思惑
「フレデリカは眠った?」
フレデリカの寝室から出たマリアンは、そう自分に声を掛けてきた人物へ、丁寧にお辞儀をした。その先には黒い質素なワンピースを着た女性が座っている。
「はい。頂いたお薬が効いたようです」
「それはよかった。あのまま朝まで泣き続けていたりしたら、体に障ります」
そう告げると、ロゼッタはテーブルに置かれた、見事な装飾がされた一振りの短剣を指さした。
「ハンスに屋敷から持ってこさせました。明日はこちらを使ってください。あなたの体格なら、ちょうどいいと思います。」
「このような大切なものを、私ごときが使ってもよろしいのでしょうか?」
「カスティオールの開祖が使っていたものだそうですが、遠慮はいりません。このような時以外には、使い道のないものです」
「承知いたしました。お預かりさせて頂きます。それとロゼッタさん、一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「私で答えられることであれば」
「この絵を描いたのは、誰でしょうか?」
「子供の喧嘩に見せかけてはいますが、裏で手を引いているのは、その先にいる大人たちでしょう」
「その者の首こそ、この剣で切り落としてやりたく思います」
マリアンはそうつぶやくと、ランタンの明りに輝く剣を見つめた。あの人をはめようとした奴など、この世に存在することなど許せない。
「その者たちを、そのままにしておくつもりはありません。必ず報いは受けさせます」
そう告げるロゼッタの瞳の冷たさに、マリアンは恐れおののいた。あの日、彼女が自分に告げた言葉は正しい。あの人に関する限り、自分と彼女は似た者同士だ。
「それよりも、明日の件は本当にいいのですね?」
「おまかせください。決してフレデリカ様に、ご迷惑はおかけいたしません。それに――」
「それに?」
「ご存じだとは思いますが、私の手は既に血で汚れています」
ロゼッタがマリアンへ小さく頷く。そして立ち上がると、扉へ手をかけた。
「骨にヒビは入っていない様ですが、明日の朝も、飲み物に痛み止めは入れた方がいいでしょう」
そう告げると、静かに部屋を出て行った。
「ライオネル、大丈夫よね。あんな小娘に負けたりしないわよね」
メラミーの問いかけに、ライオネルは髭を蓄えた顔へ、苦笑いを浮かべて見せた。
「もちろんだ。お前を守るために剣を学んできた。それともあの少年の方が、よほどに役に立つと思っているのか?」
ライオネルの言葉に、メラミーが頬を膨らませて見せる。幼い時から一緒の、ライオネルにだけ見せる表情だ。
「何を言っているの。彼に呼びかけたのは、あなたにもしもの事が、起きて欲しくなかったからよ」
「だがメラミー、お前はどうなる? 決闘に勝ったとしても、相手は侯爵家だ。 とても学園にはいられない。まともに家に戻れるかどうかも怪しいぞ」
「学園は追い出されると思うけど、家は大丈夫よ。もともとこの件は父さんの指示なの」
「旦那様の?」
「そう。あなたには黙っていたけど、この件がうまくいけば、私はあなたと結婚できる」
「どう言うことだ?」
「あの子の妹と私は、実は姉妹なの」
メラミーの言葉に、ライオネルが驚いた顔をする。
「つまり、旦那様の子供と言う事か?」
「そう。だからあの赤毛を追い出せば、実質的に侯爵家を乗っ取れる。父の狙いはそれよ。そのおかげで、私の事はどうでもよくなったみたい。好きに婿を選んでいいと言われた。だから明日の試合には、私とあなたの一生がかかっているの」
そう告げると、メラミーはライオネルの厚い胸に体を寄せた。あの男の裏切りには腹が立つが、やはりこの胸の中こそ、自分が自分でいられる場所な気がする。
「ライオネル。愛しているわ。ずっと、ずっと昔から……」
「メラミー、俺もお前を愛している」
二人の唇が重なった。ライオネルの胸の中で、メラミーは小さく息を漏らす。明日が終われば、こんな不自由な生活とはおさらばだ。
「寝言を真に受けた? そんなこともあったな」
グラディオスの言葉に、目の前にいる女性は、小さく含み笑いを漏らした。辺りの照明は最低に絞られており、黒いベールも被っていて、顔は見えない。しかしその方が、グラディオスにとっては都合がよかった。
見え無ければこそ、最後にこの女を腕に抱いてから、既に十年以上の月日が過ぎてしまったことを、目の当たりにしなくて済む。
学園のお茶会で再会してから、宝石商をつなぎに使って、グラディオスは目の前の女性、カミラと幾度か逢瀬を重ねていた。他の者にばれる危険もあったが、内弁慶なカミラがしり込みしないよう、しっかりとその手綱を握っておく必要がある。
「でもあなただけよ。私が寝言をよく言うのを知っているのは……」
グラディオスの胸に手を添えたカミラが、そっとつぶやく。その仕草に、グラディオスは満足した。後はあの娘がうまくやれば、カミラが寝屋で夫のロベルトを亡き者にするだけだ。
それはロベルトが、後妻のカミラを満足させられなかった罪、とでも言うべきものだろう。そこまで考えてから、グラディオスは自分自身へ苦笑した。それについて言えば、自分もロベルトと同じだ。
グラディオスが胸に添えられたカミラの手をとって、この屋敷で行われている、仮面舞踏会の踊りの輪へ歩み出ようとした時だった。
「お客様……」
背後から小さな声が聞こえた。振り返るとこの家の執事が、グラディオスに盆を差し出している。そこには飲み物の代わりに、封書が乗っていた。封書には小さく、「R」の一文字が書いてある。
「あの男から?」
それを見たカミラが、当惑の声を上げた。その怯えた響きは、見かけと違って、カミラが実は小心者であることを示している。
グラディオスとカミラは、誰もいない立ち席用のテーブルへ移動すると、そこに置かれた小さなランプの明りで封書を開いた。それを読んだグラディオスが、口の端を持ち上げて見せる。
「なんて書いてあるの?」
それを見たカミラが、もどかし気に、グラディオスへ問いかけた。
「赤毛のお嬢さんをうまくはめたらしい。やはりあの娘は、俺なんかより、よほどあの男に似ているよ」
そう告げると、グラディオスはカミラの手を取り、踊りの輪へと進み出た。