鷹の目
マリアンがロイスから離れて、今後の相談をしようとした時だった。二人の間に不意に何かが飛び込んでくる気配がした。
「キュエ―――!」
鳥とも動物とも分からぬ得体が知れない鳴き声と共に、二枚の封書が馬車の中を舞う。それが床に落ちた時には既に気配は消えていた。
「これは?」
マリアンの問いかけにロイスが頷いて見せた。
「ヴォルテからのつなぎだ」
「こうやって届くのね」
マリアンは床にある封書を取り上げると、その一枚をロイスへと差し出した。
「そうだ。招待状も不意に届くが、どこでそれを行うかについてもその日に突然やってくる。それに合わせられないような奴は、生きている価値もないと言う事らしい」
「執事と名乗っているけど、やっていることは田舎貴族の頑固爺と同じね。こちらの都合なんて全く考えていない」
「相手はヴォルテだ。田舎貴族なんかと同じにするなよ。全ては計算されつくしている。今日だって、お前が学園を出る事自体は何の問題もなかっただろう?」
「そうね。こちらが対策を練る時間を与えないのも、計算づくなのかしら?」
「間違いなくそうだ。素のお前を見ようとしているのだろう」
「ただの小娘なのに?」
そう言って肩をすくめたマリアンに、ロイスは苦笑いを浮かべて見せた。
「そうあって欲しかったな」
「だがアルマがこれだけの事をしてくれたんだ。誰もお前をただの小娘だとは思わない」
その時だった。制動板の立てる耳障りな音と共に馬車が急停車した。御者台の方から、馬を必死になだめる声も響いて来る。そして馬車の扉の向こうに、誰かが立つ気配がした。
マリアンはスカートの中に隠し持っていたナイフを素早く抜くと、座席から腰を浮かす。ロイスもマリアンを庇いながら、座席の下から小型の弩を取り出して馬車の戸口へと向けた。
トン、トン!
丁寧に馬車の扉を叩く音に、マリアンはロイスに目配せをした。扉の向こうからは殺気らしきものは感じられない。
ロイスはマリアンに頷くと短弩を下ろす。マリアンも手にしたナイフをスカートの中にしまうと、シワを直して席に戻った。
「どなたかな?」
ロイスが扉の外へ声を掛けた。
「お急ぎのところ、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。ご挨拶をさせて頂きたく、馬車を止めさせて頂きました」
馬車の外から落ち着いた声が響いた。それを耳にしたマリアンが、ロイスにゆっくりと頷いて見せる。それを合図にロイスが馬車の扉を開けた。
まだ朝の気配を残す冬の柔らかい日差しの向こう、真っ黒な三つ揃えに身を固めた男が立っている。男は胸につば広帽を当てつつ、深々とお辞儀をしていた。
「ロイスの旦那、ご無沙汰しております。それに急なご挨拶で申し訳ございません」
男は顔を上げるとロイスに向かって答えた。役所の上役みたいに、鼻の下に立派な口ひげをたたえたこの男をマリアンは覚えている。アルマの屋敷で馬車の手配をした男だ。男はマリアンの方を振り向くと、再び深々と頭を下げた。
「お嬢様、お迎えが遅れまして、大変申し訳ございませんでした」
「迎えを頼んだ覚えはないのだけど?」
マリアンの言葉に男は顔を上げた。
「もちろんでございます。その様なお手数をおかけしなくても、お嬢様が必要な時に必要な事を成すのが、我々の責務でございます」
そう告げると、男はロイスの方にちらりと視線を送りつつ言葉を続けた。
「ですが、本日は私共の不手際で、ロイスの旦那にもお手数をお掛けしてしまいました。まことに申し訳ございません」
男の言葉にロイスはゆっくりと首を横に振った。
「迷惑なつもりなどない。彼女とは親の代からの付き合いだ。なので、会合へは私が送って行くつもりだったのだが?」
「お気遣いありがとうございます」
そう告げると、男はロイスに口元に小さく笑みを浮かべてみせた。だがその目は笑ってなどはいない。むしろ鼠を狙う鷹の様な目でロイスを見つめている。
「ですが、本日はお嬢様の初会合で、我々にも体裁と言うものがございます」
男の言葉にロイスも頷いた。
「そうだろうな。それに鷹の目バレツの護衛だ。間違いはないだろう」
「鷹の目?」
マリアンの問い掛けに、ロイスは少し芝居掛かった風に驚いて見せた。
「なんだ、知らなかったのか? 俺たちの世界の有名人だ。どんな遠くからでも、相手の目を一発で射貫く」
