相似
「あれ?」
目を開けると、そこには見慣れない天井があった。それに廊下では人が歩く音も聞こえている。すり足で音を立てないように歩く宿舎の足音とは全く違う足音だ。
「気が付きましたか?」
その声に、私は自分がどのような状況に置かれているのかを理解した。あろうことか、マリとの練習中に気を失って、宿舎以外のどこかに寝かされているらしい。それにこの声は――。
「ロゼッタさん!」
この学園に入ってから、こうしてロゼッタさんやマリに起こされるのは何回目だろう。アンの為にもやらかさないようにしようと思った次の日からこれです。
「今は何時ですか? それにマリは?」
「フレアさん、それよりも頭痛やめまいはありますか?」
「いえ、ありません」
防具の金具に思いっきりぶつけたらしい鼻の頭はジンジンするけど、ローナさんが受け止めてくれたおかげで、それ以外は特に痛みもない。
「吐き気は?」
「大丈夫です」
グ~~。
そう答えた時だ。思いっきり私のお腹が鳴った。そう言えば、練習が終わってから食べるつもりだったので、お昼ご飯も食べていなかった。
「大丈夫のようですね」
「はい。すぐに教室に戻ります!」
そう答えた私に、ロゼッタさんが首を横に振る。
「もう夕刻に近い時間で、本日の授業は終わっています。それに今晩一晩は様子を見るために、医務室に泊まるように校医の先生から言われています」
「えっ、そうなんですか!」
これはとってもまずいです。マリだけでなく、オリヴィアさんやローナさんにも相当に心配をかけてしまっている。
「着替えは持ってきてあります。今晩はここで安静にしていてください。それと今日と明日の授業の遅れについては、後日私の方で補習をします。覚悟しておいてください」
あ、あの、南区の件の補習の山がやっと消えたところなんですけど。でも仕方がありません。自分で招いた結果です。私のが頷いたのを確認すると、ロゼッタさんはベッド脇の椅子から立ち上がった。そうだ。私の補習なんかより、はるかに大事な事があったのを思い出す。
「ロゼッタさん!」
「なんでしょうか?」
「マリに、私は大丈夫だと伝えていただけませんでしょうか? それと私がごめんなさいと、謝っていたとも伝えてください」
「あなたが彼女に謝るのですか?」
「はい。混合戦の練習は私からお願いしたことです。それにマリは本気で私の相手をしてくれました。私の覚悟が足りなかっただけなんです」
「分かりました。医務室に夕飯の手配を頼んでおきます。それと、私の方からもあなたに伝えておくことがあります」
「なんでしょうか?」
「全部自分が悪いと思わないでください。それは全てを無かったことにするのと同じことです。相手にとっても、必ずしもいいこととは限りません」
そう告げると、ロゼッタさんは医務室から出て行く。私はロゼッタさんが閉めた扉をじっと見ながら、ずっとその意味を考え続けた。
マリアンは染み抜きした試合着を手に宿舎の扉を開けた。フレデリカの出血はかなりひどく、どんなに生地を叩いても、試合着の染みは全て取れそうにない。マリアンは桶をテーブルに置くと、そこに自分宛ての便せんが置いてあるのに気が付いた。便せんには家庭教師のロゼッタの署名が入っている。
中を開けてみると、部屋に戻ったら自分のところへ顔を出すように書いてある。それともう一通、教務棟への入室許可証も入っていた。ロゼッタは付添人宿舎ではなく、教務棟で会うつもりらしい。今晩は医務室に近い教務棟へ詰めるつもりなのだろう。
マリアンは鏡の前でわずかに乱れた髪を直すと、帰りのためのランタンを手にすぐに宿舎の部屋を出た。赤い夕陽を浴びながら、フレデリカが日々通う通学路を抜けて、さらに教室棟の横を通り過ぎ、教務棟へと足を進める。
教務棟の警備員は、侍従服姿のマリアンが現れたことに、とても驚いた顔をしたが、ロゼッタの許可証を見るとすぐに通してくれた。マリアンは廊下の案内に従って、まるで国の役所の様に重厚な作りの階段を二階へと進んだ。
そして一番奥の部屋の前で扉を叩こうとして、その手を止めた。ドアの向こうから、言葉にできない違和感を感じる。でもドアには「ロゼッタ・レイモンド」という名札がかかっており、在室と書いてもある。マリアンは覚悟を決めると、部屋のドアをノックした。
「お入りください」
中からロゼッタの声が聞こえる。マリアンはドアを開けると丁寧にお辞儀をした。だが床に見える何かにそのまま凍り付く。そこには真っ黒な霧とも汚泥とも分からない何かが、小さくうごめいているのが見えた。その姿はアルマが操る神もどきを思い起こさせる。
だが目の前にある黒い染みは、床の一点にとどまったまま、何かに阻まれてそこに留まっている。
「扉をしめてもらえるかしら?」
ロゼッタの言葉に、マリアンは慌てて顔を上げて部屋の扉を閉めた。前を向くと、ロゼッタがマリアンの姿をじっと見つめている。
