舘
キィ――――!
馬車の制動板が不意に耳障りな音を立てた。真っ白な靄の向こうから茨が絡みついた鉄の扉が現れ、それが左右へと開いていくのが見える。
馬車は手入れが行き届いているとは言えない庭園を抜けると、レンガ造りの大きな舘の前に止まった。その外観はほとんどが枯れた蔦に覆われてしまっている。
マリアンが馬車から館を見上げていると、風雨にさらされたオーク材の入り口が開き、そこから白髪の執事が一人現れた。その背筋はピンと伸び、身に纏う執事服には皴の一つも見当たらない。
前世では父が侍従長で、自分自身も貴族の家に侍従として勤めていたマリアンから見ても、その立ち振る舞いは完璧だ。執事は背後に持っていた昇降台を馬車の横につけると、扉を開けてマリアンの手を取った。
自分がドレスを着ていることに戸惑いながらも、昇降台を一歩一歩と降りる。執事はマリアンに一礼すると、館に入る扉へ向けて腕を差し出した。
辺りを見回しても、どこにも他の馬車は見当たらない。一体どういうことだろう? ロイスは会合と言っていたし、自分に送られてきた招待状にも会合と書いてあったはずだ。
もっとも何も知らないのだから、あれこれ考えても仕方がない。こちらとは別の入り口があり、他の客は単にそちらから入っただけなのかもしれないのだ。
扉をくぐると、館の中は物音一つせずにひっそりとしている。だが庭と違って手入れはよく行き届いているらしく、廊下にはチリの一つも落ちていない。
「こちらになります」
執事はそう告げると、油灯を手に、館の奥へと進んでいく。
廊下の両側には、この舘の歴代の持ち主だろうか? 襟を立てた金糸が入った服を着た男や、絹の薄絹のドレスを纏う貴婦人の肖像画が並んでいた。その全員に値踏みされている気分になる。
けれどもその中の一枚、最後に飾られていた幼い少女の顔には、どこか見覚えがある気がした。よく見るとその横顔はアルマによく似ている。
執事は黒光りする黒檀の扉の前で足を止めると、おもむろにそれを押した。扉の向こうから黄色い光が廊下へと漏れる。その光の先には大きな円卓が置かれた会議室があった。天井の巨大なシャンデリアには星の数ほどの油灯が灯され、床には真っ赤な絨毯も引いてある
「私が一番最初? それとも皆さんはもう帰ってしまったのかしら?」
マリアンは振り返ると、執事にそう問いかけた。
「はい、マリアンお嬢様。どなたもお帰りになってはおりません」
「そのお嬢様と言うのはやめてもらえない? 自分の事とは到底思えないのよね」
そう告げると、マリアンはこの部屋を覗いている誰かに対して肩をすくめて見せた。
「それに私のもらった招待状には会合と書いてあったのだけど? これは何かの手違い?」
マリアンは部屋の中を見回した。どこからこちらを監視しているのだろう? 注意深く見たが、それらしい仕掛けは何処にも見当たらない。
「マリアンお嬢様、手違いではございません。招待客をお待ちしている所です。それにこの部屋を監視している者がいるとお考えでしたら、そのような心配は無用です」
そう告げると、執事は卓に置かれた椅子の一つを引いた。館の主人をここで待てと言う事らしい。椅子へ腰をおろしたマリアンに、侍従が微かに柑橘系の香りがするお茶を差し出した。
「私はその会合から仲間外れにされて、ここに監禁されていると言う理解であっている? そこでアルマの跡目を誰にするか、皆で相談しているのでしょう?」
「そのようなことはありませんし、許されません」
マリアンの言葉に、執事がきっぱりと答えた。その台詞は執事の言葉使いとしてはおかしい。執事と言うのは、常に主人の意向に基づいて発言するものだ。だが先ほどの内容は、まるで自分に決定権があるみたいに聞こえる。
「もしかして、あなたが――」
「マリアンお嬢様、お初にお目にかかります。会合の世話役をしておりますヴォルテと申します」
ヴォルテを前にマリアンは言葉を失った。
「私はこの世界では執事と呼ばれております。マリアンお嬢様も学園で侍従をされているそうで、ある意味、私とマリアンお嬢様は同業者と言う事になりますでしょうか?」
完全に掌の上で踊らされている。この人物を相手の交渉など自分には無理だ。自分が大した中身もない存在だという事も、全て見透かされているに違いない。