「お嬢様に名乗るようなものではございません。他の者が勝手に付けたあだ名です」
そう言うと、男はマリアンに向かって腕を差し出した。
「ロイスさん、ここまで送ってくださって、ありがとうございました」
マリアンはロイスに対して丁寧に頭を下げた。そして戸口に立つ男の方を振り向く。
「バレツ、それがあなたの名前でいいのね?」
「はい。ですが、わざわざ名前で呼んでいただく必要はございません」
「私はアルマじゃないわ。だから名前で呼ばせてもらう」
「はい。お嬢様」
マリアンはロイスに目配せすると、バレツの腕をとって馬車を降りた。前方には紋こそないが、大貴族が使うような二頭立ての馬車が止まっているのが見える。
器用に片手で日傘を広げたバレツの先導で、マリアンは黒塗りの馬車に向かって歩き始めた。
ロイスが馬車の扉を閉めようとすると、右腕のマインズが馬車の中へと飛び込んで来た。
「組長、姐さんは大丈夫でしょうか?」
そう告げたマインズの顔つきは険しい。
「今すぐどうにかなるわけではない。だがアルマの奴はとんでもない仕掛けをしてきたな。正面からの切った張ったよりも余程に手ごわい」
「その通りです。これでは姐さんを人質に取られたのと同じです」
「よく手を出さなかったな」
「若い連中を抑えるのは大変でした。なにせ相手はあの鷹の目バレツです」
「その通りだ。ここで奴とやりあっても意味はない。それ以前にこちらが全員返り討ちだろうな」
そう言うと、ロイスは馬車の明かり窓から遠ざかって行く馬車を眺めた。
「マインズ、それよりも馬車を急がせろ。今回の場所は西の森の近くだ。ここからは距離がある。出来れば、あの子より先に到着したい」
「分かりました。代えの馬も用意してあります。ですが体の方は大丈夫ですか?」
マインズの問い掛けに、ロイスは首を横に振って見せた。
「馬車に揺られたぐらいで、どうにかなるぐらいで――」
「了解です。しっかり掴まっていてください」
マインズはそう答えると、素早く馬車を降りた。そして周りの者達に指示を出す声が聞こえて来る。
「――どうするのだ。あのアルマですら、席次はやっと四番目なのだからな……」
ロイスはマインズに告げようとした台詞の残りを一人呟くと、遠くに見える王都の街並みを見つめた。灰の街にいた時、いつかそこで暮らせるようになりたいと思って見つめた街並みだ。
それはミランダ姐さんのおかげで、夢ではなく現実のものになった。今度はその娘を助けるつもりでいた筈なのに、こちらが命を助けてもらってしまっている。
ロイスはそんな事を考えながら、久しぶりに言葉を交わしたかつての仲間、いや先輩とでも言うべき男の事を思い出していた。姐さんがアルマの事を頼むと言わなかったら、あの男の人生は全く違うものになっていただろう。モーガンなんかより、あの男こそが姐さんの後を継ぐべきだったのだ。
だがモーガンがミランダ姐さんの言葉をうまく使って横取りした。モーガンの悪知恵が俺たちより一枚上手だったのだ。そうでなければ王都の顔役として、曲がりなりにも生き残ってこれたりはしない。
それにマリアンに殺られるまで、やつの悪運の強さもなかなかのものだった。マルセルに襲われた時も、偶然にバリーのところの魔法職が居合わせた上に、バレツも同行していて生き残った。
「本当か?」
思わずそう呟いた瞬間だった。ロイスの背中を冷たい汗が流れる。本当にモーガンは悪運の強い、悪知恵が働らくだけの男だ。組を保てたこと自体が、奇跡のようなものだ。いや違う。むしろモーガンみたいな、中身のない男である必要があったのではないのか?
『操り人形?』
そう思った方が辻褄があう。だとすれば、その糸の先にいたのはアルマか? ロイスは首をひねった。もしそうならば、もっと早くから何かを仕掛けてきたはずだ。
バレツ自体も謎の男だ。どうして奴がミランダ姐さんの手下になったのかを、ロイスは思い出すことが出来ない。少なくとも灰の街の出身ではないし、気が付いた時にはミランダ姐さんの右腕だった。
それにあの投擲の腕。狙って打っているというより、まるでナイフの方が的に吸い寄せられるみたいに百発百中だ。マリアンの姿を隠す術と同じくとても人の技とは思えない。
「まさか……」
ロイスの口から再び呟きが漏れた。
『あの男はマリアンと同じ力を持つのか?』
ロイスは頭を振ると、動き始めた馬車の手すりを強く握りしめた。