血筋
マリアンは抱えていた洗濯物の桶を、洗い場の目指す相手の隣へ置いた。そこでは大半の侍従とは違う、あか抜けた容姿をした女が、なれない洗濯板を相手に苦戦している。それに洗い物をするには少し遅い時間で、洗い場にはマリアンと彼女の二人しかいない。
「ジョナ……」
「マリアン様!」
「こちらを見ないで、そのまま洗うのを続けてちょうだい」
「は、はい」
マリアンの言葉に、ジョナは慌てて洗濯物を洗う作業へと戻った。マリアンは再び辺りの様子をうかがうと、洗濯籠から洗い物を出して、桶へ水をはる。この音が響いている限り、誰にも会話を聞かれることはない。
「ウォーリス侯について聞きたいことがあるの。バルツになるべく早く顔を出すように言ってくれないかしら? 手段はそちらにまかせる」
「はい。承知いたしました」
マリアンはジョナに小さく頷くと、桶に張った水の中をのぞき込んだ。水面には日に焼けた自分の顔が映っている。ロイスは自分のことを母親そっくりだと言ったが、こうして眺めてみると、あの男にも似ている気がする。あの男と同様に、どんなに愛想笑いを浮かべてみても、人を寄せ付けない何かがある。
それを見ながら、マリアンは心の中で自問した。あの男が自分の父親ならば、自分はウォーリス家の縁者だ。もしかしたら、フレデリカと一緒にここで学ぶ機会があったのかもしれない。一瞬だけそんなことが頭に浮かんだが、すぐにそれを頭から追い出した。
『あり得ない……』
どの貴族の家にも落とし子の一人や二人はいる。そのほとんどは、僅かばかりの手切れ金を渡されて縁を切られるだけだ。本妻に子供がいないとか、よほどの運がなければ、家に入ることなどない。
ジョナが立ち上がった拍子に、桶の水が揺らいだ。自分の顔も妄想も、その全てが揺らぎの向こうへと消えていく。自分の父親が誰かも、誰の意図なのかも関係ない。自分がどう生きるかはすでに決まっている。全てはあの人のためだ。
マリアンは洗濯物を手に取ると、冷たい水の中へとそれを沈めた。
マリアンは桶を片手に宿舎の階段を上ると、部屋の前で、伸ばした手を扉の隙間へそっと手を這わせた。そしてわずかに顔をしかめて見せる。
何かあった時に、誰かが中へ入れるようにするためと言う建前で、宿舎の部屋には鍵がかからないようになっている。なのでマリアンは、部屋を出るときには必ず自分の髪の毛をドアの隙間へと挟んでいた。それで、誰かが不在の間に部屋の中へ入ったか分かる。
フレデリカとマリアン以外に、この部屋に出入りする可能性がのある者がいるとすれば、家庭教師のロゼッタだけだが、今は授業中でそれはあり得ない。
マリアンはスカートの中から素早く短剣を抜くと、桶の中で隠し持った。そして何も気づかないふりをして扉を開ける。しかし中に男が一人立っているのを目を留めると、そのまま何も言わずに桶を洗い場へ置く。
「ここは女性の部屋なのだけど、随分堂々と入ってくるのね」
「この部屋は、代々のカスティオール家のお嬢様方が使った部屋で、この学園の中では一番安全な場所の一つです。それにおっしゃる通り、堂々としていれば、意外と誰にもとがめられないものです」
「本当かしら?」
マリアンは小さく首を傾げて見せると、バルツに椅子をすすめて自分も腰をおろした。
「ヴォルテは私の父親だと言っていたけど、ウォーリス侯って一体何者なの?」
「この国を代表する貴族の一人です」
マリアンはバルツに向かって大きくため息をつきつつ、肩をすくめて見せた。そしてバルツの顔をじっと眺める。その黒い瞳はどこまでも冷ややかだが、こちらを侮っているようには思えない。それにこれと同じ目をどこかで見た気がする。でもそれがどこだったかは思い出せなかった。
「そのぐらいは私でも知っている。私が知りたいのはヴォルテの一味だった、あなたしか知らないことよ」
「そうですな。私しか知らないかどうかは分かりませんが、ウォーリス侯は二人いると言われています」
「影がいるということ?」
「おそらくはその様なものでしょうね。ですが偽物の方が本物らしく、年齢と共に、相応に老いていくそうです」
「それじゃ本物の方は?」
「見かけがほとんど変わらないそうです。そのせいでしょうか? 本物もウォーリス侯以外を演じている方が長いと言われています」
「それって、本物はずっと同じという事?」
マリアンの問いかけに、バルツが首をひねって見せる。
「さあ、どうでしょう。偽物もずっと同じなのかもしれません」
「そうだとすれば、ヴォルテが私に言った言葉はうそね」
「あの男が、お嬢様に嘘をつくとは思えませんが?」
「そのお嬢様と言うのはやめてくれないかしら。アルマのことを思い出すの。でも嘘よ。少なくとも私は人だし、母さんのお腹から生まれてきたのは本当なんでしょう?」
「ウォーリス侯も人ですよ。それについては間違いありません。本人から聞きました。私が短剣を心臓に打ち込めば死ぬと、言っていましたから」
「ちょっと待って、それを真に受けるの?」
「嘘をつく理由もないからです」
それを聞いたマリアンは、再び大きなため息を漏らした。
「あなたたちと付き合っていると、こっちまで頭がおかしくなりそう。でも本当だとすれば、灰の街で育った私は、大貴族の落とし子と言うことになるわね。まるで出来の悪いおとぎ話みたい」
「マリアン様は、貴族としての生活をお望みでしょうか?」
「何を言っているの?」
当惑するマリアンに、バルツが真剣な顔で頷いて見せる。
「お望みなら、ウォーリス侯のところへ、マリアン様のことを子と認めるよう、依頼にいきます。特にウォーリス家へのこだわりがないのであれば、私の方で――」
「バルツ……」
「はい」
「私の前でそんな台詞を二度と吐かないで。今度口にしたら殺すわよ。それとお昼はあの人との剣の練習があるの。その前に着替えるから、出て行ってもらえないかしら」
それを聞いたバルツは椅子から立ち上がると、マリアンに一礼した。そして普通に部屋の扉を開けると、廊下の先へと姿を消した。