再開
目の前に見慣れた天井が見えた。あたりは薄暗いが、どうやら私はいつの間にか学園の宿舎に戻ってきたらしい。そして寝台の横に人影があるのにも気づく。もちろんそれが誰かはよく分かっている。
「マリ……」
私は寝台の横に座っているマリに声を掛けた。だがどうしたことかマリは無言だ。そうか。嘘をついて勝手に抜け出したから、相当に怒っているのだろう。全て私が悪い。起き上がって彼女に謝らないと。
けれども、金縛りにあったみたいに体が動かない。もしかしてあの赤い光のせいで、何か怪我でも負ってしまったのだろうか? だが動けないことを除けば何の痛みも感じはしない。
「マリ?」
私の問いかけに、やはりマリは無言だ。だが彼女が手に何かを握っているのに気づいた。なんだろう? それは細く長く、暗闇の中でも僅かに光沢を放っている。
「な、何をしているの!」
私は慌てて声を上げた。ま、間違いない。投擲用の短刀だ。それを両手で、しかも上向きに持っている。彼女の手からそれを取り上げたいのだけど、未だに体が全く言う事を聞かない。
「フレア、ごめんなさい。私は今度も役立たずでした」
「マリ、何を言っているの?」
「何も、何もしてあげられませんでした」
「この通り私は無事よ。それにエルヴィンさんの妹のミカエラさんも、みんなも無事だったの!」
「私は、私はあなたの前から消えるべきなんです」
「そんなことを言わないで! マリ、あなたがいるからこそ、私は――」
マリの喉に剣先が触れた。そこから刃へ真っ赤な血が滴り落ちていく。
「やめて!」
私の叫びにもマリは全く何も反応を示してはくれない。同時に私はマリの体が全身血だらけなのにも気づいた。私が学園を抜け出している間に一体何があったのだろう。
「マリ! 血が出ているよ。死んじゃうよ!」
私の声にマリが不思議そうな顔をした。そして短剣から右手を離すと、その手のひらを私の顔へと向ける。そこには赤い薔薇みたいな文様が見えた。違う。薔薇じゃない。それはベッタリと手のひらについた血だ。
「これですか? これは私の血ではありません。これは私の父の、くず男の血です。私が殺してやったんです」
「待って、マリ! どういうこと?! 一体何が――」
「フフフ……」
誰? マリ以外の誰かの声が聞こえる。
「ハハハ――」
それが闇の中で笑っている。誰だ! マリをあざ笑っている奴は誰だ!
「マリは私のものなの。だから好きにしていいの」
いつの間にか、血と同じ真紅の髪をした女がマリの背後に立っている。その女は背後から肩越しにマリを抱きしめると、マリから短剣を受け取った。それをゆっくりとマリの喉へと沈めていく。
「やめて!」
私はその女に向かって叫んだ。女が私に向かってニヤリと笑って見せる。私は彼女を知っていた。そうだ、私だ。彼女は私だ。
「そうよ、私はあなた――」
「いやーーー!」
気がつくと、私は白いシーツと掛布が敷かれた寝台の上で上体を起こしていた。窓からは朝の気配がする柔らかな日差しが、部屋の中へと差し込んでいる。
『ここはどこだろう。マリは!? 私は?』
よく見ると、そこは見慣れた学園での私の部屋だ。
「フレアさん?」
部屋の奥から声が掛かった。そこには一分の隙もなく侍従服を着たマリが、心配そうな顔をしてこちらを見ている。
「マリ! だ、大丈夫なの!」
「はい。私は大丈夫です。それよりもフレアさん。もしかしたら、どこかに痛みでもありますでしょうか?」
「えっ!」
「気が付かれたのは良かったのですが、突然に叫ばれましたので、びっくりしました」
「い、痛みは何もないです。マリ、あたなは本当に大丈夫なの?」
「はい」
私の問いかけに、マリが当惑した顔をする。そうか、あれは私が見た悪夢だったのか。一体なんて悪夢なんだろう。もしかしたら神もどきに取り込まれたせいだろうか? だとしたら絶対に許せません!
