長い手
「あんな小娘に舐められたままで居る訳にはいかない」
グローヴズ伯爵家の当主、テオドルスは額に青筋を立てながら呻いた。息子が衆人環視の元で、小娘に投げ飛ばされるなんてことは、冗談でも許される話ではない。この家も含めて、有力な家がカスティオールの後釜を狙っているというのに、そのカスティオールの娘に投げ飛ばされるとは!
これでは、グローヴズ家はカスティオールの後を継ぐ侯爵家にはとてもなれないと、世間に思われたも同然ではないか。
そしてテオドルスの気分を苛立たせているのは、この件だけでは無かった。その娘に報いを与えるべく、いかに状況証拠があろうが、この家の手のものではないと思わせる為の依頼先、目の前に座っている男もテオドルスの怒りに火を着けていた。
どうしてこんな依頼に私自身が顔を出さねばならないのだ。それに何だこの男の態度は、テーブルの椅子の上に足をかけて、長椅子の背もたれに腕を上げて座っている。このグローヴズ伯爵家の当主たる、私に対して取るべき態度からは程遠い、賤民共には決して許されるべき態度ではない。
これを依頼した筋からは、もっとも優秀な者が必要なら、依頼先と直接顔を合わせて、依頼内容を告げる事という条件が示された。テオドルスとしては、これは侯爵家の後を狙う他家に対するこちらの覚悟を表すためにも、絶対に行わなければならない報復である。そしてそれを、自分と少しでも関係を疑われることなく行う為ならば、仕方がないだろうという事で受け入れた。
だが、このような不遜な態度を示す者が現れるとは思ってもみなかった。そもそも彼の人生の中で、誰かにこの様な態度を示されたことなど、一度も無かった。
忍耐の限りを尽くして、それを遠回しに指摘しても、この男は全く態度を改めようとしなかった。テオドルスは目の前の男に向かって直接要求することにした。
「聞いているのか? それにその足だけでもテーブルの上から降ろしてはもらえないだろうか? そのぐらいは、依頼主への敬意として当然では無いのかね?」
目の前の男、それほど年はいっていない様だが、実際の年齢は良くは分からない、少し細身の黒髪の男に向かって告げた。テオドルスの言葉に男が背もたれから片腕を下ろすと、その手で濡れた犬の毛のようなぼさぼさの髪の毛をかきながら、テオドルスに向かって口を開いた。
「グローヴズさん、何か勘違いをしていませんか?」
「勘違い?」
「私はまだあなたの依頼を受けるとは言っていない。依頼の内容を聞いているだけです。だからあなたが言うような依頼主への敬意とか言うのも、まだ発生していないんですよ」
「例の筋に依頼は既に出してある!」
「例の筋から聞いていませんか? 俺に会って直接依頼しろって。あいつらは俺への仲介をしただけですよ。俺が受けるかどうかを決めるんです」
テオドルスは、頭にさらに血が上ると同時に、今迄すでに事の経緯を全て話してしまった自分の浅はかさに気がついた。今更口にした言葉を戻すことはできない。自分がしゃべった内容がこの男の口から洩れたらお終いだ。テオドルスは背後に立つ、執事の姿をさせている護衛役の方を振り向いた。
「グローヴズさん、もしかして俺の口を塞ごうとか考えています?」
男の言葉に、護衛役に向かって殺せと合図をしようとしていたテオドルスは、慌てて男の方をふり返った。その内容が図星だった上に、男の声があまりにも冷静だったからだ。
「やめておいた方がいいですよ。この足でこの机を蹴っ飛ばせば、これはあんたの胸を直撃する。結構重たい、いい机ですからね。あんたのあばら骨は折れて、肺に突き刺さります。即死はしないでしょうが、もう手の打ちようはない。あなたの肺は自分の血に溺れて、あんたは必至に息を求めてそれはそれは苦しんで死ぬことになります」
テオドルスは、男が足を掛けているテーブルを見た。これはそれなりに重量があるテーブルだ。確かに自分の胸を直撃すればただでは済まない。だがこの細身の男の蹴りでそんな事が起きるだろうか?
