誓い
「先に汗を流してくるわね」
部屋に入るなり、ナターシャがエドガーに声をかけた。ともかく言う通りにして質問もなしと言われている以上、エドガーとしては頷く他はない。ナターシャは上着を脱いであっという間に下着姿になると、部屋の奥の洗い場へと姿を消した。
手持ち無沙汰なエドガーは、寝台の上に無造作に投げられたナターシャの服を畳んだ。その間も、心臓が爆発するのではないかと思うぐらいに脈打っている。
「あなたの番よ」
ナターシャはタオルを巻いただけの姿で洗い場から戻って来ると、そうエドガーに告げた。
「あ、あの――」
耐えきれずに口を開こうとしたエドガーに、ナターシャが口元を動かして見せる。それは「ま・だ・よ」と読めた。まだ自分に従えと言う事だ。エドガーは畳んだ服を慌ててテーブルの上へ置くと、洗い場へ繋がるドアに手をかけた。
「服を脱ぐのを手伝う?」
エドガーはナターシャの言葉に首を横に振ると、洗い場へと飛びこんだ。もどかし気に服を脱ぎ、温み水ではなく冷水をかける。しかしその水の冷たさも、エドガーの雄を静めてはくれない。
それでも体が芯から震えるぐらいに水をかけると、おいてあったタオルを巻いて部屋へと戻った。小さな油灯の元、寝台の掛布が膨らんでいるのが見える。
『一体どこまでが演技なんだ?』
エドガーは体を震わせながら寝台の中へもぐりこんだ。ナターシャが掛布の影で口元に小さく指をたてると、じっと辺りの気配を窺う。
「ふう」
ナターシャの口から大きなため息が漏れた。
「多分もう大丈夫。さすがにここから先は覗かない」
「どうして分かる?」
「私達『腕』の間にも、いくつか不文律というものがあるのよ。あなたは寝台の上の出来事を、同僚に見られたいと思う?」
「そんなものまで見られるのか?」
「あのやくざ者を覗いたみたいに、必要があれば覗く。だけど私たち腕の間では行為そのものを覗いたりはしない。それを覗かないことについては自分たちも例外ではないから、上も黙認している。」
「それでか……」
「最低限の協定みたいなものよ。休暇中の私たちなんて絶対に覗かれているに決っている。だいたい私たちは南区の件に関わった人間よ」
エドガーは肩の力が抜けると同時に、自分の中で何かがしぼんでいくのを感じる。そしてアルベールが話をしていた相手が何者なのかについて考えた。なにしろナターシャが、これだけの演技をしないと、話せないような内容なのだ。
「あの老人は?」
「王立学園、学園長のシモンよ」
「あれが?」
見かけだけに限れば、あの長く白い顎鬚を持つ老人がそんな危険人物だとは到底思えない。むしろどこかの隠居と言う感じだ。
「のらりくらりとして捉えどころのない男だけど、中身は相当な狸よ」
「狸?」
「めちゃくちゃ危険な奴で手を出したらやばい、と言うのが私たち『腕』の間での通説、いや、事実ね」
そう告げると、ナターシャは再度辺りの気配を伺った。
「実際、宣星官の何人かは、学園を覗く任務についた結果、療養所送りになっているわ。その中には腕もいたし、それほど前の事でもない。その黒幕こそシモンと言う話よ」
「もしかして、僕が宣星官に移動になったのは――」
「そう。それに手を焼いたレオニートが、藁にでもすがる思いであなたを選んだ。そしてあなたは生き残って腕になったの」
そこでナターシャは、考え込むような表情をして見せた。
「だけど辻褄が合わないのよ。あなたは気が付いたか知らないけど、あそこにはおっさんもいたの」
「おっさん?」
「レオニートよ」
ナターシャは自分たちの上司の名前を告げた。
「あの建物は内務省の別館だろう? 何かの打ち合わせで顔を合わせただけじゃないのか?」
「レオニートにとって、シモンは天敵みたいな存在のはずよ。別館の正式な会議でもないのに、仲良く一緒に外へ出てくると思う?」
「と言う事は、実は裏では繋がっているという事か?」
そう問いかけたエドガーに、ナターシャは口元に指を立てて見せた。
「めったなことを口にしない!」
