矜持
ローナは夢を見ていた。自分はまだ幼く、自分の足でたどり着ける先が世界の全てだ。でも少しずつ自分でいけるところが広がり、常に新しい発見と驚きをもたらしてくれる。世界は何て輝いているのだろう。
そこへいきなり影が訪れた。影は世界から光を奪い、全てを白黒の影絵へと書き換えていく。今のローナが見ている世界だ。ローナが途方に暮れる中、遠くに赤い灯が一つ灯った。淡い光は白と黒に染まった世界から、わずかに色を取り戻していく。
ローナは救われる思いで、その明かりへと駆け寄った。小さな女の子が一人、赤い光を放ちつつ、地面にぺたりとおしりをついて座っている。そっと近づくと、女の子は顔を上げてにっこりと微笑んだ。
「誰?」
ローナはそう問いかけたが、女の子は何も答えない。幼い頃一緒に遊んだ子供の記憶だろうか? 違う。この微笑みは、もっと大きくなってから見たものだ。
「フレデリカさん?」
女の子は無言で手を上げると、ローナの背後を指さした。そこでは誰かが膝を抱えて座っている。
「お友達?」
ローナの問いかけに、赤く光る子が大きく頷いた。よく見ると、自分と年が同じくらいの女性だ。泣いているらしく、小さく鼻をすする音も聞こえてくる。
「あれ!?」
その顔を見てローナは驚いた。その姿はどう見てもフレデリカだ。でも何かにおびえ、おどおどしている。とてもフレデリカとは思えない。幼い少女が泣き続けるフレデリカをそっと抱きしめる。まるで逆転した姉妹みたい。ローナがそう思った時だった。
二人が赤い光に包まれ、幼いフレデリカが、すすり泣くフレデリカと重なっていく。ローナは二人が一つになっていく姿を、ただ呆気に取られて眺めた。いつしか赤い光は消え、一人になったフレデリカが自分の前に立っている。
その顔に浮かんでいるのは、いつもの屈託のない笑顔だ。何が起きたか分からず当惑するローナへ、フレデリカが頷いた。
「私たちは二人で一つなの……」
そう答えたところで、フレデリカの表情が不意に変わる。
「違う。あなたは私じゃない! あなたは私を器にして、私を乗っ取ったのよ!」
そう叫ぶと、ローナの目の前で、フレデリカは自分で自分の顔をかきむしった。
ローナの前には見慣れた宿舎の天井があった。冬だと言うのに、まるで長い距離を走った後みたいに、体中が汗ばみ息が苦しい。
『きっと、悪夢のせいだ……』
とても怖い夢を見ていたのは覚えている。だけどそれがどんな夢だったのかは思い出せない。でも夢は夢だ。そう思って掛布に手をかけた時だ。誰かの視線を感じて飛び起きた。暗闇の中で目を凝らすと、真ん中にあるテーブルの椅子へ、誰かが腰を掛けている。
「ジョナさん?」
ローナはそう声をかけてから、ジョナではないことに気づいた。椅子に座る黒い影は、背の高い、ちょっと変わった帽子を被っている。
「バルツさんですか?」
「はい」
「お会いしたいとはお願いしましたけど、こんな夜中にですか?」
ローナの問いかけに、バルツが頷く。
「正式な手続きでは少し時間がかかりますのと、ローナ様の方でもお急ぎのようでしたので、非公式な方法を取らせて頂きました。女性の部屋へ無断で入ったという点については、心からお詫びします」
「ええ、少し驚きました」
ローナはそう答えると、寝台の横にかけてある部屋着の上着に袖を通した。バルツが自分の付添人だとしても、寝間着姿を見せたいとは思わない。
「支援者の件で、お話をされたいとのことでしたが?」
「はい。バルツさんやジョナさんが、どなたの代理としてこちらへいらしているのかを、知りたいのです」
「なるほど。少し複雑なお話になりますが、よろしいでしょうか?」
「そうだとしても、ここを出た後で自分がどうなるかについて、先に知っておくべきではないでしょうか?」
ローナの台詞にバルツが小さく首をひねって見せる。
「複雑と申した意味を誤解されているようですね。複雑と申したのは、ハーコート家の出資を決めた人物には表と裏があるということです」
「そうでしょうね」
ローナはバルツに頷いた。それなりの立場の人間が、自分のような若い娘を愛人にするのであれば、表立って出てくる訳がない。
「表の出資者はダリエルという人物です」
その名前にローナは驚いた。その名前はこの王都で、一番大きな商会の代表の名前だ。
「ロキュス商会の代表ですか!?」
「はい。ロキュス商会のダリエル代表です。ですが、御父上にはその名前を明かさないよう、要請してあります」
