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立場

 マリアンが馬車に近づくと、家と呼んでいいぐらいの大きさがあるように思えた。それには毛並みも体格も、まさに見事としか言いようがない黒毛二頭が繋がれている。大貴族が使うような馬車などではない。大貴族が遠出に使うような馬車だ。


 バレツは同じ様に三つ揃えを着た男に日傘を預けると、赤い絨毯が敷かれた昇降台を馬車の前に置いて、その扉を開けた。中は日陰になってよくは見えない。


「道中、少し道の悪い所を通ります。もしご気分が悪くなりましたら遠慮なくお申し出ください。馬車を止めて、空気を入れ替えさせていただきます」


 バレツは黒い手袋をはめた手をマリアンに差し出しつつ告げた。


「大丈夫だと思うわ」


 そう答えたマリアンに、バレツが頷いて見せる。


「僭越ではございますが、中にお召し物を用意させて頂きました。道がいい間に着替えていただけると助かります」


「これではダメかしら?」


 マリアンは自分の侍従服に目を通すと、バレツに向かって首を傾げて見せた。フレデリカが学園に入学するにあたって、モニカが取り揃えてくれた濃紺の侍従服だ。襟元と袖元にはカスティオールの家紋である一輪のバラの花が、生地と同じ色で刺繍されている。


「全てはお嬢様のお望み次第ではありますが――」


「この服だと、色々と差しさわりがあるのね」


「はい。お召替えをしていただいた方が良いかと思います」


「到着まではどのぐらい?」


「今回の場所は少し距離があります。ですが一刻(二時間)はかからない程度だと思います」


「分かった」


「私は御者台におりますので、何か御用がありましたら、中の紐を引いていただければすぐにお伺いさせていただきます」


 バレツの言葉にマリアンは頷いて見せた。そして昇降台を上がって馬車の中へと入る。背後で扉が閉まると同時に、中に置かれた油明かりが灯った。


 その灯が照らし出した馬車の中は、マリアンが使っている宿舎付きの侍従部屋などより遥かに広く、壁まで詰め物がされている。そして座席は客間の椅子の様な立派な皮張りだ。そこでマリアンは床に黒い影があるのに気が付いた。


 影ではない。侍従服を着た女性らしき人物が、まさに床をなめんばかりに這いつくばっている。影に見えたのは、その床に広がった女性の長く黒い髪だった。よほどに息を殺していたのだろう。マリアンですら、その存在に気が付くのが一瞬遅れたぐらいだ。


「お、お世話をさせていただきます、ジョナと申します」


 消え入りそうに小さな声がマリアンの耳に聞こえた。


「そんなかっこうだと、お話もできないので、立ってもらえませんか?」


「で、ですが……」


「あなたのお顔を見たいの」


「は、はい」


 女性は何かを恐れるようにびくつきながらも、マリアンの命に従って立ち上がった。黄色い油明かりがその顔を照らし出す。


『整った顔だ』


 その姿を見たマリアンはそう思った。垢抜けていて、どことなく高貴さを感じさせる顔立ちだ。年齢は自分よりも上、おそらく20は超えているだろうか? 線は細いが、切れ長の目ときれいな鼻筋は間違いなく美人と呼べる。


