王子様
「はい?」
私は声をした方を振り返った。そこには私と同じぐらいの年齢の細身の男性が、白い礼服に身を包んで立っていた。その男性は鳶色の髪に鳶色の目をしていて、少し神経質そうな顔をしている。
「申し遅れました。私はイアンと申します」
イアン? さっき乾杯の音頭をとった人ですよね。私にやらせて頂ければ、もう少しピリッと締められたような気もしますが、乾杯としてはまあまあでした。あれ、乾杯の問題じゃないですよね?
「王子様!?」
思わず口から心の声が漏れた。
「はい。この国の第六王子をさせて頂いています」
「はっ……はい。フ、フレデリカ・カスティオールです。お初にお目にかかります」
とりあえず挨拶です。挨拶は大事です。
「先ほどの妹殿とのダンスはとても素晴らしかったです。姉によれば私も参加者のようですので、出来れば私とも踊っていただけませんでしょうか?」
「はい!?」
「では、こちらへ」
「いえ、さっきの『はい』はですね。承諾の意味では無くて、私の心の声です。気にしないでください」
私の言葉にイアン様が不思議そうな、いやどちらかと言うと冷たい目でこちらを見ている。いけません!何を私は焦っているのでしょう。
「お申し出はとてもうれしいのですが、本日は、妹の付添人としてこちらに参りましたので……」
「付添人ですか? 長女の貴方が?」
「はい」
色々とありまして、恥ずかしいのであまり大声で聞いて欲しくはないのですが?
「まあ、ソフィア姉さんみたいな人も居ますからね。でも先ほどは妹殿と一緒に堂々と踊られていたように思いますが?」
あのですね、さっきのあれはですね、勢いと言いますか、気の迷いと言いますか……。
「気の迷い?」
いけません!心の声が漏れてしまっています。
「失礼ですが、どなたか婚約者はいらっしゃいますでしょうか?」
「婚約者ですか? そんなものは居ません!」
何て失礼な事を聞いてくるのでしょうか?
「私もです。ならばフレデリカ殿も、参加者として何も問題はありませんね。ではよろしくお願い致します」
そう言うと彼は私の手を取って、広間の中央へといざなった。
* * *
「痛!」「痛い!」
お互いに何度目かの足の踏み合いをした後で、私達は二人で同時に叫び声を上げた。
「ちょっと待ってくれ。さっきはあんなに上手に踊っていたよね。本当に同一人物かい?」
それはですね。全て妹のアンが素晴らしい踊り手だからです。アンが私を導いてくれていたからです。それを私の腕だなんて思うのは、はっきり言って間違いです。
「イアン様こそ、男性なんですからちゃんと先導してください」
女性を導くのは男性の仕事というか、義務ですよね?
「いや、先導も何も、一小節早い動きをされたら困りますよ」
ちょっと待ってください。
「何を言っているのですか、イアン様が一小節遅れたのです。ちゃんと音楽を聴いていましたか?」
どんだけ勘違いしているんですか?
「もちろん聞いていたに決まっているだろう」
はあ? 本当に聞いていたんですか?
「違います。繰り返しの最後は最後の一小節が転調するんです!」
「そちらこそ違うぞ。それは次の繰り返しの時の話だ」
「はあ?」
いけません、思わず心のため息が漏れてしまいました。
「フレデリカ殿、誓ってもいい。そちらの間違いだ」
普通は女性が間違っていても、自分が悪かったとかいうもんじゃないですかね? それに王子様でしょう? 前世で読んだ乙女本では王子様はそんな台詞は絶対に吐きません!
「分かりました。最初から踊り直しましょう。そうすればどちらの間違いかはっきりします」
だめです。言葉ではらちがあきません。
「そうだな。それが一番はっきりする」
「楽団長!」
「さっきの曲をもう一度だ」
「おいおいイアン、他の人が踊っているのを無視して、勝手気ままをするつもりか?」
「キース兄さんは黙っていてください。これはとても大事な問題なのです」
「そうです。これはとっても大事な問題です。イアン様に何が真実かをお教えする必要があります」
こちらこそ、貴方が間違っているという証拠を見せてあげます!
「真実?」
「そうです」
「それはフレデリカ殿の頭の中だけにあるもので、普遍的なものではないのではないかな?」
「そうでしょうか? そちらこそ己の自尊心のせいで、真実と虚構の違いの区別がつかなくなっているのではないでしょうか?」
ロゼッタさんが朗読してくれた詩集に、そっくりそのままの台詞がありました。あれは貴方の為に誰かが書いた詩だったのですね。
「どうしてだろうな? 君の赤毛を見ているとどういう訳か、とても苛つくというか、面倒ごとをしょい込むような気がしてくるのは?」
「何ででしょうね。私も貴方の鳶色の目を見ていると、どうも苛々と言うか、落ち着かない感じがします」
一体何ででしょうかね。本当に、本当に苛つきます。
「先ほどの踊りは合わなかったようだが、この件については、双方の意見が一致したという事でいいのだろうか?」
「イアン様、そのようですね」
「なんでだろうな、君から『様』付けされると馬鹿にされたような気になるのは?」
「それは間違いなく気のせいだと思います」
誰が馬鹿にしているというんですか? それは貴方ですよ。その貴方の嫌味こそ私を馬鹿にしている証拠です!