「でも先ほど裏があると……」
ローナは首をひねった。もしそれが本当なら、ダリエル代表こそが裏だ。それに噂を聞く限りでは、自分のような小娘を相手にする人物とも思えない。
「裏にいるのはヴォルテという人物です。彼がダリエルに出資を依頼しました」
「ヴォルテさんのお名前は聞いたことがありませんが、どこの商会の方ですか?」
パーティなどに顔を出した時の為に、商家の子弟は、主な貴族や商会関係者の名前と容姿を徹底的に教え込まれる。でもローナの記憶にその名前はなかった。もしかたら、地方の誰かかもしれない。そうであれば、卒業後は王都へ戻ってくることはない。
「ヴォルテは商会関係者でも青い血を自称する方々でもありません。王都の顔役、裏社会の人間です」
「えっ!」
バルツの言葉にローナは身を固くした。どうやら自分は、とんでもないところへ売り飛ばされそうとしているらしい。
「では、どなたが私を買われたのですか!?」
「買われた?」
ローナの叫びに、バルツが首を傾げて見せる。
「私を愛人か何かにしようとしているのでしょう?」
「ああ、やはり誤解されていますね。ヴォルテも代理人にすぎませんし、出資者の意図もそのようなものではありません。おそらくは、ローナ様が今のローナ様でいて欲しいと願っての事かと思います」
「今の私?」
「そうです。それにローナ様は本当の出資者に、既に会われています」
そう告げると、バルツは窓へ視線を向けた。
「夜も明けてきました。本日はこちらで失礼させて頂きます」
「待ってください。その方とは一体いつ、どこで会ったのでしょうか!?」
バルツは一礼をすると、ローナの問いかけに答えることなく、音もたてずに部屋の扉から出て行く。ローナはベッドから飛び出ると、その後を追おうとした。だがすぐに思いとどまる。追いかけたところで、話をしてくれるとは思えない。つまりは自分で考えろと言うことだ。
『誰なの?』
ローナは必死に考えた。一番あり得るのは、この前のお茶会に来賓として来た誰かだ。それとも、この学園にいる男子生徒との婚約だろうか? それなら秘密にする必要はないし、裏社会の顔役なんかに依頼する必要もない。
ローナは素足のまま部屋を横切ると、窓際へ顔を寄せた。二つの月、白い月と赤い月が西の方へ沈んでいき、反対の東の空は少しづつ白み始めている。ローナが付添人宿舎へと続く道へ視線を向けると、バルツの姿を追った。だがそこにバルツの姿はない。
女子宿舎周辺の警備はとても厳しいと聞いている。バルツはどうやって入り込んで、どうやって去っていくのだろう。ローナがそう思って首を傾げた時だった。宿舎の横の林の辺りで何かが動いたのが見えた。
バルツだろうか? 一瞬そう思ったが、同じ場所で同じ動きを繰り返している。どうやら誰かがこっそりと宿舎を抜けだして、そこで剣の練習をしているらしい。その動きにローナは見覚えがあった。
「まさか、本当の出資者って……」
その黒い影を見つめるローナの口からつぶやきがもれる。そして唇をかみしめると、そこから逃げるように、頭から寝台へともぐりこんだ。
メラミーは試合着が入った袋をめんどくさそうに抱えると、宿舎の玄関へ向かった。話をしながら一緒に登校する他の生徒たちを横目に、一人で学校への道を歩き始める。
いつも一緒にいる取り巻きたちは相部屋宿舎で、ここにはいない。橙組に通う者が大多数のこの個室宿舎では、メラミーは孤独な異邦人みたいな存在だ。
「メラミー」
自分を呼ぶ声に、メラミーは足を止めた。そして不思議そうな顔で、道の横に立つ女子生徒を眺める。
「ローナ、あなたの方から私に声をかけてくるなんて珍しいわね」
そう告げると、メラミーは前を歩く女子生徒たちを指さした。
「それに、あなたは向こう側へ行ったんじゃなくて?」
メラミーの台詞に、ローナが首を横に振る。
「向こう側? 私とあの人たちとの間には、見えない境界線があるのを、よく知っているでしょう?」
ローナの言葉に、メラミーがフンと鼻を鳴らす。
「それで、何の用?」
「今度の混合戦だけど、やっぱり進め方について、あなたと相談させてもらえないかしら?」
それを聞いたメラミーが、面食らった顔でローナをじっと見つめる。
「どう言うこと?」
「誰かの慰み者になるのには耐えられるけど、誰かに愛玩動物扱いされるのには耐えられないの」
そう告げると、ローナは自分の持つタオルが入った袋を、メラミーに向かってポンと叩いて見せた。