浸食
バシャン!
宿舎の中に水音が響いた。マリアンは桶の中にフレデリカの血に染まった試合着を入れたまま、その場に立ち尽くしている。部屋の中には誰もいない。フレデリカは事務方から来た人々によって、医務室へと運ばれている。
ローナから聞いた話では、頭を打っているので、今日一日は医務室で様子を見るとのことだった。医務室にはロゼッタさんもいる。自分に出来ることは何もない。何か出来るとすれば、せめてこの血に汚れてしまった試合着を洗うことぐらいだけだ。
「あの人に血を流させるだなんて……」
小さな流しの中で試合着を石鹸でこすりながら、マリアンは自分が怪物に代わってしまったのではないかと、恐れおののいた。灰の街では精いっぱい虚勢をはっていたが、それは自分を守るためだ。決して自分の力を誰かに見せびらかすためではない。
だけど今の自分はどうだろう。ジョナやバルツに対する態度は? 今日のフレデリカとの練習もそうだ。この世界のフレデリカは貴族の令嬢であり、前世のような冒険者ではない。単に軽く当ててフレデリカに是正すべき点を告げればいいだけだ。
「もういや……」
マリアンの口から言葉漏れた。一体自分はどうしてしまったのだろう。アルマから組を押し付けられて以来、自分は得体が知れない何かに侵されている。そしてそれを止められない。
アルマは自分とそっくりだと言っていたが、その通りだ。このままでは、とてもフレデリカの側にはいられない。いる資格がない。マリアンはフレデリカの試合着を部屋の中へ干すと、外出用のカバンを手にした。
誰かに相談できるとすれば、ロイスしかいない。マリアンはロゼッタが部屋に来た時の書きおきをしたためると、宿舎の部屋を飛び出した。
通用口まで来ると、学園の通用口は外出待ちの侍従たちで混んでいる。そう言えば、今日は月末日で、多くの家では侍従の交代の日だ。それを見たマリアンは列の後ろに並ぼうとして足を止めた。これではいつ出られるかも分からない。
それにいくら医務室にいるとはいえ、けがをさせたフレデリカを放っておいて、外出するなんてあり得るのだろうか?やっぱり自分はおかしくなっている。そう思って、宿舎へ戻るべくここから去ろうとした時だった。
「カスティオール家のマリアンさんですね」
横手から声が掛かった。振り返ると、通用口の警備員がマリアンに手招きをしている。
「事務方から聞いています。こちらに並ぶ必要はありません。中で手続きをさせていただきますので、事務室までお願いします」
それを聞いた他の侍従たちが不思議そうな顔をしてマリアンを見る。それはそうだろう。単なる侍従へかける言葉にしては、警備員の口調も丁寧だ。
マリアンは黙ってうなずくと、警備員の後ろへ続いた。自分からバルツに依頼したこととはいえ、これも全てはアルマの力だ。思わず噛んだ下唇から、血の味がしてくる。
「馬車の手配はいりますでしょうか?」
部屋に入ると、警備員がたずねた。どうやら臨時の馬車の手配まで話がついているらしい。
「いえ、結構です」
「では、お気をつけて。帰りも窓口ではなく、直接こちらの警備室へ声を掛けてください」
警備員が反対側の扉を開けた。いきなり警備室からでたマリアンの姿を、馬車を待つ侍従たちが興味深げに見ている。その全てを無視すると、マリアンは馬車だまりの横を小走りにかけた。きっと馬車を待つ侍従たちは、どこかの家の主人とのあいびきへ出かけたとでも思うことだろう。
今はそんなことはどうでもいい。マリアンは馬車だまりを抜けると、その先の小道の脇に目立たぬよう止まっていた、無紋の馬車のドアを開けた。
「姐さん?」
馬車に詰めていた、ロイスの右腕のマインズが驚いた顔をする。
「ちょっと相談があって、ロイスのところへ行ってもらいたいの」
「ロイスの旦那ですか?」
マインズが少し困った顔をする。その表情にマリアンは焦った。ヴォルテは王都の顔役のほとんどを粛清してしまっている。ロイスは無事だったが、いつ何が起きてもおかしくはない。
「ロイスに何かあったの?」
「いえ、何かあったわけではありませんが、今はカスティオール家のある方へ会いに行ってます」
「カスティオール?」
「正しくは、カスティオールにつめているライサの関係者です」
「そう……」
マインズの台詞にマリアンは頷いた。どうやらロイスは自分の依頼を受けて、モニカへ会いにいってくれているらしい。
「ですが、姐さんが会いたいと言うのであれば――」
「大丈夫、こちらは急ぎじゃない」
「ですが――」
「大丈夫って、言っているでしょう!」
そう口にしてしまってから、マリアンは心から後悔した。すぐに謝るべきなのに、なぜか謝罪の言葉が口から出ていかない。
「姐さん、遠慮なく私たちを頼ってください」
無言のマリアンに、マインズが告げた。その口元には笑みが浮かんでいる。
「もちろん頼りにしているわ」
「どんな些細なことでもです。私たちは姐さんのためならどんなことでもします」
どういう訳か、マインズの態度にマリアンはいらだった。
「たかが小娘よ。どうして?」
「年なんて関係ありません。姐さんに会う前の私たちは、単なるやくざ者で、本当にゴミみたいなものでした。ロイスの旦那だってそうです。でも姐さんとあって、変わりました。いや、生まれ変わったんです」
その言葉にマリアンははっとした。
「はい。大げさだと思うかもしれませんが、本当のことです。私たちは生まれ変わって、姐さんについていくと決めたんです」
マリアンはまっすぐにこちらを見つめるマインズの瞳に耐えきれず、視線を外した。
「私も変わるかもしれない。アルマみたいな女に……」
いや、もう変わりつつある。だがマインズは、白いものが目立つひげ面の顔を横に振って見せる。
「姐さんは大丈夫です。何かあったら、私らが体を張って止めます」
「止める?」
「私らだけでありません、ロイスの旦那だってそうです。ですから、私らのことを少しは頼ってください」
マリアンは自分のまぶたが熱くなるのを感じた。そうだった。自分も同じだった。前世でフレデリカに、風華に出会って、まさに生まれ変わった気持ちになったのを思い出す。自分は決してアルマなんかにはならない。なってしまったら、自分を支えてくれている人たちを、何よりあの人を裏切ることになる。
「ありがとう。本当にありがとう。でも今日は大丈夫。もっと大事な用事があるのを忘れていただけよ」
そうだった。自分は大事なことを忘れていた。人は変わってしまうだけじゃない。変わることもできる。まずはあの人にちゃんと謝ろう。何をするにもそれからだ。そう心に決めると、マリアンは馬車を降りた。
午後の日差しが目に染みる。マリアンはその先にある冬の空を見つめた。それはどこまでも高く、そして澄んでいる。今の自分の気持ちと同じだ。そう思った時だった。自分の中の何かが違うと語りかけてくる。
『アルマも、最初からアルマだったのだろうか?』
自分は母が生きていたころのアルマを知らない。その時からアルマは自分が知っているアルマだったのだろうか?
アルマは自分の母親を、ミランダを失ってから空っぽになったと言った。自分がもしあの人を失ったら、今のアルマと同じように、世界の全てを恨み続けることだろう。
『私はアルマだ……』
マリアンは唇をかみしめると、学園の通用口へ向かって歩き始めた。