悩み
授業前の教室には独特の緊張感と、かすかなざわめきがあった。私の横の席では、すでに授業を受ける準備を終えたイザベルさんが、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。背後からはオリヴィアさんが机に文房具を出す音も聞こえてきた。私も筆箱からペンを取り出すべく、指へ息を吹きかけようとした時だ。
「ん?」
メラミーさんとの決闘騒動の傷が、やっと癒えた自分の指を眺める。冬になると、私の指はトカゲと同じではないかと思うぐらい冷たくなるのだが、今日はそれが感じられない。
「どうかしました?」
背後から、オリヴィアさんの声が聞こえた。
「息を吹きかけなくても、指が冷たくないと思っただけです」
「そうですね。夜はまだ冷えますけど、日差しは大分暖かくなってきました。でもフレアさんが朝に指へ息を吹きかける姿が見られないのは、ちょっと残念な気もします」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。とってもかわいらしいお姿だと思っていました」
オリヴィアさんが真顔で答える。私的には、背を丸めて指に息を吹きかけているなんて、まるでおばあさんみたいでいやだと思っていたのですが、見え方は人それぞれの様です。
ともかく暖かくなってくるのはありがたい。でも暖かくなると、バラにつく虫たちとの戦いがはじまるんですよね。そう言えば学園にいる間、バラの世話はハンスさんに頼みっぱなしで大丈夫なんだろうか?
「何か心配事でも?」
私の顔を見たオリヴィアさんが怪訝そうな顔をする。
「実家のバラの花を思い出しました。そう言えば、学園に入学してからもう半年になるんですよね」
「はい。ですが、フレアさんやイサベルさんとお会いしてから、もう何年もたつ気がします」
「私もです!」
続けて、オリヴィアさんと初めて会った時の話を始めようかとした時だ。誰かが廊下をこちらへ歩いてくる音がする。慌てて前を向くと、たくさんの紙の束を抱えたメルヴィ先生が、まさによたよたという感じで教室に入ってきた。その背中からは、暗い何かがにじみ出ている。
「ハッセ先生が急用につき、この授業は自習とします」
「えっ、また自習ですか?」
あまりの自習の多さに、思わず声を上げてしまった。
「ハッセ先生はとあるとってもえらい方と、とある国の方々を迎える準備で、とても多忙を極めています。ちなみに私も寝る時間さえありません」
メルヴィ先生はそう告げつつ私の方へ視線を向けた。人の魂を食べる前の悪魔を思わせる表情を浮かべている。いくらハッセ先生からスオメラ関係者に認定されているとはいえ、これは私のせいではないですよね?
「私は教務に戻りますので、終わったら、日直が部屋まで課題を持ってきてください」
そう告げると、メルヴィ先生はすぐに廊下へと去って行く。その足音が聞こえなくなった瞬間、教室の中が小さなざわめきに包まれた。緊張が解けた生徒たちが、課題の内容やら、婚約者からの手紙などについて小声でしゃべり始めている。
私も前から回ってきた課題の紙を後ろのオリヴィアさんに回しつつ、今日のお昼をどこで食べようか相談をしようとした時だ。課題を受け取ったオリヴィアさんが、途方に暮れた表情で私を見た。
「いったい何を答えればいいのでしょうか?」
手元にある課題を見ると、設問が一つだけ書いてある。
「物を離すと地面に落ちます。でも地面は下には落ちていきません。地面はどうして下へ落ちないのでしょうか? その理由を書きなさい」
いかにもハッセ先生らしい、どう見てもなぞなぞとしか思えない問題だ。
「そうですよね。これは今までの中で、一番難しい問題な気がします」
隣の席のイサベルさんも、困った顔をして課題の紙をこちらへ向けた。
「いつものなぞなぞですよ。そんなに難しく考える必要はないと思います」
「そうでしょうか?」
「なぞなぞとして考えれば、ちょっとだけだと落ちるけど、いっぱいあると落ちないものなんだ? 答えは土みたいなもんです」
それを聞いたイサベルさんとオリヴィアさんが、驚いた顔をして私をじっと見る。
「フレアさん……」
あれ? ちょっと簡単すぎましたかね?
「天才です!」「素晴らしい答えです!」
二人が真剣な顔で私へ詰め寄ってきた。普段、ロゼッタさんからどつかれまくっている身としては、馬鹿にされているのではとすら思えるくらいです。
「フレアさんのおっしゃるだと思います。きっと物は互いにひかれあうのだと思います。それがいっぱいあれば、互いに引き合ってそこから離れなくなる。つまり落ちなくなるんです」
イサベルさんの解説に、思わず目が点になる。私のは単なるなぞなぞの答えですが、イサベルさんは互いに物が引き合うという説明が入っている。まさにロゼッタさんが求めるような答えそのものです。
「目からうろことはこのことですね」
オリヴィアさんも納得した顔をで頷く。
「はい。いつも自分たちが見ているものでも、その理が分かっているわけではない。ハッセ先生は、私たちにそれを考えるよう、課題を出されているのですね」
いや、ハッセ先生の意図まで考察できるイサベルさんこそ、美のみならず知恵を備えた女神の如き存在です。すべての男子生徒がその前の触れ伏します。思わず拍手しそうになったが、私の地獄耳が小さなため息をとらえる。見れば、オリヴィアさんが愁いに満ちた表情でうつむいていた。
これはこれで、世の男子生徒たちはこの美少女を救うためなら、崖から身を投げるような存在です。もしかして、登校途中にまたどこかの男子生徒でも現れたのでしょうか?
「オリヴィアさん、何か心配事でも?」
思わず前のめりになって聞いてしまう。
「はい。お二人に比べて自分の思慮の無さに、ほとほといやになります。それにお風呂の件もありますし……」
「お風呂?」
私の問いかけに、オリヴィアさんがはっとした表情をして見せる。本当は口にするつもりがなかった、心の声だったらしい。前世でやっとの思いで城砦へたどり着いた際に、世恋さんが貸し切りにしてくれたお風呂を思い出した。同時にとある居候にあわれもない姿を見られた嫌な記憶も思い出す。
「お風呂って、あのお風呂ですよね?」
「は、はい。そうです」
「どうしてそれが……」
私がそう口にしたところで、オリヴィアさんが困った顔をした。気づけば、教室中の人たちがこちらを注目している。
「それはそうと、お昼はいつものところで食べましょう!」
慌てて言いつくろって前を向く。だが私の頭の中はハッセ先生のなぞなぞではなく、どうしてオリヴィアさんがお風呂で悩むのか、そればかりを考えていた。




