ってきてください」
「はい、すぐにお持ちします!」
水を飲んでもらって、ほてった体を冷やすのが一番です。そう思った時だ。オリヴィアさんが、不意に私の首に腕を回わすと、自分の方へ引き寄せた。
「お風呂って、とっても気持ちいいですね」
口元に謎の笑みを浮かべながら、目と鼻の先にある私の顔を、とろんとした目で見つめる。
『ちょっと、色っぽすぎやしませんか!?』
そんな目で見つめられると、女の私でも変な気分になってきます。それになんだろう。オリヴィアさんの口から、嗅いだことのある匂いが漂っている気がする。
それが何かを思い出す前に、水筒を手にしたイエルチェさんが、脱衣所から飛び出してきた。
「た、大変です。お酒が空になっています!」
それです。オリヴィアさんから漂ってくるのは、間違いなく酒の匂いです。
「お酒の持ち込みは、禁止ではないのですか?」
イサベルさんの問いかけに、イエルチェさんが困った顔をした。
「おっしゃる通りなのですが、侍女の一部にはこっそり持ち込む者がいまして、その方に交渉して譲ってもらいました」
「でも、どうしてお酒なんか?」
「理由はよく分かりませんが、お風呂に入るのに必要だからと、お嬢様から承りました」
思わず目が点になる。それって、私がお風呂で一杯やらせて頂きたいと言ったのを、オリヴィアさんが真に受けたと言うことですよね? しかも、水筒一つを空にして、お風呂に入ってしまっている。
「あぁ……」
オリヴィアさんが、どこかもどかし気に声を上げた。
「オリヴィアさん、気分が悪いとかありませんか?」
私の問いかけを無視すると、オリヴィアさんは私の顔をさらに自分の方へと引き寄せた。もう互いの唇が触れそうなぐらいに近い。
「大好きです」
私の目をじっと見つめながらつぶやく。あのー、どこかの誰かと間違っていませんか? と言うか、完全に出来上がってますよね?
「ど、どうしましょう?」
イサベルさんがうろたえた顔で私を見た。当たり前と言えば当たり前ですが、酔っ払いの対処なんて、イサベルさんに出来る訳がありません。ここは前世で、酔っ払いの父親の相手をしてきた私が、何とかしないといけない。
「ともかく、水を飲んでもらって、酔いがさめるのを待ちます」
そう答えて、首に回された手を振りほどこうとしたが、がっちりつかまれ、振りほどくことができない。イサベルさんたちの前で、素っ裸のオリヴィアさんと、くみつほぐれつなんて、いくら何でもやばすぎです。そう思った時だった。
「曲者!」
闇の向こうからマリの声が聞こえた。同時に、金属同士がぶつかる、甲高い音も響く。無理やりオリヴィアさんの腕を振りほどき、林の奥へ視線を向けると、マリが投擲用のナイフを手に立っていた。
だけど、どこか様子がおかしい。ナイフを構えることなく、まるで彫像のごとく立ち尽くしている。でも、考えるのは後でいい。先ずはマリを助けにいく。
「マリ!」
私はイエルチェさんから陶器製の水筒を奪うと、それを手にマリのところへ走った。
「フレアさん、駄目です!」
そう叫ぶと、マリが私の前へ立ちふさがる。
『一体何が起きているの?』
マリの肩越しに林の先をのぞき込むと、誰かが掲げたランタンの灯りが、とび色の瞳を照らし出した。その横では、おさまりの悪い黒髪をした男子生徒が、短刀を手に、ほけた顔でこちらを見ている。
「イ、イアン王子!?」
ちょ、ちょっと待って。さっきの金属音って、マリとお邪魔男がやりあった音!?
「フレデリカ嬢、これは事故だ。調査すべきことがあって――」
嫌味男が意味不明なセリフを口にする。
「風呂場に何の調査です!」
「ヘルベルトが見つけた秘文書に、この場所が……」
この男は一体何をほざいているのでしょう。どう考えても単なる覗きです。それ以外の何物でもありません。
私はその口に向かって、手にした水筒を投げつけようとした。だが誰かにその手をつかまれる。振り返ると、タオル一枚を巻いただけのイサベルさんが、私の手を押さえつけていた。
「フレデリカ様、こちらを!」
背後からシルヴィアさんが、私の体にもタオルを巻いてくれる。そうでした。こちらは一糸まとわぬ全裸でした。つまり、この二人に全てを見られたと言うことです。前世では白蓮にすら見せたことがないのに!
「イサベルさん、離してください。この覗き魔たちを、このままになどしておけません!」
二人の元へ突撃しようとしたが、イサベルさんだけでなく、マリやシルヴィアさんも含めて、3人がかりで押さえつけられる。
「フレアさん、いけません!」
「何がいけないんでしょう。さっぱり分かりません!」
「騒ぎになって人が来たら、もっと大変なことになります」
イサベルさんが私に、背後を見るように合図した。そこでは黒曜石の床に横たわるオリヴィアさんと、それを介抱するイエルチェさんの姿がある。確かに人が来てしまったら、オリヴィアさんの飲酒がばれてしまいます。
「どのような事情があるかは分かりませんが、すぐにここから離れていただけませんでしょうか?」
イサベルさんが、私を押さえつけながら、覗き魔たちに声をかける。
「イザベル殿、すまない。この件については後日、謝罪と釈明をさせていただく」
「早く行って!」
普段とは違う、イサベルさんの迫力ある声に、二人が林の奥へと去っていく。それを見届けると、イサベルさんは私の方を振り返った。
「フレアさん、さっきの事はすべて無かったことにしましょう。それよりも、オリヴィアさんを部屋へ連れて帰る方が先です」
「はい」
私は素直にイサベルさんに頷いた。先ずはオリヴィアさんを助けないといけない。オリヴィアさんの所へ戻ると、眠ってしまったらしく、浅い呼吸を繰り返していた。
その姿を見ているうちに、汗ではない何かが私の目から滲み出てくる。それはとっても悔しく、とっても悲しい雫になって、私の頬を滑り落ちた。