支配
「ヘクター、聞いたか?」
エルヴィンは共用の机で、妹のミカエラに手紙を書きつつヘクターに声を掛けた。
二人は学園内においては生徒同士は平等と言う建前に基づき、平民向けに用意されている男子宿舎の狭い部屋にいる。他の同部屋の生徒たちは、夕飯前に体を動かしにでも行ったのか、部屋には二人しかいない。
「何の話だ?」
二段式の寝台の上で横になっていたヘクターが、読んでいた詩集からエルヴィンの方へと視線を向けた。
「新人戦が再開されるそうじゃないか。俺はもう敗退してしまっているが、お前なら十分に優勝が狙える。頑張れよ」
エルヴィンの言葉にヘクターは何か考える様なそぶりを見せたが、詩集を枕の横に置くと寝台から体を起こしてその縁に腰をかけた。そして小さく伸びをしてみせる。何をしても絵になる男だ。幼馴染の仕草を見ながらエルヴィンはそう思った。
銀色に近い灰色の髪。少し物憂げな光をたたえた、少し青み掛かった灰色の目。学園の女子生徒だけでなく、侍従を始めとした多くの女性たちが見とれるのもよく分かる。
「何でお前が負けたのかは、未だによく分からないがな」
「正直、試合については全く覚えていない。学園での最初の試合で、舞い上がっていたのだろうさ。むしろ、フレデリカさんに怪我をさせることがなくて、本当に良かったと思うよ」
「お前がまともだったら、怪我などさせる事もなく、一瞬で勝負がついただけの話だと思うけどね」
ヘクターの言葉にエルヴィンは首を横に振った。
「俺なんかあの人の足元にも及ばないよ」
「そうかな?」
エルヴィンの言葉に、ヘクターば小さく首をかしげて見せた。
「あの人の強さは腕力とかスピードとかじゃない。俺が知っていた強さとは全く違う種類のものだよ。強いて言えば、どんな剣よりも強靭で折れることなどない信念による強さだ」
「うちのクラスの大多数と同じく、お前は赤毛教の信者みたいだな」
ヘクターの台詞にエルヴィンは頷いて見せた。落ちぶれているとはいえ、カスティオールは侯爵家だ。大貴族のお嬢様のはずなのに、それを感じさせないからだろうか? フレデリカは平民が多い青組、それも自分も含めて、席次が後ろの生徒達から絶大な人気があった。
「何より元気で愛嬌がある。だけど俺にとっては彼女はもっと特別な存在だ」
「特別? 惚れでもしたか?」
「そんなものじゃない。ミカエラの命を救ってくれた。俺にとってはまさに女神みたいな存在だよ」
そう告げたエルヴィンに、ヘクターは頷くと同時に小さくため息もついて見せる。
「だけどエルヴィン、俺たちが学園に来た目的はそれだけではないぞ。俺達はこの学園に入った時点で、色々なものを背負ってしまっているのを、忘れた訳ではないだろうな?」
「もちろん忘れてはいないさ。だがここを放り出される事になっても、それが無駄になることはもうないんだ」
「それでもしここを出ることになったら、一体どうするつもりなんだ?」
そう告げると、ヘクターはエルヴィンに対して両手を上げて見せた。
「南区の再開発ででも働くさ。借金は多いかもしれないが、ともかく働き続ければいつかは返せるだろう。もちろん学園にいれる限りはお前の事を応援するし、たとえ学園を出る事になっても俺は永遠にお前の親友だ」
「エルヴィン……」
ヘクターは何かを言い掛けたが、そこで言葉を飲み込んだ。エルヴィンに詳しく話しはしていないが、自分たちの借りは何かの労働で返せるようなものではない。
それ以前に何としてでも学園に居続ける必要がある。もし学園を出る様な事になったら、間違いなく命を奪われミカエラもどこかに売り飛ばされるだろう。そんなものを背負っているのだ。
だが妹のミカエラが元気になって、心から喜んでいるエルヴィンにそれを告げる必要はない。ヘクターは様々な思いを飲み込みつつ、エルヴィンに向かって頷き返した。
「そうだな。ともかくミカエラの命が助かったのは何よりだ」
「ああ、お前にも本当に心配をかけた。お前ならここを足掛かりにどこかの家の騎士長、いや、近衛騎士団の士官ぐらいは十分に狙えるはずだ」
「おい、エルヴィン。お前だけ楽をさせるつもりはないぞ。一緒に学園を出て、お前には俺の副官になってもらう」
ヘクターの言葉に、今度はエルヴィンが苦笑いをしつつ両手を上げて見せた。
「それに俺はそんなところで止まるつもりはない。誰かに使われるのではない何かになってやる。そうでなければ今と何も変わらない」
「流石はヘクターだ。そうだ、朝の練習に付き合うよ。試合の準備としては一人で剣を振るよりも、相手がいた方がいいだろう?」
「いや、朝は精神の集中の鍛錬をしている。だから俺一人でいい」
「分かった。必要な時はいつでも声をかけてくれ。ヘクター、お前ならお前の望むものが必ず手に入れられる!」
ヘクターはエルヴィンに頷き返した。そうだ。今は自分たちの未来を信じ続けるべきだ。たとえそれが出来の悪いガラス細工の様なものだとしても、それは確かに存在している。それを得るために自分たちが一体何と繋がってしまったかなど、エルヴィンは知らなくていい。
「そうだ、エルヴィン、俺達はもっと先へと進むんだ」
まるでミルクを流し込んだみたいに深い朝もやの中、ヘクターは木刀を片手に宿舎の先にある雑木林をさらに奥へと歩んでいた。
早朝、それもまだ空が白むぐらいの時間に宿舎を抜け出すなどと言うのは、本来ならとても目立つ行為なはずだ。だがそれを毎朝続けていれば、それは当たり前の事になっていき、次第に誰も注意を払わなくなっていく。
