成長
「彼女は赤い薔薇の様に美しい。彼女は赤い薔薇だ」
「二つの文の違いはなんですか?」
ロゼッタさんの質問が宿舎の部屋に響いた。
「最初の文は直喩で、薔薇が美しいのが例えであることを示していますが、後の文は薔薇が美しさを表していることを直接は示していない、隠喩になります」
ロゼッタさんが私の答えに頷いてくれた。思わず肩から力が抜ける。間違っていたら、それぞれの例を10、へたしたら20書きなさいです!
「隠喩をうまく使えると、印象的な文章になります。しかし意味が伝わらない文章になる可能性もあります。使い過ぎには気をつけてください」
「はい」
「今日の補講はこのぐらいにしましょう」
そう告げると、ロゼッタさんは私に丸をつけたノートを返してくれた。
継続は力なりではないけど、こうして毎晩のロゼッタさんの補講のおかげで、ハッセ先生の謎な言葉も少しは謎でなくなり、メルヴィ先生から殺されるんじゃないかという目で睨まれることも少なくなった。
なにより、ロゼッタさんの授業で、ロゼッタさんが思わず額に手をやるのをほとんど見なくて済むのがうれしい。私の出来が悪いと、ロゼッタさんの教え方まで悪いように思われてしまう。超優秀な先生が家庭教師と言う立場にはそれなりにプレッシャーがかかる。
だけどそれは私の杞憂と言うものだろう。オリヴィアさんなんかは、ロゼッタさんのことを女神みたいに崇拝しているし、他の生徒もそうだ。
ロゼッタさんが単に学園の先生という立場だったら、私もそうだっだに違いない。だけど私にとってはどれだけ女神みたいに美しくて、どれだけ頭が良くても、ロゼッタさんはロゼッタさんだ。
そう言えば、こうしてロゼッタさんと二人だけで授業を受けるのはいつぶりだろう。屋敷に居た時は、それが日常だった。今はマリも私の側にいてくれる。それはとっても幸せなことだけど、東棟の学習室で眠気と戦いながらロゼッタさんの授業を受けていたのも、とても幸せな日々だったと思う。
ロゼッタさんがいなかったら、私を待っていたのは孤独に耐えるだけの日々だったはずだ。いや、とても耐える事など出来なかった。ロゼッタさんは私にとって厳しい先生で有ると同時に、母親代わりであり、憧れのお姉さんでもある。
そうだ、今日はせっかく早めに補講が終わったし、ロゼッタさんに見てもらいたいものがあった。
「ロゼッタさん」
「なんでしょうか?」
「ハッセ先生から新人戦の世話役を仰せつかったのですが、その勧誘の文章がうまく書けません。見て頂いてもよろしいでしょうか?」
私はローナさんやメラミーさんと言った、黄色組の主だった人に出そうと思っていた勧誘の手紙を、ロゼッタさんに差し出した。
「これは?」
内容を見たロゼッタさんが、少し驚いた顔をして見せる。
「はい。これまでの個人戦だけでなく、団体戦を考えています。女子生徒が団体の監督になり、チームとして盛り上げようと思っています。個人的に監督になって頂きたい方へのお誘いの手紙です」
正直な所、男子の勧誘文句の方が碌な文章が浮かばなくて頭が痛いのですが、そちらは監督が魅力的なら何とかなります。
「フレデリカさん」
ロゼッタさんは口元に笑みを浮かべて見せた。やっぱり全くダメですかね。「私達で男たちの尻を叩いてやりましょう!」ぐらいしか思い浮かばなかったんです!