「あなたにも見えるのね?」
「こ、これはなんでしょうか?」
「この部屋の前の持ち主の執念? いや、怨念の染みみたいなものかしら。とっくに魂はこの世界から失われているのに、それでも必死に手を伸ばした手形ね。見かけほどの害はない。でも私があなたと静かに話すのには役に立ってくれます」
そう言うと、ロゼッタは自分の前にある椅子をマリアンに指さした。
マリアンはそれでも部屋の真ん中を慎重に避けると、ロゼッタが差し出した椅子の前で深々と頭を下げた。
「大変申し訳ございませんでした」
「先ずは座ってもらえるかしら?」
「はい」
マリアンは小さな丸椅子に腰を掛けると、背筋を伸ばして前に座るロゼッタへ顔を上げた。ロゼッタはカスティオールで家庭教師をしていた時と同じく、襟も装飾もない、真っ黒なワンピースを着て座っている。
「フレデリカからそれと同じ台詞を、あなたに伝えてくれと言われたわ」
「とんでもございません。全て私の落ち度です」
「そうかしら? 急にあの子が成長したのは、あなたのお陰だと思うのだけど……」
「フレデリカ様ご自身の成長かと思います」
「勘違いなんかじゃない。あなたに会ってから、あの子はとても成長した。何よりも精神的に強くなった。今のフレデリカは、痛みを痛みとして受け入れて、それを乗り越えていける。でもそれはもろさの裏返しでもあるの」
「もろさですか?」
思わず問いかけてしまったマリアンに、ロゼッタが頷いて見せる。
「そうよ。精神的な強さと言うのは肉体的な強さとは違う。まるで堤防を水が乗り越えるみたいに、全てが失われてからやっと分かるものです」
「はい」
「あなたがフレデリカの元を離れた方がいいとか考えているのなら、それは間違いです。あの子はそれでも痛みに耐えて前を向くでしょう。でもその痛みはいつかフレデリカを壊してしまうかもしれない。あなたと一緒に、前を向いた方がいいに決まっています」
「あ、あの……」
どうして彼女は自分の心の内を、こうまで見透かしているのだろう。ロゼッタの言葉にマリアンは戸惑った。
「私にとって大事なのはフレデリカだけ。他の事はどうでもいいの。あなたがあの子から離れるつもりなら……」
ロゼッタはそこで言葉を切ると、マリアンの目をじっと見つめた。
「あなたには遠いところへ行ってもらいます」
そう告げると、ロゼッタは床の黒い染みを指さした。その黒い瞳はアルマなどとは比較にならないくらいに、恐ろしく思える。
「分かりましたか?」
「はい」
「試合着については、コーンウェル家の方へもう一着調達できないか、私から交渉してみます。話は以上です」
「失礼させて頂きます」
マリアンは立ち上がって一礼すると、今度は部屋の真ん中を通ってドアへ向かった。足元にある黒い何かはマリアンに何も触れることなく、ただ小さく揺らいだだけだ。
「一つ言い忘れていました」
ドアノブに手を掛けたとろこで、ロゼッタがマリアンを呼び止めた。
「なんでしょうか?」
「あなたと私はよく似ている。他の誰でもない、私と似ているのね」
マリアンはロゼッタへ深く一礼をすると、静かに部屋を出た。
「女性の会話を盗み聞ぎするのは失礼だと思いませんか? それと、当家の侍従の後をつけてきたことについて、説明をお願いします」
マリアンを見送ったロゼッタは、床の黒い染みに向かって声を掛けた。それに答えるように染みが小さく揺らいで見せる。そしてパンを焼いたときみたいに膨らんでいくと、人の頭の形へと変わった。
「どうしてばれました?」
染みから糸電話の先の声みたいに、かすれた声が聞こえてくる。
「これのおかげで、この部屋をこっそり盗み聞ぎするのは難しくなっていますが、この術をかけた人間は別です」
それを聞いた染みに映る男の顔が、不敵な笑いを浮かべた。
「もし、納得できるお答えが出来ない場合には?」
「そうですね。カスティオール家が持つ権利に基づき、内務省とフェリエ家、並びにウォーリス家へ問い合わせをさせていただきます」
「ウォーリス家は関係ないと思いますが?」
「実質的にはそうではなくて?」
「あなたには敵わないな」
「それよりも、返答をお願いします」
「マリアン嬢は当家、オリヴィアお嬢様の混合戦での出場選手です。その安全確保も私の給金の内ですよ」
「そうですか? でもトカスさんが見てくださるのなら大丈夫でしょう」
「おや、むしろ不安だとか、余計な事とか、おっしゃられると思いましたが?」
「この学園には色々なものが入り込んでいますが、最近もおかしなものが入り込んだようです。注意するに越したことはありません」
「なるほど……。それは気づきませんでした」
「本当かしら? それともう一つ」
「なんでしょう?」
「今度この部屋を覗きに来たときは、覚悟してください」
「はい、ロゼッタ教授殿。承知いたしました」