決定事項
「もう昼に近い時間だぞ」
スオメラ王の側近にて若手官吏の筆頭とも言えるクレメンスは、薄暗い寝室に入るとそう声を掛けた。だが天蓋付きのベッドの上に動きはない。
クレメンスは窓に向かうと、そこに引かれた厚手のカーテンを開け放った。窓からはだいぶ高くなった日差しが部屋の中へと入ってくる。それと同時に、深緑色の絨毯の上に散らばった服を照らし出した。
それを見たクレメンスは小さくため息をつくと、窓枠に手をかけてそれを大きく開けた。高地にある王都のさわやかな風が、花の香と共に部屋の中へと舞い込んでくる。
その風に反応したのか、クレメンスの背後で何かがやっと動きだす気配がした。
「いつもお忙しい兄上が、私の所まで足を運ばれるとは一体どういう事ですかね?」
振り返ったクレメンスの視線の先で、裸のまま半身を起こした少年がベッドの上で大きく伸びをしてみせた。
「お前に話がある。ただし二人きりでだ」
クレメンスはそう告げると、少年の足元の掛布のふくらみを指さした。
「小鳥君、もう飛び立つ時間みたいだよ」
少年の声に足元のふくらみがモゾモゾと動いた。次の瞬間、掛布を体に巻き付けただけの女性が、寝台の上から転げ落ちるように降りると慌てて部屋の扉へと駆けていく。
さらにもう一人の女性が最後に残った掛布を体に巻き付けると、最初の女性と同様に部屋の外へと飛び出して行った。
「二人を相手にしたのか?」
「来るもの拒まずですよ」
掛布を全て失った少年は裸のまま寝台の上で肩をすくめて見せた。
「裸の男と話をする気はない。ともかく服を着ろ」
クレメンスの言葉に少年は床にあった侍従服、さらに女性の下着らしきものをよけると、その下から自分の服を取り出して身に着け始めた。クレメンスはその異母兄弟の姿を呆れた顔で眺める。
もうすぐ16になるその体つきは森を駆ける野鹿のようにしなやかだ。明るい茶色の巻き毛に、黄色みを帯びた目。少し童顔で見かけはとても温和そうに見える表情といい、女性が放っておかないのは間違いない。
それに優秀なのは見かけだけではなかった。出自の問題さえなければ、こんな所でくすぶってなどいなかっただろう。
「剣の練習はまだしているのだろうな?」
「剣ですか? 散歩替わりの運動程度になら」
「先日、王宮で久しぶりにマルセル師に会った。剣だけでも十分に飯が食えると言っていたぞ」
「おや、あの偏屈じいさんが私のことを褒めるだなんて、珍しいですね」
「ただしもう少し真剣に努力すれば、とも付け加えていたがな」
「努力ですか? どうにもならない人間の免罪符みたいな言葉ですよ。それにあんな汗臭いところで師範代みたいなものをやるつもりも、足の引っ張り合いが大好きな北面の騎士になるつもりもありません」
「では一体何になるつもりなんだ?」
「そうですね。竪琴の一つでも持って、旅でもしながら暮らすのもいいかもしれません」
「それは私が許さない。お前に仕事を持ってきた」
「仕事? 犯罪人でしかも娼婦に落ちた女の非嫡子児にですか?」
「世間はどう思っているかは分からないが、私にとってはお前を信用するかどうかの判断材料ではない。それにお前の半分は私の半分と同じだ」
「そうですね。私のせいで父上は早々に引退させられ、兄上が跡をつがれた。ですが兄上は誰もが認めるほど優秀な方です。世の為には余程に良かったのだと思いますよ。ですがそれを引け目に、私に配慮などする必要はないと思いますが?」
「クレオン、お前は私に嫌みを言うことで厄介ごとを回避したいのかもしれないが、私には通じないぞ」
クレメンスの答えに、少年はわざとらしく肩をすくめて見せた。
「使節団の件で普段以上にお忙しくしている兄上がここまで足を運んでくれた時点で、厄介ごとから逃れられるとは思っていません」