「すまない」
「それにあの男は、白亜の塔の力を完全に掌握していると噂されている」
「白亜の塔って、学園にある塔か?」
「そうよ。あなただって魔法職なのだから、白亜の塔に関する伝説ぐらい知っているでしょう?」
「この世界と別の世界を繋ぐための塔とか言うやつだろう。それっておとぎ話じゃ――」
「おとぎ話なんかじゃないわ。あの塔にはそれ以上の秘密があるの。ロストガルとは失われし古代語で、『塔の国』という意味よ。その塔の一つが白亜の塔。もう一つが――」
「神殿にある『祈りの塔』……」
エドガーの答えに、ナターシャが頷いて見せる。
「それに隠された第三の塔があるとも、実は多くの塔が隠されているとも言われている。星見の塔も、私たちのいる黒曜の塔も、二つの塔を模して作った偽物という話よ」
「それじゃ、あの老人は……」
「白亜の塔を支配している者が、無能者の訳なんかない。これまでの歴代の学園長は白亜の塔の力を封印する立場だったけど、やつは違う。それを積極的に使おうとしている。それが何を呼び寄せたのか、あなただって見たでしょう?」
「例の蜥蜴のお化けみたいなやつだな」
「白血と呼ばれている化け物よ。ちなみにあれを撃退できたのは、あなたも含めて、歴代の腕の中で片手もいないの」
「ナターシャ、君もその一人か?」
「私には無理。だって見えないもの。南区に居たのもそうだと思う。限られた者だけにのみ見える。あなたはその一人よ。私の母さんはその見えないやつと戦って、療養所送りになった」
「だからか……」
エドガーはナターシャが、なぜ宣星官として碌な力もない自分の面倒を見るつもりになったのか、その理由を理解した。
「違うわよ」
ナターシャはそう告げると、エドガーの頬に手を伸ばした。そしてびっくりした顔をする。
「この冬に温み水じゃなくて、冷水を被ったの?」
「あ、そうだな。そうでもしないと、とても……」
「そうでもしないと何なの?」
「あのな……」
「私が違うと言った意味を分からなかったの?」
ナターシャはエドガーの胸に体を寄せると、いつもの少し意地悪な表情をして見せる。
「初めてあなたの寝顔を見た時から、あなたをかわいいと思っていたの。私は誰かに誓った事のいくつかをさっき破った。でも今日あなたに告げた言葉に嘘はない」
「僕もだ。初めて会った時から、君をかわいいと思っていた」
エドガーはそう告げると、ナターシャの体を両腕で抱きしめた。
一体いつぶりだろうか? エドガーは人肌の温かみを感じながら、夢と覚醒の狭間をまどろんでいた。とても平和に満ちたまどろみだ。
「エドガー……」
でも誰かが自分を読んでいる気がする。間違いない。ナターシャが自分の名を呼んでいる。
「ナターシャ!」
飛び起きて辺りをうかがうと、薄明りの元、ナターシャが自分の横で荒い息をしながら、体を捻って悶えているのが見えた。
「す、すぐにここから逃げて……」
「どうした! 何があったんだ?」
「や、やつらは、私にし、仕込んでいたの……。や、やつらの保険よ……」
「ナターシャ、教えてくれ。君を救うには、僕は何をすればいい!」
「私は……も、もうだめ。回収職が来る。だから、エドガー、あなたは……す、すぐに、ここから逃げて。あれは中から私を……ゲ、ゲホゲホ!」
ナターシャの口から血が流れ落ちシーツに染みを作った。それだけではない。豊かな二つの乳房の間に黒い染みが浮かび上がってきた。それはナターシャの体を蝕むかの様に全身へと広がっていく。
「私が、私が変わってしまう前に早く逃げて!」
ナターシャはそう叫ぶと、体の動きを止めた。
「ナターシャ、君は『斧』だろう、しっかりしろ!」
「お願い。あなたの事が大好きなの。だから……」
ナターシャは力なく手を伸ばすと、エドガーの頬に触れた。エドガーは慌ててその手を握りしめる。だがナターシャの体は瘧でも起こしたみたいに、突如激しく震え始めた。
この後どうなろうと知ったことではない。誰でもいい。助けが必要だ!
