失踪
「サンドラ、ローレンスがもう戻ってもいいってさ!」
ニコライは部屋に入ると、自分の双子の妹という設定のサンドラに声を掛けた。
「助かったよ。オルガに適当な嘘を言い続けるのにも疲れたしね」
そう言葉を続けると、ニコライは部屋のクローゼットを開けた。だがその整った少年の顔に怪訝そうな表情を浮かべて見せる。
「どこに隠れているんだ? 人型に戻すから出ておいで!」
そう声をかけたが、何の返事もない。
『カルミア、どこにいるんだ?』
人には聞こえぬ声でもう一度呼びかける。やはりなんの気配も感じられない。ニコライは少し真剣な表情になると、片手をあげて空中に魔法陣を描き始めた。しかしそれは淡い光を振りまいただけで、そのまま消えてしまう。
「おいおい、これはまずいよね」
ニコライは目を瞑ると、この館を巡る様々な防壁を掻い潜るべく意識を集中した。
『ダチュラ!』
『ロベリア、どうした?』
この屋敷でローレンスを演じているダチュラが、ニコライを演じているロベリアの精神に答えた。
『カルミアが消えた』
『消えた?』
『あれは剣型になっていたから、ここから動けるはずは――』
『そうだ。動けるはずはない。何者かが侵入した形跡はないか?』
ニコライの問いかけにしばしの沈黙が流れる。
『外からは何もない。だが……』
ダチュラはそう答えたが、何か気になることを見つけたらしい。慎重なダチュラらしく、口ごもって見せる。
『どうした?』
じれたニコライが、ダチュラに問いかけた。
『館の中に揺らぎの痕跡がある』
ダチュラの答えに、ニコライが指をパチンと鳴らした。
『あれのおもちゃだ!』
『おもちゃ? どう言うことだ?』
『カルミアは人間の魔法職に面白半分で力を貸していた。でもそのおもちゃが、黒曜の塔とか言う所へ移動になって、ローレンスも黙認していたんだ。あれが学園で暴れまくったのもその件だよ』
『そのつながりを使って移動したのか?』
『剣にされたのが相当に気に入らなかったみたいだね。いかにもあれのやりそうなことだ!』
『なるほど。確かにカルミアらしいな』
『ダチュラ、ローレンスに繋いでくれ。緊急事態と言う訳ではないが、厄介ごとが起きたのは間違いない』
ニコライの周りの景色が急に変わった。ダチュラの開けた穴を通ってどこかへ瞬間移動したらしい。ニコライの目の前には、どこかの地下室らしい場所に置かれた書斎で、ノートに何かを書きこんでいる男の姿があった。
「ニコライか? そうか、サンドラに何かあったな?」
男は顔を上げると、そうニコライに問いかけた。ニコライが男にうんざりした表情をして見せる。
「あれはいつかの誰かさんと同じで、どこかへ遊びに行ってしまったみたいだよ」
薄暗い部屋の寝台の上には、敷布で丁寧に包まれて横たわる若い女性の姿があった。
その胸には心臓を一突きにされた傷跡があり、女性の胸の谷間に咲いた一輪の赤い薔薇に見える。さらにその周囲には大量に流れた血の跡があり、彼女の亡骸を赤い花で包んでいるみたいに見えた。
寝台の傍らに立つ二人の男が、女性に向かってそっと手を合わせる。そして背後に控えていた黒い服の男たちに頷いて見せた。
「『鎌』、『斧』で間違いないな?」
二人のうち細身の男の肩に止まっていた、鳥とも蜥蜴とも言えない生き物から声が響いた。
「はい。ナターシャで間違いありません」
「『大足』の行方は?」
「今のところ足取りは何も掴めていません。生きているのか、この世界にいるのかどうかすらも不明です」
「穴の向こうへ行ったとでも言いたいのか?」
「後で穴を塞ぐ身としては迷惑そのものですが、まれに自分から穴の向こうへ行くやつもいます。ですがこいつは違いますね。術を使った形跡はありません。でも遺体が見つからないのはおかしい――」
「どういうことだ?」
「大量に血が流れています。間違いなくやつの血です。普通に考えれば、ここから逃げたとしても、長生き出来るとは思えません」
「『斧』の仕業の可能性は?」
「ないと思います。それにナターシャはほとんど変わりかけていたはず。それを殺せた理由も不明です。いずれにせよ色々と辻褄があっていません」
そう答えた男の声は冷静だが、どこか投げやりにも聞こえる。
「そこは専門家に任せてお前達は塔に戻れ」
「了解です」
「ご苦労だった。明日は休みでよい」
次の瞬間、男の肩に居た鳥もどきが姿を消す。
「『槌』、明日は休みだそうだ」
鎌はナターシャの骸をじっと見つめ続ける大柄な男、鎚に声を掛けた。だが何の返事もない。
「おい、聞いているのか?」
「聞いている」
鎌はため息をついて槌の横に立つと、回収職が遺体袋にナターシャを詰め込むのへ視線を向けた。
「この子は幸せだっただろうか?」
槌がそのいかつい顔に似合わない、切ない表情を浮かべつつ鎌に問いかけた。
「幸せ? どういう意味だ?」
「この子は好きな男と一つになれて、幸せだっただろうか?」
「それについて言えば、間違いなく幸せだったはずだ。だが……」
鎌はそこで言葉を切ると、回収職と呼ばれる後始末を専門とする者たちが、遺体を部屋の外へ運び出すのを見つめた。
「胸糞悪いことに変わりはない」
遠く王都を見下ろす丘の上で、強い木枯らしが吹きすさぶ。その風に立ちすくむ男の長外套の裾がはためいた。まだ若い男だ。だがその顔には以前はあった、どこか幼さを感じさせる表情はどこにもない。代わりにほの暗い何かをその身に宿らせている。
「ナターシャ、君の仇は必ず僕がとってやる……」
そう呟いたエドガーの瞳は、メナド川の向こうにそびえる黒い塔と、そこから少し離れた位置に立つ、真っ白な塔をじっと見つめ続けていた。
これにて第七章「転換」は終了になります。