誘惑
「何が生徒同士は平等よ!」
メラミーはそう毒づくと、試合着の上に羽織ったコートの襟を立てた。学園あるにいくつか屋内剣技場は他の組によって使われており、黄色組と青組の自分たちは、この寒空の下で屋外の剣技場を割り当てられている。世の中はそんなものだと思ってはいても、腹が立つ事にはかわりはない。
「ジャネット、カイロを頂戴!」
メラミーは背後に続く侍女のジャネットへ、苛立たし気に声をかけた。
「はい。お嬢様」
侍女のジャネットが、金属製の美しい彫金が施されたカイロを差し出すと、ジャネットはそれをひったくるように受け取った。そして苦虫をかみつぶしたみたいな顔をする。ともかくこの女にはイライラする。
以前はただ疲れた感じのするだけの女だったが、今はなぜかその全てが不気味に思えてしまう。メラミーはともかくそれが気に入らなかった。
「お嬢様、そう体を固くされますと怪我の元です。十分に体をほぐしてから練習をしてください」
背後からまだ若い男性の声が上がった。
「ライオネル、もう子供じゃないのよ。そのぐらいは分かっているわ」
メラミーはカイロで指先を温めながら、声のした方を振り返った。その表情は、先ほどジャネットに向けたものとは違って明るい。
ライオネルは母親が長年ウェリントン家の下働きをしていて、小さい時からずっと一緒だ。自分が女であることを意識してからは、恋心も抱く様になっている。
もっとも、メラミーがいくらライオネルの事を好きになっても、ライオネルと添い遂げる未来はない。商家の娘など所詮はその家の商品。口ではローナの事を揶揄ってみても、メラミーはそう諦めていた。
しかし、コーンウェルのお茶会の時で、父親のグラディオスが漏らした台詞で、それがはかない夢ではなくなってきている。グラディオスはフレデリカをうまくはめられれば、婿を好きに選んでいいと告げた。その方が家を乗っ取られる心配がないとも。
それならライオネルを選んでも、グラディオスは反対しないはずだ。むしろ一番安全だと喜ぶかもしれない。
『絶対にあの女をはめてやる!』
メラミーはそう決意すると、薄い化粧をしてきた顔に作り笑いを浮かべた。
「ヘクターさん、お待たせして申し訳ございません!」
「いえ、私もちょうど来たところです。よろしくお願いします」
メラミーは混合戦の相方であるヘクターの姿を満足げに眺めた。夕刻の気配を強める日差しに灰色の髪が銀色に輝き、その姿は神殿の彫像が動き出したかとすら思える。ヘクターが自分の相方へ名乗りを上げた時、大勢の女子生徒たちが自分の事を、羨望のまなざしで見つめていたのを思い出した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そうメラミーがヘクターへあいさつを返した時だ。
「ヘクター君に、メラミー君だね」
少し離れたところから声がした。振り返ると、事務服を着た学園の職員がこちらへ歩いて来る。女子生徒のメラミーと男子生徒のヘクターが一緒に練習するので、その監視役に派遣された職員だろう。
「両名の練習参加を確認した。本当は君たちの練習に最後まで付き合わないといけないのだけど、実は少しばかり仕事が立て込んでいてね。できればライオネル殿の方で、私の代理をしてもらえないだろうか?」
職員が少し困った顔をしながら頭をかいて見せる。邪魔者が向こうから消えてくれとはありがたい。その提案に、メラミーは心の中でほくそえんだ。
「ライオネル、問題ないでしょう?」
「はい。お嬢様」
「大変助かります。二人とも、怪我だけには十分に気を付けてください」
そう一言告げると、事務員は来た道を事務棟へと戻っていく。
「ヘクターさん、どのように進めましょうか?」
その後姿を眺めていたヘクターへ、メラミーは自分から声をかけた。
「メラミーさんは、そちらのライオネル先生から剣技を学ばれたのでしょうか?」
「はい。もっとも剣技と呼べるほどのものではありませんが……」
そう答えはしたが、ライオネルと一緒の時間を過ごすため、メラミーはかなり時間を剣技に割いている。なので、他の相手はいざ知らず、あの赤毛に負けるとは全く思っていない。
「そうですね。先ずは私とライオネル先生と私で、試合をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「いきなり試合ですか?」
ヘクターの提案にメラミーは驚いた。
「はい。この竹刀と言うのは、普段使っている木刀とは違いしなりがあります。その癖を実戦で確かめたいのです。ライオネル先生、いかがでしょう?」
言われてみれば、ヘクターの腕を確かめるいい機会だ。それにどちらの腕が上かはっきりすれば、この後の方針も立てやすい。
「ライオネル、私としては異存はないわ」
こんなところで、学生相手に試合をするとは思っていなかったのだろう。ライオネルは戸惑いつつも、メラミーへ頷き返してくる。
「ヘクター君、私の方も問題ない。防具はどうするかね?」
「とりあえずは、なしでもよいかと」
「了解だ」
「メラミーさんには試合を見ていただいて、竹刀の使い方の参考にして頂くことにしましょう」