「あの……」
指揮棒をもった楽団長が困った顔をしてこちらを見ている。
「何だ?」
『何だ?』はないでしょう。さっき貴方が声を掛けたんですよ。これだから自己中の王子様という奴は困ります。
「曲は『歌の翼に』でよろしいでしょうか?」
「そうだ!」「それです!」
最早これはダンスなどではありません。この男との決闘です!
* * *
「ぜえぜえ」「はあはあ」
私達はお互いに踏み合った足の痛みに耐えながら、荒い息をしていた。あれから二回ほど踊りなおしたが、結果は同じだった。だが一つだけはっきりしたことがある。私達は二人とも間違えている。
「イアンお兄様!」
「あれ、もしかしてイアンお兄様も踊っていたんですか?」
サイモン王子様が、まだ幼さが残る顔を傾けてイアン王子を見た。
「そうだ、それがどうかしたか?」
両手を膝についたイアン王子が、顔だけをサイモン王子様に向けて答えた。男のくせに体力が無いですよ。体力が。
「珍しいですね。それよりあの子、アンジェリカさんはすごいですよ。一緒に踊っていると、まるで雲の上で踊っているみたいです。自分の踊りが上手になったような気がします。あれ?」
サイモン王子様が両手を膝について、床に向かって息を吐いていた私に一歩近寄ると、私の顔を下から覗き見た。すいません、王子様ですから裾をもって挨拶すべきなのは分かっていますが、ちょっとだけ待っていただけませんでしょうか?
「アンジェリカさんのお姉さんですよね。初めまして、サイモンと申します」
サイモン王子様が、私に向かってちょこんと頭を下げた。普通はこちらから先に挨拶しますよね。私は慌てて顔を上げると、
「は……はじめまして、フレデリカ・カスティオールです」
必至に息を鎮めようとしながら挨拶を返した。もしかしたら汗だくで化粧も何も落ちてしまっているかもしれませんが、全てお許しください。
「イアンお兄様、今日はあの子と踊るので十分です。ではまた踊って来ますので、後はよろしくお願いします」
そう言うと、サイモン王子は広間の中央へと文字通りに駆けて行った。その先には明るい紫のドレスを着たアンが、少し困ったような顔をして立っている。きっと王子様とのダンスの相手を一人だけで務めている事に戸惑っているのだろう。
普通は有力者の娘たちと均等に踊るはずだ。そう言えば、私の横でまだ息が上がっているこいつも、本当なら色々な家の娘と踊るべきでは無いのか?
「イアン様、まだ白黒ついていませんが、続きをやりますか?」
「いや、フ、フレデリカ殿、十分だ。もう十分に、色々と理解した」
私の問いかけに、イアン王子は片手だけを上げて答えた。
「フフフフ……」
背後から女性の明るい笑い声が上がった。王子様を笑うとは何者? まあ、私も人の事は言えないか?
「ソフィア姉さん、何がそんなにおかしいんですか?」
上体を起こしたイアン王子が、笑い声の方をふり返った。
「おかしい? 違いますよ。イアンさんがとても楽しそうなので、それを祝福しただけです」
姉さん? という事はソフィア王女様ですか? 私も慌てて上体を起こすと、王女様の方を向き直ってドレスの裾を上げる。私の視線の先には口に手を当ててさもおかしそうに笑う、銀色の髪に薄い青が入った灰色の目を持つ女性が立っていた。ただドレスは私と同じ様な地味な色のものを着ている。
「楽しいですか? 私が?」
「ええ、姉としてこんなに楽しそうなイアンさんは見たことがありません。これはお世辞抜きです」
そう言うと、私に向かって微笑んでくれた。うん、この人はこの弟君と違っていい人のようです。
「お世辞抜き? その辺りはどうでもいいですけどね、さっきの声は10人が聞いても10人が笑い声、それもどちらかと言うと嘲笑だと答えると思います」
イアン王子が厭味ったらしく答えた。この人の嫌味は私だけという訳ではないのですね。絶対に矯正すべき案件です。前世のでかくてごつい知り合いと同じになってしまいます。
「そうか? 俺もソフィアに同意するぞ」
王女様の横に立つ、長身で少しがっちりした体をした男性が答えた。キース王子様だ。この人も兄弟らしく鳶色の髪に鳶色の目をしている。
「キース兄さんは黙っていてください。私はソフィア姉さんと話をしているんです」
キース王子様がイアン王子に向かって両手を上げて見せる。うん、この人はいかにもお兄さんと言う感じの人ですね。
「どちらも特定のお嬢さんとだけ踊っているとは、困った弟達だな。そちらのお嬢さん達にご迷惑が掛かるという物だ」
でしょうね。確かに山ほど足を踏まれていますからね、迷惑かけられまくりです。
「あらキースお兄様、どちらも楽しそうでいいと思いますけど。それにここは無礼講の場なのでしょう?」
