秘文書
夕刻の日差しが差し込む教室で、イアンは一人本を読んでいた。ほとんどの生徒が宿舎へ戻っているはずなのに、誰かがこちらへ近づく気配がする。イアンは本から顔を上げると、背後を振り返った。
「ヘルベルト、気配を消して近づくな」
「ばれていたか。俺もまだまだだな」
「バレバレだ。お前からは、いつもうっとうしい何かがにじみ出ている」
ヘルベルトは肩をすくめると、イアンが読んでいた本をのぞき込んだ。
「何を真剣に読んでいるのか、気になっただけだよ。ちょっと俺にも見せろ」
「いやだ」
「スオメラ語辞典!?」
隙をついて、本を奪い取ったヘルベルトの口から驚きの声が漏れる。
「今さらスオメラ語の勉強か? 使節がここへ来るのは来週の話だぞ」
ヘルベルトがあきれた声を上げた。イアンは何かを告げようとしたが、ヘルベルトが辞書の裏表紙に挟んだ小さなメモへ目を通すと、言葉を飲み込んだ。
「監視の目は?」
唇の動きではなく、喉の奥から声を出す。腹話術と呼ばれる技術だ。南区での一件以来、王子であるイアンにも、黒曜の塔の監視は続いている。
だが星振での監視は、「腕」としての力を使わない限り、音を拾うことはできない。故に監視者は唇を読むのに長けている。それを逆手に取った会話だ。
「大丈夫だよ。今は覗かれていない。だけど、なんで今さらスオメラ語の勉強なんだ?」
辞書を片手に、ヘルベルトが疑問の声を上げた。
「まさか、赤毛嬢への見栄じゃないだろうな?」
「馬鹿な事を言うな。これまでスオメラは、注意深く付き合う相手でこそあったが、クリュオネルが開けた大穴と霧のせいで、直接の接触はほとんどなかった」
「そうだな」
「しかしスオメラは新しい術式で、より航海を安全に行う方法を開発した。それに大々的に交易も開始しようとしている。それが何を引き起こすと思う?」
「スオメラ派だな」
「正解だ。これまで王室は第一王子と第三王子の実家のランド大公家と、第二王子の実家のマウリア公爵家が主流だった。それが母上を中心に、第三極が生まれることになる」
「青き血が流れる人たちだけじゃない。商会もてんやわんやらしいぞ」
「だろうな。本来なら、スオメラ派の筆頭はカスティオールだ。しかし、ロベルト殿は領地の件で、とても政治向きな話ができる状態じゃない。スオメラとの交易で成り上がりたいと思っている連中は、誰がそれを仕切るのか、誰を担ぐのかで腹の探り合いだ」
「お前だって、政治的には微妙な立場じゃないのか?」
ヘルベルトの問いかけに、イアンが辞書を軽く叩いて見せる。
「それ故のスオメラ語辞典だ。俺がスオメラに興味がないという顔をすると、むしろ野心があるんじゃないか、裏で誰かとくっついているんじゃないかと、余計に勘繰られる」
「貴族の座右の銘、先ずは疑えか……」
「こっちから興味があります。それも国内の利権ではなく、スオメラ自体に興味がありますと、はっきり見せてやった方が、変なものに巻き込まれない」
「やんごとなき人たちは大変だな。俺はお前の付き人ぐらいで丁度いい」
「俺なんかより、キース兄さんの方が大変だろう。正妻だけじゃなく、第二、第三夫人の申し込みだって山ほど来る」
「お前を含めて婚約が決まっていなかったのも、この為だったのかもしれないな。もっとも、婚約に関してはキース王子なんかより、お前の方が話題だ」
「はあ?」
イアンが、訳が分からんと言う顔をする。
「知らなかったのか? お前の婚約者は、フレデリカ嬢だと言う噂でもちきりだぞ」
「どうして俺があんな小娘と婚約するんだ!?」
思わず声を荒げたイアンへ、ヘルベルトは目配せをした。
「声を張り上げるな。運動祭から団体戦までの経緯を見れば、大多数の生徒がそう思うのは、別に不思議じゃないと思うがね」
「単なる腐れ縁だ。いや、呪いとでもいうべきものだ!」
「そうかな? 結構世話をやいているように見えるぞ。そう言えば、決闘騒ぎの時はつれなかったな」