そう告げると、ヘクターは土埃が舞う剣技場の中央へと進んだ。ライオネルも竹刀を片手に剣技場へと進むと、竹刀を正眼に構える。だがヘクターのは竹刀を片手に持ったまま、ただぶらりと下げているだけ。その態度にメラミーは小首をかしげた。隙だらけで、やる気があるのかすら疑わしく思える。
でもどうしたことか、ライオネルは正眼に構えたまま動かない。いや、動けないでいる。もしかしたら、生徒を打ち据えることについて遠慮しているかもしれない。メラミーがそう思った時だ。
「ライオネル先生、遠慮いりませんよ」
ヘクターがライオネルに声をかけた。だがライオネルはそれに答えることなく、正眼に構えたままじっと前を見据え続けている。
「では時間もありませんので、私の方から行かせて頂きます」
そうヘクターが告げた瞬間だった。吹き抜ける木枯らしよりも素早く、何かがメラミーの目の前を横切った。気づけば、いつの間にかヘクターとライオネルの位置が入れ替わっている。
「うう……」
ライオネルの口から呻き声がもれた。メラミーはライオネルに「大丈夫」と声をかけようとして、それを飲み込む。ライオネルには悪いが、今は我慢の時だ。
それにヘクターの腕が、ライオネルより上なのは間違いない。この腕があれば、自分の目的は達成できる。そのためには何としてもヘクターを、自分たちの側へ取り込まねばならない。
「ヘクターさんはとてもお強いのですね」
メラミーはライオネルへ駆け寄りたいのをぐっとこらえると、ヘクターへ媚びた視線を向けた。
「いえ、竹刀との相性が良かっただけかと思います」
「ジャネット、コートをお願い」
吹き抜ける風が、白い試合着をはためかせ、メラミーの胸元と足をあらわにする。それを直すことなく、メラミーはヘクターの元へ歩み寄った。
「ヘクターさん、私にも竹刀の扱い方を教えていただけるかしら」
メラミーはヘクターの手を竹刀を持つ自分の手に添えると、ヘクターの深紫色の瞳をじっと見つめた。
「ジャネット、私は談話室へいくから、その間にお風呂の準備をしておいて」
メラミーはそう声をかけると、宿舎の階段おりていった。その先ではヘクターとの練習の事を聞きたがっているらしく、メラミーの取り巻きたちが手を振りながら待っている。
ジャネットはメラミーを見送ると、内側に北限きつねの毛が使われた超のつく高級なコートを、ぞんざいに椅子の背へ放り投げた。それの起こした風が、机にあった便せんを床へ落とす。
手に取ると、それはメラミーの父親のグラディオスからの手紙で、自分に一代子爵が下賜されたこと。メラミーにも貴族としての自覚を求める、やたらと形式ばって書かれた手紙だ。
「ふーん」
それを見たジャネット、実際の中身のアルマの顔に不気味な笑いが浮かんだ。そして物置部屋を兼ねた自分の寝所へ、荷物を運びこむ男の背中をじっと眺める。
「やっぱりそう言う絵だね。でもまだまだ小娘だ。男の扱い方がなっていない」
そう小さく呟くと、防具を運び終えて、部屋から出てきたライオネルへ頭を下げる。
「ライオネル様、私の方で運ぶべきところを、お手数をおかけして申し訳ございません」
「いえ、大したことではありません。それにかさばるので女性で運ぶのは難しいと思いますよ」
「大変助かりました。やはり若い人同士は気が合うみたいですね。メラミーお嬢様もとっても楽しそうでした」
「そうだね」
ライオネルが人のよさそうな笑みを浮かべて見せる。だがその表情には暗い影が宿っているのを、アルマは見逃さない。アルマが軽く右手を上げると、ライオネルの顔から急に生気が失せた。そしてうつろな目でじっとアルマを見つめる。
「男だろう。欲しいものは自分の手で奪い取りな」
「奪い取る?」
「そうだよ。そのための剣だ」
「そうか……」
そう一言つぶやくと、ライオネルは体を引きずるように宿舎の部屋を出て行く。
「本当に情けない男だね」
アルマは小さくため息をつくと、流し場へ入って湯口の栓をひねった。宿舎のボイラー室で炊かれた湯が勢いよく流れ出て、白い湯気を上がる。その湯気は消えることなく桶の上へ集まり、やがて人の形へと変わっていく。
「お嬢様、ここは学園です。先ほどの術は危険かと思います」
白いもやがうごめき、かすれた声を上げる。それを聞いたアルマはフンと鼻を鳴らして見せた。
「ちょっと背中をおしてやっただけだ。誰も気が付きはしない」
「ですがこの間はあの男もここへ顔を出しています。気を付けてください」
「そんなことより、胸元をちょっと見せたぐらいで男をどうにか出来ると思っているなんて、あの小娘の道化さには腹がよじれた。それを我慢する方が余程に大変だったよ。それよりもリコ、お前の方こそまじめにやりな。ちゃんとあの小娘に惚れたふりをしてやるんだ」
「はい、お嬢様」
「これは面白くなるね。久しぶりに退屈しないで済む」
「ですが、所詮は箱入り娘の悪戯程度のものです。お嬢様のお気に召すかは……」
「そっちじゃない。私のおもちゃの方だよ。これであの子も、少しは自分の本性と言うものを理解するだろうさ」
そう告げると、アルマは白いもやに向かって、満足げに頷いて見せた。