決闘
マリの足元から、黒い霞のようなものが噴き出してくる。それがマリの体を覆いつくした瞬間、彼女の姿が視界から消えた。マリの力、「隠密」だ。
『マナを使うと言う事は、人が人でない者へ変わると言う事だ』
前世で自分の師匠にあたる冒険者の台詞だ。その言葉通り、今マリは、人ではない何かへと変わった。剣を構えた男性の動きが止まる。どうやら戸惑っているらしい。だがそのまま剣を大きく振り上げた。
もし彼が冒険者なら、その動きは明らかな間違いと言える。得体のしれない何かに出会った時に、するべきことはただ一つ、逃げることだ。決して立ち向かう事ではない。だが彼は守るべき者の守護者らしく、未知なる存在へ向けて、剣を振るった。
ドン!
大きな音が辺りに響く。気づくと、マリの持った鞘が、男性の厚い胸のみぞおちへ突き刺さっていた。男性の顔が苦痛にゆがむ。どうやらマリは地面を這うように彼の間合いの内に入って、それを叩き込んだらしい。
だがそれで終わりではなかった。マリは男性の膝をついて体勢を崩すと、後頭部へ向けて、思いっきり鞘の先端を叩き込んだ。
バン!
再び響いた鈍い音と共に、男性の体が地面へ崩れ落ちる。マリはその手から素早く剣を蹴り飛ばすと、鞘から剣を抜いた。そして剣先を延髄の急所の上へ、ぴたりと当てる。上がってきた朝日が、マリの剣を黄金色に染めていく。勝負あった。そう思った時だ。
ウォオオオオ!
突然獣のような咆哮が辺りに響いた。地面に倒れていた男性が、マリの剣を払いのけ、いきなりマリへ襲いかかろうとしている。マリは燕の様に身をひるがえすと、男性の拳を避けた。だが男性は剣を持つマリへ、そのまま突進していく。
「マリ!」
間一髪でマリが男性の体を避けた。男性はそのままつき進むと、薔薇の茨へ飛び込んだ。
「ライオネル!」
それを見たメラミーの口からも悲鳴が上がる。おかしい。何かがおかしい。とても人の動きとは思えない。そう思った時だ。男性の足元で、何かが蠢いているのが見えた。
『マナ!?』
一瞬そう思ったが、それは池の底に溜まった黒い泥のような姿をしている。それが男性の体を這い上がり、まるで操り人形みたいに、男性の体を操っていた。こ、これは……。
「マリ、これって!」
マリが私に頷く。
「神もどきです!」
幻覚ではない。マリにも見えている。あまりに突然の事に、茫然とする私の所へ、マリが駆け寄ってきた。
「フレアさん、アレは私が押えます。すぐにここから逃げて――」
ウォオオオォォ!
マリが話し終える前に、再び咆哮が聞こえてきた。そしてメリメリという、何かが裂ける音も響いてくる。
ブン!
続けて大きな風切り音がして、大きな影が宙を舞うのが見えた。神もどきに憑りつかれた男性が、垣根の薔薇を根こそぎ引き抜いて、投げ飛ばしてくる。マリが覆いかぶさるように、私の体を地面へ押し付けた。
ドン、ドン、ドン!
地面を伝わって、大きな振動が伝わってくる。垣根の根元にあった花壇の石も、バラバラと辺りへ降り注いだ。
『そうだ!』
ローナさんとメラミーはどうなっただろう。慌てて体を起こすと、辺りにあるのは、見る影もなく荒れ果てたバラ園だ。その向こうで、ローナさんが地面へ倒れている。その横に彼女も倒れているのが見えた。
どうやら彼女がローナさんの体を突き飛ばして、二人で茨を避けたらしい。だが気を失っているのか、全く動こうとしない。
「マリ、ローナさんたちを――」
フゥ――、フゥ――。
そう声を上げた私の耳に、荒い息が聞こえてきた。バラの茂みを抜け出した男性が、目を血走らせ、口を大きく開けて、私たちの前へ立ちはだかっている。
地面から引き抜かれた、バラの茂みに囲まれて、とても逃げられそうにない。それにローナさんたちも助けないと。
「マリ、何とかけん制して。私はローナさんたちを助けに行く」
「フレアさん、危険です。今すぐここから逃げるべきです」
マリが冷静に私へ告げる。でもここから逃げて、教室の方へ向かえば、アレはもっと大勢の人を、支配してしまうかもしれない。
『どうすれば――』
そう思った時だ。
『私のバラ園を荒らすなど、許しません!』
頭の中に声が響いた。やっぱり私には、色々と変なものが混じっているらしい。しかも急に視界がぼやけてきた。はっきりとしない視界の先で、自分が手を上げたのが見える。
『消えなさい!』
再び声が聞こえた。次の瞬間、目の前が真っ赤に染まる。もしかして、知らないうちに怪我をして、その血が目に入ったのだろうか? そう思えるほどに真っ赤だ。
「フレアさん!」
「マ、マリ?」
マリの声に我に返った。目に見えるのは、朝日に染まる荒れ果てたバラ園だ。あの真っ赤に見えた世界はどこかへ消えている。
「みんなは!」
私は慌てて辺りを見回した。視線の先では、男性が大の字に倒れており、神もどきの姿はどこにもない。その向こうで、ローナさんと彼女が、地面へ横たわっているのが見えた。
「まだ危険です!」
そう告げたマリが、剣を手に、男性の元へと歩いていく。ちょっと待ってと、マリへ声を掛けようとした時だった。
「お願い、待って!」
私の耳に、彼女の叫び声が聞こえた。