 だが女性は何かに怯えるように顔を伏せ、マリアンの方を向こうとはしない。マリアンは髪に半ば隠れるようになっている彼女の右目に、明かりの影とは違う暗さを感じた。


 マリアンは一歩前に進むと、ジョナと名乗った女性の右頬へ手を伸ばした。それを見た女性の体がビクリと震える。


「心配しないで。見させてもらうだけよ」


 そう声を掛けると、マリアンは女性の髪を手ですくった。そこにはくっきりと青黒いあざがあるのが見える。注意深く見ると彼女の襟元にも痣らしきものがあった。


「これは?」


「なんでもございません」


 ジョナと名乗った女性は慌てて襟元に手をやると、痣を隠すような仕草をした。それを見たマリアンが天井にあった黄金色の紐を引く。すぐにのぞき窓からバレツが顔を出した。


「御用でしょうか?」


「顔を貸してくれるかしら?」


「はい。お嬢様」


 すぐに扉が開いて、バレツがマリアンに頭を下げた。


「この痣は?」


「はい。先日この娘に不手際がありまして、その躾です」


「躾?」


「店から勝手に抜け出しました」


「そうなのね。でもこちらは躾とは違うものだと思うのだけど?」


 マリアンはジョナの手を取ると、その手首をバレツへと差し出した。そこには幾筋かの傷が、それもさほど前の物ではない傷が記されている。


「ご気分を害して申し訳ございません。何分急な出立のため、女手がこの娘しかおりませんでした。今後お世話をさせて頂く者につきましては――」


 マリアンは片手をあげてバレツの言葉を遮ると、ジョナの方を振り向いた。


「あなたの働いていた店は、男性の相手をするところね」


「い、いえ――」


 マリアンの問いかけに、ジョナは言葉では否定して見せた。だがその目は間違いなくそうだと告げている。その姿にマリアンは前世での自分を、貴族たちの慰み者になっていた自分を思い出した。


「バレツ、この子のやっていた商売だけど、この組の上がりの中では大きい物なの?」


「いいえ、大したことはありません。先代の趣味に、客からの情報収集が主な目的です」


「ならば、続けたいと思う者以外については、別の仕事を紹介して。続けたい者がいたら、店の責任者はその中から私が選ぶわ」


「畏まりました」


「それとバレツ、これはあなたの趣味?」


 マリアンは馬車の座席の上に広げられた、数枚のドレスを指さした。そのどれもが、貴族の令嬢たちが好んで着る様な裾に刺繍が入った少女趣味のドレスだ。


「はい。お嬢様」


「あなたの趣味は最悪よ」


 マリアンはその一枚を胸元に当てると、顔をしかめた。だがすぐに少女らしい笑みを浮かべて見せる。


「だけど、ありがとう」


「もったいないお言葉です」


 バレツはそう答えると静かに扉を閉めた。


「お嬢様、お召替えの手伝いを――」


 恐る恐る声をかけてきたジョナに、マリアンは首を横に振って見せた。そして背後に手を回して侍従服を脱ぐと、ドレスの一枚を手早く身に着ける。


「背中を止めるのと、髪をまとめるのを手伝ってもらえるかしら? それと、この侍従服は私の大切な人から頂いたものなの。だから大事にしまっておいて」


「はい。お嬢様」


 御者の掛け声と共に馬車が動き始める。だが相当に上等なバネを使っているのか、乗合馬車はもちろんの事、カスティオールの馬車とも違って、揺れはほとんど感じられない。


 微かに車軸の回る音が響く中、ジョナが震える手でマリアンの髪紐をほどき始めた。だがその手つきはとても拙い。彼女はそれをする方ではなく、してもらう方だったのだろう。それを感じながら、マリアンはジョナがどうしてここにいるのかに思いを巡らせた。


 少し訛りがあるから地方の没落貴族の出だろうか? 顔に痣をつけられたという事は、もう用済みとなったと言う事だ。おそらくは、見せしめに消される予定だったのだろう。


 だからバレツはわざわざ彼女をここに連れてきた。役目があるのならすぐに消されることはない。少なくとも組にいるもの全員が、アルマと同じような考え方の持ち主ではないと言う事だ。


「お嬢様、色々と至らぬことがありますが――」


 ジョナの言葉にマリアンは背後を振り返った。


「私の名前はマリアンよ。二人でいる時には名前で呼んで頂戴」


「は、はい、マリアン様」


 マリアンの言葉に、ジョナは初めて笑みらしきものを浮かべた。安心したのだろうか、目には涙も浮かべている。マリアンはジョナに頷くと、彼女に櫛で髪を梳いてもらった。


『これであの人が私にしてくれたことの一部でも、彼女に返してあげられただろうか?』


 マリアンの心にそんな考えが浮かんだ。そして心の奥から昇ってくるふわふわとした気分に、口元がほころびそうにもなる。だが前の座席に折りたたまれた侍従服を見て我に返った。


『私は一体何を浮かれているの?』


 これは自分の力なんかじゃない。全てはアルマが仕掛けてきたことだ。それで慈悲らしきものを施したぐらいで、あの人に近づいた気分になるなんて、間違いなくどうかしている。


「あ、あの、何か――」


 背後からジョナの当惑した声が響いた。


「なんでもないわ。後は自分でする。あなたは他のドレスを片付けてくれるかしら」


 マリアンはジョナから櫛を受け取ると、自分で髪をまとめなおした。

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