「建前上はそうですけどね」
キース王子様から答えを聞いたソフィア王女様が口の端を上げて「フフフ」と笑って見せた。
「ソフィア、お前何か良からぬ……」
ソフィア王女様がキース王子様の言葉を待たずに、私に向かって口を開いた。
「では私も踊らせて頂くとします。フレデリカさん、ふがいない弟に代わって、私が貴方のお相手をしてもよろしいでしょうか?」
「姉さん、本気ですか?」
その言葉に、イアン王子が驚いた声を上げた。
「イアン、貴方はだまっていなさい」
なるほど、この人はこう扱うべき人なんですね。口を開かせてはいけないのですね。
* * *
馬車の窓の外に見える空は、西の端に微かに赤く光る雲が見えるが、その大部分は日が落ちた後の濃紺の空が広がっている。アンが私の肩にもたれかかって、頭をグラグラとさせながら眠りについていた。
あれだけ挨拶をかわし、踊ったのだ。それはそれは疲れた事だろう。だけどお披露目に向けて彼女が努力してきたことの全てを出し切れたと思う。私は彼女の頭を支えると、それを私の膝の上に乗せてあげた。
なんてかわいい妹なんでしょう。一人っ子だった前世の私が欲しくて欲しくてたまらなかったものです。かわいいだけじゃありません。貴方は私が過去の出来事としてあきらめていたことに、再び挑む機会をくれました。
道の何かにひっかかったのだろうか、馬車が少しばかり大きく揺れた。アンの小さな体を支えてあげる。この先も私は貴方を支えて行ってあげたい。まあ、私が出来る事と言えばこの程度ですけどね。
「カタン」
その動きに何かが馬車の床に転がったのが見えた。お母さまの形見の日傘だ。帰りにカールさんがこれを私に返してくれた時に、
「本日はすばらしいお披露目でした。感服いたしました」
と言ってくれた。それはそうでしょう。アンの完璧な踊りと立ち振舞を見れば、誰もが納得です。
「カールさん、ありがとうございます」
彼は私のお礼の言葉に完璧な礼を返すと、私達に対して馬車の扉を開けてくれた。ほんのわずかな間の出会いだったけど、カールさんからも色々な事を教えてもらった。それに……あ……少しだけ嫌な事を思い出してきました。
「何ですか、あの嫌味男は!?」
思わず口から心の言葉が漏れた。前世でもどういう訳か嫌味男に遭遇しまくりでしたけどね。今世でも遭遇するとは思ってはいませんでした。
あれです、あれ、嫌味を言わないと息が吸えない種類の人間です。まあ、二度と遭遇することはないとは思いますけどね。だけど今日会った王子様に王女様はあの嫌味男を含めて、みんな個性にあふれた人達だった。
サイモン王子様はアンと踊るのが気に入ったらしく、一緒に踊った感想を声高に上の二人のお兄さんに話すものだから、それを聞いたアンが耳まで真っ赤にしていたのはとても可憐でかわいかった。
キース王子様はみんなのまとめ役という感じで、それぞれの意見に対して的確な返事を返していたが、今思い返すと、その言葉は結構辛辣だったような気がする。それをそうだと思わせないところが、その下のある王子と違ってキース様の人格者たるところなんだろう。
ソフィア王女様は、天真爛漫というかともかく自分の思い通りにする方だった。普通はあのような場で女性同士で踊ったりはしない。ましてはあの方は王女様だ。絶対にしない。だけどあの方は私の手をとって、とても楽しそうに踊って見せた。それにとっても踊りが上手だった。
その上手さはアンの優雅な踊りとは少し違っていた。とってもお上手なんだけど、それを相手や見る者に気が付かせないほどに上手だった。ある意味、達人と言っていいのかもしれない。一緒に踊った私も、ある王子様とは違って、とても楽しく踊れた。
こんな個性あふれる王子様や王女様を育てたセシリー王妃様というのは一体何者なんだろう。無いとは思うが、お会いできる機会があれば一度お話ししてみたい。
本当に色々な事があった一日だった。あ……色々とありましたね。ありすぎて忘れていましたが……。
私は一体何をしたんですかね。お披露目の会でどこかの少年を投げとばして、付添人なのに踊りをアンと一緒に衆人注目の中で踊って、王子様や王妃様とも踊りましたね。踊っただけですかね。何か他にも色々とあった様な気がします。
もしかして、王子様と怒鳴り合いなんてしてました? そんな大きな声は出していないですよね。精々が意見の交換程度ですよ。そうだったかな。なんか楽団の団長さんに向かっても叫んでいたような気がしてきました。
「いけません!」
もうこの馬車ってお屋敷に着きます?
これってお屋敷に着く前に逃げ出した方が絶対にいい奴ですよね!?