「降参よ」
マリアンの口から言葉が漏れた。いや、漏れざる負えなかった。
「アルマがどうして私に、自分の組を押し付けるだなんて面倒な嵌め方をしたのか、やっと理由が分かった」
「あなたを嵌める?」
ヴォルテがマリアンに怪訝そうな顔をして見せる。
「そうよ。あなたに私の始末をさせる為。絶対に敵わない相手の手で、絶望感を与えてとどめを刺す為ね」
それがアルマの目的だ。
「それは意外な感想ですね」
「意外でもなんでもない。私は逆立ちしてもあなたには敵わない。理由なんて聞かないで。私の本能がそう告げているの。だから降参よ。私はどうなってもいい。だけど一つだけ約束して」
「どのような約束でしょうか?」
「あの人には手を出さないで。そしてあの人が私を探さないように手を打って」
そう告げると、マリアンは真剣な表情でヴォルテを見つめた。
「私の死体を学園の木に吊るすでも、手段はなんでもいい。手紙を書けと言うのならいくらでも書く。だからあの人には手を出さないで頂戴」
マリアンの台詞に、ヴォルテは口元に苦笑らしきものを浮かべて見せた。そして冷えた紅茶をさげると、新しい紅茶をポットから注ぐ。
「マリアンお嬢様は、何か勘違いをされていらっしゃるようです」
「勘違い? そんな事はないでしょう?」
「いえ、勘違いをされている。執事はあだ名ではありません。そう自分で名乗っているのです。なぜなら、私には仕えるべき方がいらっしゃるからです」
「アルマと言う落ちじゃないの?」
「マリアン様は冗談がお上手ですね。ですが違います。私が仕えるべき相手はマリアン様、あなたなのです」
何を言っているのだろう? その言葉にマリアンは心から当惑した。
「アルマ嬢が組をあなたに差し出したのは、あなたを嵌めようとしたのではありません。私に対して先ほどマリアンお嬢様がおっしゃった台詞、そう、降参して見せたのです」
「でも、アルマは復讐だって――」
「彼女なりの矜持でしょう。あるいは自分が選ばれなかったことへの嫉妬心、とでも言うべきかもしれません」
「私は灰の街でモーガンに手籠めにされかかった程度の女よ」
「モーガンについては少し期待外れと言うか、あまりにも無能すぎました。もっとも、あなたについて警戒させない為にモーガンも灰の街も存在していたのです」
「どういう事?」
「手違いがなければ、モーガンはあなたを密かに私の所へ連れて来るはずでした。それにカスティオール家への紹介も、私どもがお手伝いをさせていただく予定だったのです。ですが――」
そこで言葉を切ると、ヴォルテは胸に手を当ててお辞儀をして見せた。
「モーガンをはじめ、川筋衆を手玉にとったのは流石です。感服いたしました」
「他の誰かと勘違いしているんじゃない? 私はカスティオール家の単なる侍従よ」
「はい。マリアン様が、フレデリカ・カスティオール嬢の剣たらんとしていることも、よく存じております」
ヴォルテの言葉にマリアンは頭を振った。どういう事だろう。全てを分かっていて、どうしてこんなことを言ってくる? まったく理由が分からない。
「ならどうして? どうして私なんかを必要とするの?」
「必要? それも勘違いです。あなたがフレデリカ・カスティオール嬢の為にいるように、私達もマリアンお嬢様のために存在しているのです」
「からかうのはいい加減にして。私にはそんな価値などない!」
「あるのです。あなたの中身が見かけ通りでないことは存じております。それでもあなたのお持ちの知識や見識は普通ではありません。あなたは自分が何者なのか、なぜそのような事が出来るのかを、真に問うたことはありますか?」
「私はマリアン。フレデリカ・カスティオールの侍従よ。それ以上でもそれ以下でもない!」
「そうです。あなたがフレデリカ・カスティオール嬢と共に進むことには、とても大事な意味があるのです。私どもはささやかながら、そのお手伝いをさせて頂きたいのです」
「どんな意味があると言うの?」
「この世界の過ちを正すには、あなたの力が必要なのです」
そう告げると、ヴォルテは灰色の瞳でマリアンをじっと見つめた。
「あなたはこの世界の鍵なのです」