隣人
「忘れ物はないよね?」
そう声をかけた私に、背後に続くマリがため息をついて見せた。今日はイサベルさんのお茶会なので、朝から気合を入れて準備をしたはずだ。
頭につけるリボンも、いつもより大きく、いつもはつけない赤色を選んでいる。一体何を忘れているのだろう?
「フレアさん、まだスリッパのままです」
「えっ!」
足元を見ると、確かにまだスリッパをはいたままだ。なんて間抜けなんだろう。慌てて靴へと履きかえる。
でもなかなか靴紐がきれいに結べない私に代わって、足元にかがみこんだマリが、左右対称になるようきれいに結んでくれた。マリが誰と家庭を持つのかは分からないが、旦那さんになれた人は、間違いなく世界一の幸せ者だ。
「気合が入るのはいいですが、入りすぎて空回りしないよう、気を付けてください」
顔を上げたマリが私に告げた。その目は、今日はやらかさないでくださいと告げている。
「はい。気を付けます」
そもそも今日の主役はイサベルさんなので、私がやらかすとしても、せいぜいが行儀作法上の問題くらいだろう。それに我がカスティオール家は落ちぶれまくっているので、どんなに恥を掻こうが大したことではない。
でもなにか大事な事を忘れている気がする。よく思い出せないが、イサベルさんが主役であることに違いはない。なので問題なしです!
「では今日も一日、がんばっていきましょう!」
そう宣言して部屋の扉を開けたところで、いきなり誰かにぶつかりそうになる。
「ご、ごめんなさい!」
「フレデリカさん!」
慌てて下げた頭の先から、聞き覚えのある声が響いた。
「ローナさん!?」
「はい。宿舎がこちらへ代わりました」
ローナさんが廊下の先をちらりと見た。
「今度はフレデリカさんのお隣の部屋ですね」
その言葉に、思わずローナさんの両手を固く握りしめた。私の部屋は廊下の突き当りから少し突き出した角の部屋で、他の部屋からは隔離された感じの場所だ。
そこには二つ部屋があるのだが、一つを使っていた上級生の方が病気で休学して以来、空き部屋になっている。ともかく寂しい状況だったのだ。そこにローナさんが入ってくれるとは、なんという幸運なのでしょう!
「はい。よろしくお願いします。それに団体戦の監督を引き受けてくれて、ありがとうございました」
再び頭を下げた私に、ローナさんがにっこりとほほ笑んでくれた。
「監督の募集状況はいかがですか?」
「正直なところ、皆さんから断られまくりです。でも今日のお茶会で、頑張って勧誘したいと思います!」
「そうなんですね。でもメラミーさんは心変わりしたみたいですので、引き受けてくれると思います」
「えっ、本当ですか!」
ローナさんに加えて、メラミーさんも引き受けてくれれば、青組や黄組も間違いなく盛り上がってくれます。これはローナさんとも、色々と相談させてもらわないといけません。
そもそもこの学園で、私がまともに友達付き合いをさせてもらっているのは、イサベルさんとオリヴィアさんだけだ。それ以外の人たちからは、間違いなく痛い人扱いされている。
なので「ぜひ相談を」と言いかけたところで、ローナさんが大きなカバンを持っているのに気が付いた。どうやら自分は彼女の引っ越しの邪魔をしてしまっているらしい。
背後にはローナさんの付き人らしい、上品な感じのするきれいな顔の侍従さんと、髭を短く切りそろえた、とっても渋いおじさんが続いている。
「ごめんなさい。お邪魔でしたね。私もお手伝いを――」
ローナさんが首を横に振って見せた。
「いえ、もうこれで終わりです。それよりも今日はお茶会ですから、フレデリカさんも急がれた方がいいかと思います」
「そうですね。でも今度お話をさせてください」
「はい」
ローナさんが朗らかな笑みを浮かべて見せる。なんて可愛いんでしょう。マリと結婚できる旦那さんも幸せ者ですが、ローナさんと結婚できる旦那さんも、間違いなく超幸せ者です。
「こちらの荷物の搬入だけでも、私の方でお手伝いしましょうか?」
マリが背後から私に声をかけてきた。流石はマリです。
「はい、是非にお願いします!」
「そちらのカバンは机へお願いします」
「はい」
マリアンはローナへ頷くと、隣にいるバレツへ目配せをした。ローナはジョナと一緒に寝室へ荷物を運んでいる。