「誰か、誰か助けてくれ!」
不意にエドガーの周りに闇が広がった。エドガーが感じることが出来るのは、腕の中で震えるナターシャの体だけだ。やがて一本の棒、いや、歪んだ形をした剣がエドガーの前へ姿を現した。
「フフフフ」
剣がエドガーに対して謎の含み笑いを漏らす。
「フフフ、おもしろい。人って、こんなことを思いつくんだ!」
剣がエドガーの周りを漂いながら呟いた。こんな状況なのに、自分は夢を見ているのだろうか? いや違う。エドガーは頭を振った。この声には聞き覚えがある。悪夢に出てくる影の声だ。
「お願いだ。ナターシャを助ける方法を教えてくれ!」
「助ける? それって、殺してあげると言う意味?」
「どういう事だ!」
「この子は苗床よ。そして種が芽を出した。後はこの子の魂を吸い取って、実になるまで成長するだけ」
「苗床!?」
「そう。あなた達が星振と呼んでいる物にこの子は変わるの」
「どういうことだ!」
「フフフ、おもしろい! 自分が使っていたものが、何で出来ていたのかも、知らなかったの?」
「まさか!」
エドガーは自分が魂を同期させる、銀色に輝く球を思い浮かべた。あれは単なる金属ではなかったのか!?
「そう。あれが成長した実よ。だからもう手遅れ。この子は幼生体を経て実になるの。この子の魂を永遠に閉じこめてね……」
エドガーの腕の中で、あんなにも熱く、そして柔らかく感じたナターシャの体が、固く、冷たいものへと変わっていく。もはやその体からは震えも、吐息さえも感じることが出来ない。
「フフフ、彼女の魂を救いたい? 救いたいのなら全てを受け入れろ。我の全てを……」
その問いかけに、エドガーは頷いた。
「受け入れる。俺の全てをお前にくれてやる。だから――」
ドン!
エドガーの体に衝撃が走った。歪んだ剣が自分の心臓に突き刺さっている。そこから滝のような血が流れ落ちていくのも見えた。
「ああああああ!」
エドガーの口から呻き声が上がる。そうかこれで死ぬのか。だがナターシャの魂を救えるのなら、自分の命ぐらい喜んで差し出す。
しかしエドガーの意識は途切れなかった。剣がゆっくりと自分の体の中へと沈んでいくのを、ただじっと見つめ続けている。エドガーは剣が体ではなく、自分の魂へと突き刺さっていくのを感じた。
「お前は我、我はお前だ……」
鳩尾の下から声が響いた。
「お前の望みを果たせ」
いつの間にか血は止まっていた。いや、傷跡すらない。エドガーは自分の左手が、いつしか歪んだ剣になっているのに気がついた。
「ナターシャ、君と一つになれて本当にうれしかった」
エドガーは右手で抱きかかえたナターシャの瞳にある最後の光へ語り掛けた。エドガーの言葉に、ナターシャの目から涙が溢れ落ちる。だがその光もすぐに失われようとしている。
「君を愛している。永遠にだ」
そう告げると、エドガーは左手の剣をナターシャの胸へと突き立てた。どこかで叫び声が聞こえる。それはエドガーの口から洩れた、魂の慟哭とでも言うべき叫びだった。