穢れ
「遅れてすいません」
私は選手の控えの列に座っていたローナさんへ声を掛けた。ローナさんが驚いた顔で、汗まみれの私を見る。
「フレアさん、とりあえず汗を拭いてください」
ローナさんが私にタオルを差し出した。そして私のすぐ後に入ってきたイアン王子を見て、さらに驚いた顔をする。
「もしかして、お二人で練習されていたのですか?」
「そう――」
そうですと言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。二人だけで練習していたことがばれると、色々と面倒なことになってしまう。
「いえ、練習に夢中で時間を忘れていまして、走ってこちらへ向かう途中、偶然一緒になったんです。そうですよね、イアンさん!」
「フレデリカ嬢、その通りだ。ローナ監督、申し訳ない。少し遠いところで練習していたのを失念していた」
「いえ、時間には間に合っていますので、何も問題はないのですけど……」
「これから試合順を決めます。各組の監督はこちらへ来てください」
ローナさんは私たちの言い訳に、首をひねって見せたが、アルベールさんの呼びかけに応じて席を立つ。控えの席には、私とイアン王子だけが残された。ロゼッタさんをはじめとした付添人や、試合を終えた監督選手たちは、ここではなく、審判席の背後へと移っている。
視線の先では、反対側の選手の控えから、彼女が、アルベールさんの方へ歩いていくのも見えた。
「お付き合い頂きまして、ありがとうございます」
私は前を向いたまま、隣に座るイアン王子へ声を掛けた。
「礼には及ばない。君の言葉を借りれば、それが相方と言うものなのだろう?」
その言葉に素直にうなずく。彼のお陰で色々なものが吹っ切れた。
「ではコイントスで、試合順を決めることにします。両監督には確認をお願いします」
アルベールさんはそう告げると、コインを指ではじいた。辺りに澄んだ金属音が響く。
「ではローナ監督、表と裏で男子と女子、どちらを先の試合とするか決めてください」
「はい。では表なら男子、裏なら女子でお願いします」
「メラミー監督、異存はありませんね?」
「はい。アルベール警備部長殿」
アルベールさんが、ゆっくりと右手を上げた。
「コインは裏。よって女子の試合から行う事とします」
会場からどよめきが上がる。最初に試合をするのは私らしい。出来ればイアン王子に迷惑をかけないために、後であってほしかったが仕方がない。
「ローナさん、後ろを締めるのを手伝ってもらってもいいですか?」
私は防具を頭に被ると、控えの列へ戻ってきたローナさんへ声を掛けた。
「はい」
ローナさんが私の横で紐を縛り始める。
「それと、一つ相談があります」
私はイアン王子に聞かれないように、小声で彼女へ話しかけた。
「なんでしょう?」
「ローナさんからは、絶対に負けを認めないで頂きたいのです」
それを聞いたローナさんが、少し驚いた顔をした。だがすぐに頷く。それにとてもほっとした顔をする。監督には負けを認める権限があるが、剣を振るったことがないローナさんにしてみれば、重荷なだけだったのかもしれない。
「フレデリカさん、終わりました」
「ありがとうございます」
私はローナさんに頭を下げると、試合場の中へと進んだ。会場からはさらに大きな歓声が上がる。
「フレアさ~ん!」
誰かが私を呼ぶ声も聞こえてきた。見ると、関係者の列に座ったイサベルさんとオリヴィアさんが、大きく手を振りながら、私の名前を呼んでくれている。マリも心配そうな顔で、じっと私を見つめていた。
みんなの応援に、思わず目から涙が流れそうになる。同時に、申し訳ない気持ちで一杯にもなった。私はこの大切な試合を、自分だけの都合で穢してしまっている。
いつか時がきたら、頭を地面にこすりつけて、みんなに謝ろう。そう心に誓うと、私は試合場の中央へと足を進めた。そこでは竹刀を手にした彼女が、私を待っている。
「さっきの約束は覚えているかしら?」
「もちろんよ」
私の答えに、彼女は防具の向こうで、小さく笑みを浮かべる。
「とっても楽しい試合になりそうね」
「試合開始!」
アルベールさんの宣言に、私と彼女は試合場の両端へ戻って一礼した。そこから竹刀を構えると、互いの間合いを探りつつ、ぐるぐると円形の試合場を回り始める。
カサンドラさんとの試合で、彼女の間合いが私よりはるかに遠いことは分かっている。こちらから仕掛けるのは難しい。相手の仕掛けに合わせて、反撃するしかない。そう思って、彼女の竹刀の動きに合わせようとした時だった。
不意に彼女の姿が目の前から消える。いや、消えたんじゃない。向こうから仕掛けてきた。しかしその動きが早すぎて、私の目ではとらえきれなかっただけだ。
バン!
竹刀の響く音と共に、防具をつけていない、右の太ももから激痛が上がった。慌てて足を引いて、竹刀を横に振ったが、彼女はすでに私の間合いの外で、竹刀を構えなおしている。
次の一撃を避けるために動き回りたいが、右足が痛くて、ろくに動くことが出来ない。せいぜいが、体の向きを変えるぐらいだ。
「タァ――!」
休む間もなく、正面から彼女が飛び込んでくる。彼女の竹刀を叩き落そうとしたが、今度は防具をつけていない右腕を叩かれた。左手でなんとかささえたが、右腕は痺れてもう何の役にも立たない。せめて左手に竹刀を持ち換えようとした時だ。
ドン!