「つなぎをつける方法を考えてとお願いしたけど、本人が来るとはどういうことなの?」
「はい。これが一番確実です」
バレツが表情を変えることなく答えた。
「あなたには外にいてもらいたかったのだけど?」
「手足になる者でしたら、他にいくらでもいます。それに外にはロイスの旦那がおります」
「ものは言いようね。こちらを監視に来たと、はっきり言ってもらった方が助かるのだけど」
「私はそのような立場にはおりません」
マリアンの嫌みにバルツが真顔で答える。マリアンは思わずため息をもらしそうになったが、その前に色々と確かめるべきことがあるのを思い出した。
「あの子の侍従と護衛役としてもぐりこんだという事は……」
「はい。あの家は商家でして、最近は火の車です。それで経済的援助の引き換えに娘を身請けする話がありましたので、それに横やりをいれました」
「どこの世界もゲスな男の考える事は同じね。でも話としてはありだけど、本当に身請けするつもりなの?」
「その方が目立たないかと思います」
扉の向こうへ視線を向けたバルツが答えた。
「だめよ!」
マリアンはバルツの短く髭が刈り込まれた頬へ手を寄せると、自分の方へ顔を向かせた。自分の為に誰かを、かつての自分の様な目に合わせる訳にはいかない。
それにあの人もそんな事を決して許したりはしない。たとえ自分の命が危険にさらされたとしてもだ。
「では何か他の手を……」
そう答えたバルツへ、マリアンは頷いて見せた。
「あの子はあの人の大のお気に入り、いえ、お友達なの」
「はい。了解いたしました」
「ヘクター、どうした?」
エルヴィンはお茶会の会場へ向かう途中で、急に足を止めたヘクターへ声を掛けた。周囲ではいつもより丁寧に頭をなでつけ、制服のシワを伸ばした男子生徒たちが、お茶会の会場である大庭園へ向かって歩いている。
「すまない。ハンカチを持ってくるのを忘れたようだ。部屋に取りに戻るから、先に会場へ行ってくれないか?」
そう告げたヘクターに、エルヴィンが怪訝そうな顔をして見せる。
「お前らしくないな」
「ああ、人生初のお茶会で舞い上がってしまったらしい」
「急げよ。部屋まで戻ってだと、あまり時間がない」
「分かった!」
ヘクターはエルヴィンへ手を振ると、軽やかな足取りで宿舎へ向かって走り出す。やがて人の目がない所に来ると、不意に木立の影へと身を隠した。
「お嬢様……」
地面に跪いたヘクターの口から言葉が漏れた。その頭の先には侍従服を着た、美人とは呼べないが、どことなく男好きのする女性が立っている。
「直接声をかけるのは危険かと――」
ドン!
ヘクターの腹へ、女性のつま先がめりこむ音が響く。
「どうしてあの男が、バルツがここにいるんだい?」
「バルツですか?」
腹を抱えたヘクターが女性に問い直した。
「ヴォルテたちに、私たちがここにいる事がばれたんじゃないのかい?」
女性はそう告げると、辺りを少し不安げに見回した。
「いえ、そのような兆候はなにもありませんでした。ですが、あの娘の件でヴォルテが動くのは予想していたことです。我々とは関係なしに現れたとしても、おかしくはないかと……」
「あれはお前同様に、こちらの監視をしていた男だ。バレたとしか思えない」
「そうだとすれば、目立ちすぎです」
「目立ちすぎ?」
「はい。まるで我々に気が付いていることを、向こうから教えているようなものではありませんか?」
その言葉に、侍従服姿の女性が考える仕草をして見せる。
「確かにお前の言う通りだね。私を目の前にしながら、何のそぶりも見せなかった。でも腑におちないね」
「いずれにせよ、しばらくはおとなしくしているのが――」
ドン!
再びヘクターの腹でにぶい音が響いた。
「逆だよ。こちらから揺さぶりをかけてやろうじゃないか。都合がいいことに、今日はお茶会だ。外からそれはもう汚れまくった連中が山ほどやってくる」
そう言うと、ジャネットのふりをしているアルマがニヤリと笑って見せた。
「何をされるおつもりでしょうか?」
ヘクターのふりをするリコが、不安げな顔でアルマを見つめた。
「学園の青いぼっちゃんやお嬢ちゃんたちに、大人の世界と言うのを見せてやろうじゃないか」