「腕の立つ侍女殿もついている。あれぐらいは自分でなんとかできる話だ。俺がやったのは、事を荒立てぬよう、意見書を出したぐらいだよ」
「やっぱり裏では動いていたのか。ちなみにお前と赤毛嬢の件は、学園だけでなく、やんごとなき人たちの間でも話題になっている」
「一体どこをどうしたら、そんな話が出てくるんだ?」
「決闘騒ぎの件で、意見書を出したのはお前だけじゃない。セシリー王妃様も、内務省に対して意見書を出したらしい」
「今まで政治的な横やりは避けていたはずだ。そもそも、今回のスオメラの件だって、まるで何かを待っていたみたいに急すぎる」
「南区の件から、セシリー王妃様はどこか変わった気がするな。今までは自分の立場をはっきりさせない、どこか掴みどころのない感じだったのに、今回は赤毛嬢を自分のお気に入りだと宣言した。噂にならない方がおかしいぐらいだ」
それを聞いたイアンが、首を横に振って見せる。
「カスティオールとの婚約はない」
「どうしてだ?」
「父上がお許しにならない。父上は王家の人間がカスティオールとつながるのを嫌がっている。いや、恐れているのかもしれない」
それを聞いたヘルベルトが、驚いた顔をしてイアンを眺めた。
「気を付けろ。誰の口から陛下の耳に入るか分からないぞ。そもそも、何か根拠でもあるのか?」
「さっきの言葉は忘れてくれ。特に理由があるわけではない。俺が単にそう感じているだけだ。それよりも、話しはなんだ?」
ヘルベルトが鼻を指ではじいて見せる。どうやら辞書のページをめくれといっているらしい。イアンが裏表紙をのぞくと、茶色く変色した一枚の紙が挟まっていた。そこには短い文章と、雑な地図が書いてある。
「秘文書?」
イアンの口から当惑の声が漏れた。
「俺の部屋で見つけた。今は学園に王族が三人もいるから、お前の部屋は王族用の部屋ではなく、予備の部屋、いわゆる開かずの間だったところだ」
イアンが興味なさげに肩をすくめて見せる。
「まだ幽霊には会えていないな」
ヘルベルトはイアンの嫌味を無視すると、言葉を続けた。
「俺の部屋はお前の部屋と元は一つで、それを無理やり仕切って二つの部屋に分けた。だからめちゃくちゃ暗いうえに、結露で窓際に置かれたベッドが濡れてしまう。それでベッドを動かそうとしたんだが、それには備え付けの本棚を動かさないといけない」
「その結果がこれか?」
「そうだ。本棚の隙間からこれが見つかった。中身は見ての通り、『後世の者にこの秘密を託す』との一文と、学園内の地図が書いてある。それもかなり古いものだ」
「昔の学生のいたずらだろう」
「そうかな? 地図をよく見ろ」
イアンは雑な記号で書かれた地図を確認した。
「これは……」
「旧女子寮の裏手だよ」
「いたずら確定だ」
「俺も最初はそう思った。だが俺たちが学園へ入学してすぐに、何が起きたかは覚えているだろう?」
「旧女子寮の倒壊騒ぎ……。だけじゃないな」
「そうだ。人の精神に影響を及ぼす、得体のしれない術が使われた。学園ぐるみで、何かを無かったことにした」
それを聞いたイアンの目が、真剣なものへと変わる。
「『心の闇を映す者』を始め、人の精神に影響を及ぼす術自体は存在する。だがすべて禁忌扱いだ。それを使ったことがばれたら、ただじゃすまない。下手したら……」
「下手をしなくても死罪だな」
「まともな魔法職で、そんな術に手を出すやつはいない。いるとすれば、はぐれのやばい奴らぐらいだろう。その事件が起きた場所と完ぺきに一致しているんだ。単なる偶然とは思えない」
「学園の秘密だから、学園へ調査も依頼できない」
「そうだ。しかも間もなく剣技披露会で、セシリー王妃やスオメラからの使節がここに来る」
「その前に、俺たちでそれが何かを確認する必要があるか……」
イアンの答えに、ヘルベルトは深くうなずいて見せた。