「その通りだよ。一度中断になったロストガルへの使節団を予定通りに送る件で、王宮はてんやわんやだ。特に重臣の方々は皆が目の色を変えている。昨日の夜はファオルス将軍とパオ内務大臣が、どっちが居残りするかで大喧嘩だ」
「はあ? 軍の責任者に内政の責任者ですよね。どちらも残るに決まっていると思いますが?」
「常識的にはそうだな。だがお二人とも屁理屈に屁理屈を重ねて、使節団に潜り込もうと必死だ」
「リリア様ですね」
「あれだけの方々が、この件になるとまるで子供だ」
「お会いしたことはありませんが、皆さんがそれほどまでに執着するところを見ると、絶世の美女なんですかね?」
「クレオン、私以外にそんな発言をすると間違いなく首が飛ぶぞ。私もお会いしたことはないが、重臣の方々の話を聞く限り、相当におてんばな方らしい」
「ふふふ、その発言を聞かれたら、兄上も私と一緒に首を飛ばされますよ。でも四児の母親ですよね。個人的に興味はないな」
「いや、お前には興味を持ってもらう必要がある。なにせお前はその子供の一人と同級生になるのだ」
クレメンスの台詞に、クレオンは先ほどまでのくだけた表情とは違う真剣な表情になった。
「兄上、まさか……」
「お前の想像通りだよ。クレオン、お前をロストガル王立学園への留学生に推薦した」
「待ってください。この花の都フローラルを追い出されて、辺境も辺境、あの蛮族のところへ行けと言うのですか?」
「言葉に気をつけろと言っただろう。仮にもリリア様の嫁ぎ先だぞ。それに竪琴一つで旅に出たいと言っていたではないか?」
「言葉のあやというものです。それに留学ということは、しばらくこちらへは戻ってこれないと言う事ですよね?」
「そうだ。だがお前にとってはこの国にいるよりよほど身軽に、しかも遠慮なく才能を発揮できるはずだ。それにリリア様の目にとまる立場でもある。つまりこの国の主だった者たち全てが、お前に注目するという事だ」
「それなら各家も相当に子弟の売り込みをしたはずですよね。どうして私なんかに――」
「クレオン、お前自身はそう思っていないだろうが、見る目がある人たちはお前が優秀であることを認めている。もちろん私もその一人だ。それにこの国では才能のあるものを遊ばしておくという習慣はない」
クレメンスの言葉に、クレオンは観念したように大きくため息をついて見せた。
「一体どれだけ向こうにいればいいんですか?」
「長くても三年だ。それに留学するのはお前一人ではない。女子生徒も同行する」
「女子生徒? まさか……」
「誰が同行者か、既に分かっているみたいだな」
「三年間もカサンドラと一緒だなんて、勘弁してください!」
「ハハハ、お前にも苦手な女性がいるのだな。その通りだ。カサンドラ嬢だよ。彼女も才能はあるが、お前同様にこの国の中ではその才能を活かす環境に恵まれていない」
「カサンドラの場合は、環境云々以前にあの性格の問題だと思いますけどね。それに私は年齢的に少し合わないと思いますが?」
「その程度の辻褄合わせは国の都合からすれば実に些細なことだ。それにそこだけは私と似て、お前も童顔だからなんの問題もない」
「つまりは?」
「これは決定事項だと言うことだ。それにクレオン……」
クレオンを見るクレメンスの目が細められた。
「何でしょうか?」
「お前からの報告は私を経由して国王陛下に直接上げられる。間違っても何かに忖度したり、不確実なことをあげたりはするな。あの方を欺くことなど誰もできない」
「了解しました」
「どうした。もう怖気づいたか?」
「いそれを通り越して、もう穴の向こうに送られた気分です」
だがその台詞とは裏腹に、クレオンの口元には不敵な笑みが浮かんでいた。