それでもヘクターは辺りの気配を慎重に伺いつつ奥へと進んだ。しかし足元に厚く積もった枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てているだけで、何の気配も感じられない。
やがてヘクターは周りからは見えないくぼ地になっている場所へと辿り着いた。そこに漂う朝靄はより深く、3歩先すら見通すことが出来ないぐらいだ。ヘクターはその深い靄の中で、再び辺りの様子をじっと伺った。
やはり何の気配もない。今朝は特に繋はないのだろうか? ヘクターはゆっくりと息を吐いて肩の力を抜くと、持って来た木刀を上段へと構えた。
その時だった。目の前の朝靄がゆらりと揺れた。やがてそれは見えない力に引き寄せられると、人の形へと変わっていく。
ヘクターは木刀を下ろすと、地面の上に片膝をついて首を垂れた。その先にいる何かが自分をじっと見つめているのを感じる。ヘクターは問いかけを待たずに、自分から口を開いた。
「南区の件ですが、フレデリカ・カスティオールにはやはり何かが見えていたようです。それが何かは私の方では確認できませんでした。それと赤い光で、彼女がそれをどうやって消し去ったのかについても不明です」
ヘクターの報告に相手からは何も反応がない。だがこちらをじっと見つめている気配は残ったままだ。つまり、まだ報告すべきものがあると言う事だろう。ヘクターは言葉を続けた。
「他の二名、イサベル・コーンウェルならびに、オリヴィア・フェリエもそれが見えていた節があります」
「その件はもうよい」
頭の上から声が響いた。いつも通りの感情を感じさせない声だ。だがこの声に従っているからこそ、自分とエルヴィンはこの学園に潜り込むことが出来ている。
「お前には別の役目がある」
再び声が響いた。ヘクターは首をたれながらも、一体何を命じられるのかと身構えた。今迄は一部の女子生徒と侍従の監視ぐらいだったが、もっと厄介な事を命じられるのだろうか?
「お前の体を貸してもらう」
その台詞にヘクターはとっさに後ろへと飛び退く。剣で鍛えた体が今迄感じたことがない殺気、いや恐怖にそう動いた。すぐにここから離れないといけない。だが背後へと駆け出す前に、ヘクターの手足に何かが絡みつくとその自由を奪った。
見ると霧がまるで巨大な蛭の様に体に纏わりついている。それはただの霧のはずだが、まるで万力ででも押さえつけられているみたいに、全く動くことが出来ない。
「正直なところこの学園に潜り込むのは、この程度の平行思考の残留体でも相当に困難なのだよ」
背後から感情を感じさせない声が響いた。
「わ、私はあなたに忠誠を――」
ヘクターは必死で声を上げたが、押さえつけられる力は決して緩んだりはしない。
「しかし内部にいる者に同化しつつ元の魂を残しておけば、簡単に防壁を抜けられる。先日、南区で昔の知り合いを見かけてそれが分かったのだ。まさに盲点だな」
背後からの声はそう告げるや否や、ヘクターの中へと侵入し始めた。いや、侵入しているのではない。ヘクターの一部が溶け落ちていき、そこに異質な何かが入り込もうとしている。
「元同僚のブリエッタなら、私なんかより遥かにうまくやるのだろう。残念ながら、『同化』は私の得意分野ではなくてね。でも安心し給え。だからと言って、君を消したりはしない。別の得意分野、『支配』でやらせてもらう」
『や、やめてくれ!』
ヘクターは心の中で悲鳴を上げた。だがそんな悲鳴もむなしく、自分の肉体同様にヘクターの存在、魂とでもいうべきものが白い靄に繋がれていく。そしてまるで操り人形みたいに自分の魂がそれで操られようとしていた。
「抵抗しても無駄だよ。むしろ私は君が望んでいた力を、君が見たいと思っていた景色を見せてあげようとしているのだ」
それでもヘクターは自分に侵入しようとしている存在を見ようと、必死に首を回した。その視線が背後に居る者を捉える。そこには真っ白な肌と真っ白な髪をした幽鬼の様な姿があった。
「お、お前は……」
ヘクターの口から微かなうめき声があがった。その顔は間違いなく――。白い靄がヘクターと重なった。
「そうだ君だよ。そしてこれからの私だ」
かつてはヘクターだった存在はそう呟くと、地面に落ちていた木刀を拾い上げた。そして背後の木立に向かって跪く。
「リコ、中々にいい見栄えじゃないか? 本物のお前より好みだね」
やっと薄らいできた朝もやの中から女性の声が響いた。そして侍従服を着た女が、跪くヘクターの前へと進み出る。
「その様な者しか用意できなくて、大変申し訳ございません」
その言葉に、女は自分の体をまるで他人の物みたいに眺め回した。
「そうかい? この売女もなかなかのもんだよ。男にさんざん弄ばれてきたくせに、男に頼らないと生きていけないだなんて、学園の小娘などよりよほどに私好みだ」
「あくまで一時的な器もどきではありますが、お嬢様にはとても似つかわしくないかと……」
「たまには掃除に洗濯とかいう普通の労働をやってみるのも悪くない。それよりもせっかく化け物屋敷の中に入れたんだから、色々と楽しまないと損だ。先ずは若い性というのを味わってみる事にしようかね……」
そう告げると、かつてジャネットだった何かは、かつてヘクターだった何かを枯れ葉の上へと押し倒した。