今度は彼女の突きが、私の肩へと突き刺さる。言う事を聞かない足では、それを支えることなど出来ない。そのまま後ろへと跳ね飛ばされた。
「フレアさん!」
マリの悲鳴のような声が聞こえた。目の前には剣技場の天井が見えている。起き上がろうとしたが、体に力が入らない。倒れたままの私に、彼女がゆっくりと近づいてくる。
「待て!」
アルベールさんの声が響いた。そして私の顔をのぞき込む。
「続けるかね?」
その目は私に負けを認めるように即している。だがそれを受けるわけにはいかない。
「続けます!」
そう答えて、何とか左手で体を起こした。立ち上がってはみたものの、肩と腕の痛みに、右腕はだらりとぶら下げることしかできない。右足もまったく踏ん張りがきかない。
それでも左手で竹刀を構え、彼女を見つめる。その視線の先で、彼女がニヤリと笑うのが見えた。次の瞬間、再び彼女の体が私の視界から消える。
ヒュン!
風切り音と共に、竹刀の先端が目の前へ現れた。それが私の顔めがけて突き進んでくる。
『避けないと……』
頭では分かっているが、体は全く動こうとしない。竹刀は私の防具に激しくぶつかると、起き上がったばかりの体を、再び背後へと突き飛ばす。
自分の足が床を離れ、無防備な背中が床へと落ちていく。だけど何もすることが出来ない。ドンと言う衝撃が背中へ響き、後頭部が激しく床へぶつかる。
「フレアさん!」
私の名を呼ぶ声が聞こえた。続けて、たくさんの人が小声で何かをしゃべっているみたいな、ざわめきも聞こえてくる。
「続けるかね?」
気づけば、アルベールさんが、再び私の顔をのぞき込んでいた。その顔は、強く私に負けを認めるように即している。でも私は自分を見つめる蒼い瞳へ、首を横に振った。
ゲホゲホ!
でもすぐに塩辛い何かが口へ流れ込んでくる。何とか上半身を起こすと、防具の隙間から流れる赤い血が、自分の試合着を赤く染めていくのが見えた。
どうやら練習の時と同じように、鼻血を流してしまったらしい。それに口の中も切っている。慌てて袖で口の周りを拭くと、袖に目立たぬように刺しゅうされた竜が、真っ赤に染まっているのが見えた。
『まるで赤き竜だ……』
ぼんやりとする頭が、前世で聞いた伝説の話を思い出させる。そう言えば前世で百夜は、私の事を名前ではなく、赤娘としか呼ばなかった。もっとも私もあの子の事を、ついつい黒娘と呼んでいた。
でもあの子が誰かを、名前で呼んだのを聞いたことがない。もしかしたら、呼べないのかも……。試合に集中しなくてはいけない。そう思ってはみても、そんなとりとめのないことが、次々と頭の中に浮かんでくる。
『我の創造せし、もっとも気高き者よ……』
不意に誰かの声が響いた。
『誰だろう?』
それにこの声には聞き覚えがある。口調こそ違うが百夜の声だ。ぼやけそうになる視界の中、百夜の姿を探す。
だが辺りを見回しても、何かを叫んでいるイサベルさんとオリヴィアさんに、じっと手帳を見つめ続けるロゼッタさん。それに真剣な表情でこちらを見つめる、マリしかいない。それと目の前で竹刀を手に、私を見下ろす彼女だ。
『その炎は全てを焼き尽くす……』
再び声が響いた。どうやらこの声は、私の頭の中だけで聞こえているらしい。同時に、自分の奥底から、抑えきれない何かが湧き上がってくるのを感じる。
『我の世界を犯す穢れを滅ぼせ……』
『穢れ?』
『妬み、怒り、悲しみ、個の全てだ……』
いつの間にか私は自分の体を飛びだして、床に座り込む自分の姿を見つめていた。もしかして、部屋の隅で泣いていた私は、私の知らないところで、こうして私を眺め続けているのかもしれない。
だが体から湧き上がる赤黒い炎が、私の意識に絡みつき、私を体へと引きずり下ろしていく。
『熱い!』
そのあまりの熱さに、私は悲鳴を上げた。気づけば、体の痛みも忘れて飛び起きている。目の前では棒切れをもつ女が、立ち上がった私を見て、驚いた顔をしていた。
『何を驚く? その小さき力で、我を何とか出来るとでも思ったのか? お前たちは、我のもっとも大事なものを穢したのだ。その報いを受けるがいい』
私が私でない何かと一緒に、彼女に語りかけている。これと同じことが前にもあった気がした。その時、私は一体何をしたのだろう。思い出すことが出来ない。だがその所業にふさわしい報いを、与えてやったことだけは確かだ。
「穢れ!? 何をふざけたことを言っているの!」
目の前の小さき者が叫ぶ。そして愚かにも、棒切れを手に、私へと突き進んできた。