「私がこれを、言ったように蹴れるかどうか考えていますね。それにそちらが控えさせている魔法職の男を使えば、そんな間も与えずに殺せるかもしれないとかも考えているでしょう?」
額から汗が流れる。どうしてこの男はこちらの考えをそこまで的確に読めるんだ?
「考えが甘すぎですよ。そもそもこの居間を面談の場所に使った時点で、あんたにはもう俺を殺せる目はない。どうせなら庭の隅とか、こちらが予想できないところ、いつも使わないところでやるべきですよ。魔法職の男もあんたがここに来てから防御用の術の準備を、それもこちらの予想通りの術、反転封印を準備している」
男はそう言うと、自分の長椅子の背後の壁に僅かばかり視線を向けた。
「まあ、二流いや、三流のやることはこんなもんでしょうね。自分達が用意した術も同じように反転できるとは考えていない。おやおや、今頃焦って次の術の準備ですか?」
そう壁の方に告げると、テオドルスの方を見てニヤリと笑った。
「こちらは手直に贄に使える人間が二人もいるんだ。そちらの面倒な術なんかより早く穴を開けられる。もちろんその贄の一人は……」
男はテオドルスの方を指さした。
「早くやめさせて、出て行かせなくてもいいんですか? こちらは身を守るために、あなたの魂を使わせてもらいますよ」
「やめろ!すぐにやめるんだ!そして出ていけ!」
テオドルスは、男の背後の壁に向かって叫んだ。そして額から落ちてきた汗を拭うと、男の方に向かって必死に作り笑いを浮かべようとした。
「わ……私は依頼をしたいのであって、君を害するつもりなどない」
「さっきと違って、今はそうでしょうね。でもこの家は執事に対する教育がなっていませんね」
テオドルスは背後に控えている男を見た。だがすぐに目を背けた。男はナイフを持ち上げた姿のまま何かに貪り食われていた。彼の喉には穴があき、その顔の皮膚はすでになく、その下の筋肉が見えている。そして持ち上げていた腕からは既に骨が見えていたからだ。
「言ったじゃないですか。面談の場にいつも同じ場所を使うなんてのは、愚の骨頂ですよ。この世界は盤上の遊戯と同じように、腹の探り合いなんですからね」
テオドルスは、男に向かって訳が分からないまま頷いて見せた。
「今お見せした通り、殺すだけなら簡単なんですよ。何も私のような者のところに高い金を払って頼む必要なんかない。そこで骨になった。ああ、もう骨もないか。あの手合いにナイフでも投げさせれば十分です。だけどそれに合理性とか、必然性とかいろいろなもので理由付けをしようとすると、急にとても難しくなるんです」
テオドルスは再び男に向かって頷いて見せた。テオドルスにしてみれば、今は他にできる事などない。あと出来る事は、この依頼を行ったこと自体を心の底から後悔することだけだ。
「後悔していますね。それは今日唯一の正しい考えと言う奴ですよ。たかが子供の喧嘩程度で、私のようなはぐれ者をすぐに使おうなんて思っちゃだめです。それにそのお嬢さんが死ねば、誰がどう見たって、貴方が差し向けた長い手だと思うでしょう。そう思わせないのはかなり大変な事なんです。理解できましたか?」
「ああ……」
「ああ?」
「理解した」
「ならば、それが高くつくことも理解出来たという事ですかね?」
「り……理解した」
「全く、なんで俺が子供の喧嘩の後始末なんてしないといけないんだ。これもあの三流がへまこいて勝手に死ぬからだな」
テオドルスは男に向かって頷こうとしたが、男はこちらを全く見ていないことに気が付いた。一人でぶつぶつ天井に向かってしゃべっている。
「全く以て気に入らねえな」
最後にそう吐き捨てると、足で床を踏みならした。その音にテオドルスは自分の体が恐怖にびくりと震えたのが分かった。
「この件は引受ける。前金だ。金をその筋に送っておけ。それとあんたのところは、護衛だけじゃ無くて、次の魔法職もどこかから探してくるんだな。前の奴について聞かれたら、内務省には行方不明になったとのみ言え。それ以外の理由を一言でも言ったら、あんたもそいつと同じ目に会う。理解できたか?」
テオドルスは全力で頷いた。今の自分にはそれ以外にできる事など何もない。