「これはこのままでいいと思います」
そう言うと、ロゼッタさんは私の方へ下書きを戻した。その反応に思わず私の方がびっくりする。
「そうでしょうか? 礼儀的に――」
ロゼッタさんが修辞学の教科書をポンと叩いた。
「言葉の使い方など二の次です。みんなで盛り上げたいという熱意が伝わることこそが一番大事です」
そしていつもと違う、何か考え込むような表情をして見せる。
「フレデリカさん――」
「はい!」
だがすぐに口元に笑みを浮かべると、私に対して小さく頷いた。
「いえ、なんでもありません。今日はマリアンさんもお休みですし、明日の準備を忘れずに」
「はい、ロゼッタさん。お休みなさい」
「お休みなさい」
ロゼッタさんはそう告げると部屋を後にする。気のせいだろうか? いつもと違って、その後ろ姿は少し寂し気に見えた。
夕飯時刻をとっくに過ぎた食堂へ水を取りに降りたトカスは、その隅に人影があるのに気が付いた。トカスは食堂のグラスを二つ手に取ると、その人物の前に腰を下ろす。
「知り合いからもらった酒です。くれた男が言うには中々手に入らない一品だそうです」
そう言うと、トカスは相手の返事を待たずに、腰からスキットルを取り出してグラスへ琥珀色の液体を注いだ。そこからは長い時を経て初めて得られる、芳醇としか言えない香りが漂ってくる。
「今宵の出会いに――」
そう告げたトカスの言葉に、その人物は目の前に置かれたグラスへ手を伸ばした。
「今宵の喜びに」
そう告げると、トカスと共にグラスの中身を一気に飲み干す。
「その様な言葉を頂けるとは――」
そこでトカスは一度口を閉じた。その台詞が向けられた相手は、どうやら自分ではないらしい。それに何か冗談を口にすべき場面とも思えなかった。
「そちらのお嬢さんに何かありましたか?」
トカスの言葉に、ロゼッタは首を横に振って見せた。
「何もありません。ただ彼女の成長に少し驚いているだけです」
「この年頃の子供は、さなぎから出てくる蝶のようなものですからね」
「あなたはこの年の時に、何をなさっていました?」
不意のロゼッタの質問にトカスは首を傾げた。そして思わず口元に笑みを浮かべる。自分がやっていた事と言えば――。
「私ですか? そうですね。ただ穴を開けて閉じていました」
その通りだ。穴を開け、そこから呼び出した何かで人を殺し続けていた。いや、相手を人だとすら思っていない。それについては今も大して変わっていないと言えた。
「あなたと私は似た者同士かもしれませんね」
ロゼッタの答えにトカスは頷く。そして二つのグラスに再び液体を注いだ。
「ほとんどの魔法職が、そうではないのですか?」
トカスの答えに、ロゼッタが首を横に振って見せる。
「似た者同士と言ったのは、私たちが魔法職だからではありません」
「と言うと?」
口元へ運んだグラスをそのままに、トカスはロゼッタの黒い瞳を見つめた。その視線の先で、ロゼッタがグラスの中身を一気に空ける。
「ええ、私達は似た者同士よ。あなたは自分が殺した相手の事は覚えている?」
空のグラスを置いたロゼッタの問いかけに、トカスは思わずグラスを落としそうになった。
「何のことだか――」
とぼけようとしたトカスに、ロゼッタは再び首を横に振って見せる。どうやら向こうはこちらのことを全てお見通しらしい。トカスはロゼッタに両手を上げた。
「覚えていますよ」
当然だ。依頼を受けた相手が死ぬのを確認しなければ、トカスの商売は成立しない。
「そこは違うのね。私は誰も覚えていない。だけどあなたは私より幸せよ。すくなくとも罪の意識を感じようと思えば、それを感じることが出来る」
そう告げると、ロゼッタは口の端を上げて見せる。その謎めいた表情に、トカスの本能が袖に仕込んである杖に手を伸ばしそうになった。同時にその笑みの意味を理解できる人間が他にいるのかとも思う。
「いつか、それを感じられる人間になれればいいのですが……」
肩をすくめて見せたトカスに、ロゼッタはくすりと笑うと、今度は自分でスキットルからグラスへ液体を注いだ。
「人は変わる。変われるのよ。あの子のおかげで私でも変われた。そしてあの子も、私の手から離れて変わろうとしている」
そう言うと、ロゼッタはトカスの手に自分の手を重ねた。
寝返りをうったトカスは、背後でそっと扉が閉まったのを聞いた。女と体を重ねるのは一時の快楽にすぎない。そのはずだった。だがトカスの心には、今まで浮かんだことがない感情が渦巻いている。人はそれを後悔と呼ぶのだろうか?
いや違う。これは自分への憐みなのだ。心に開いている大きな穴。そこから何かがこぼれ落ち、二度と戻ってこない欠けた心を持つ男への憐みだ。
自分たちが重ねていたのは体ではない。重ねても埋めることの出来ない欠けた心の持ち主同士が、互いに相手を憐み、傷を嘗めあったのだ。
トカスは枕の下にある杖にそっと手を伸ばす。先ほどまで人肌に触れていた手に、とても冷たくそして固く感じられた。
タイトルを「誘い」から「成長」へ変えさせて頂きました。