「本当にどこにも痛みなどはありませんか?」
「何の問題もありません。それより私は?」
「イアン王子様やイサベル様、オリヴィア様と馬車でお戻りになられたようです。よほどにお疲れでしたのか、それからほぼ三日ほど眠られていました」
「えっ! そんなに寝ていたんですか?」
「はい」
「ロゼッタさんは?」
そうだ。無事に戻ってこれたのはいいけど、色々と覚悟しないといけないことが山ほど待っている。
「先ほどまで様子を見ていらっしゃいました」
そう言うと、マリは寝台の横に置かれた小さな椅子を指さした。
「授業があるとおっしゃいまして、私に後を頼まれて教室に行かれました」
「そうなんですね。ロゼッタさんにも心配をかけてしまったんですね――」
心が鉛にでもなった気分になる。軽い気持ちで学園を抜け出したことで、色々な人に迷惑をかけてしまった。
「マリ、嘘をついて抜け出して、本当にごめんなさい!」
私はマリに向かって、下げられるだけ頭を下げた。本当は寝台を降りて床に頭をこすりつけて謝りたいのだけど、むしろふざけていると思われるかもしれない。
「今度したら許しません。その前に、私の方でそのような事が無いよう管理させていただきます」
「管理?」
「はい。今度病気になったときには寝台に手足を縛りつけます」
「えっ、お手洗いにもいけなくなりますけど……」
「なにも問題ありません。全て私の方でお世話をさせていただきます」
「あ、あの……」
「分かりましたか!」
「は、はい!」
これは健康には相当に気をつけないといけません。風邪でも引いたりしたら大変なことになります。
「マリ、ロゼッタさんも怒っていた?」
「ロゼッタさんですか? 怒っていたかどうかは分かりませんが、相当に心配されていたことは確かです。しばらくは授業ではなく、こちらで自主学習にするとおっしゃっていました」
「自主学習!」
間違いなく怒っている証拠です。私は自分の学習机に積み上がっている、紙の束に気が付いた。
「マリ、あれってもしかして?」
「はい。自主学習用の教材だとおっしゃっていました」
いけません。この量をやらされたら間違いなく病みます。病んだら、今度はマリに寝台に手足を縛りつけられてしまう。何はともあれ、紙の束がさらに積み上がらないよう、一刻も早く教室に戻る必要があります。
「マリ、制服の準備をお願いします」
私の台詞にマリが驚いた顔をした。
「本気ですか?」
「はい。遅刻だとは思いますが学生の本分です。授業に行きます!」
「本当に大丈夫なのですか?」
「もちろんです!」
戻らないと、今度はマリに生き恥をさらすことになります。王妃様を前にして、あれやこれやとやらかしてしまいました。やらかすのは十分にお腹いっぱいです!
「フレデリカさん!」
そっと後ろの扉から教室に忍び込んだ私にいきなり声が掛かった。顔をあげると、イサベルさんが思いっきり後ろを振り返っている。
その声にオリヴィアさんも私の方を振り向いた。気のせいだろうか、その目はうるんでいる様にも見える。私は二人に苦笑いしつつ、まるで見つかった黒虫のごとき素早さで自分の席へと駆け寄った。
「もう大丈夫なのですか?」
私が席に着くや否や、オリヴィアさんが心配そうに問いかけてきた。
「はい。おかげさまで大丈夫です」
「本当に心配しました」
恐縮する私の手をオリヴィアさんがしっかりと握りしめる。気のせいではない。その目からは銀のしずくの様な涙がこぼれ落ちた。健気な美少女そのもののオリヴィアさんに、涙を流して見つめられると、女の私でもドギマギしてしまいます。
「本当によかったです」
隣に座るイサベルさんも、安堵の溜め息をついて見せる。
「ご迷惑をおかけしてすいませんでした」
「迷惑とかいう問題じゃありません!」
はおっしゃる通りです。お二人には土下座して謝らないといけませんね。授業中でなければ、もちろんそうするところですが……。
『あれ?』
もう授業は始まっている時間ですよね?
「イサベル君、オリヴィア君。休んでいたフレデリカ君の事を心配するのは分かるけど、今は授業中なのだけどね……」
前からハッセ先生の声が響く。慌てて前を向くと、ハッセ先生は苦笑いを浮かべているだけだったが、その隣にいるメルヴィ先生の視線に思わず背筋が凍りそうになった。
「はい、申し訳ありません!」
神もどきなんかより、メルヴィ先生の方が恐ろしい気がする。慌てて教科書をカバンから取り出そうとした時だ。オリヴィアさんが小さな紙を渡してくれた。
『なんだろう?』
教科書を広げながら、間に挟んでそっと目を通す。
「今日のお昼は三人で中庭でいただきましょう」
いつもお昼は三人で食べているのに、どういうことだろうか? と言うか、私のことをまともに相手にしてくれるのは、イサベルさんと、オリヴィアさんぐらいだ。それ以外の人たちからは、間違いなく痛い人扱いにされている。
なので、こんなお手紙でそれを言ってくる必要はないはず。中庭で食べるのだって……、ん!? もしかしてこれは、こっそり中庭に集合と言うことでしょうか?
ちらりと隣のイサベルさんの方を見ると、イサベルさんが目で答えてくれた。そして小さく唇に指を当てて見せる。そう言う事ですね。私はイサベルさんに小さく頷き返した。
南区に抜け出して行ったのは、目玉おばけの件と同様に口外無用という事らしい。でも私が気を失っている間に何があったのかとっても気になる。
もしかして、オリヴィアさんとエルヴィンさんが、意味深な会話をしていたとか! あの嫌み男が、イサベルさんをセシリー王妃に紹介していたとか! そんな事があったかもしれないなんて考えたら、授業はおろか、夜も寝れなくなりそうです。
『神もどきめ!』
私から一番のお楽しみを奪うとはやはり許せません! その時だ。私は机に黒い影が掛ったのに気がついた。
「フレデリカさん、授業中ですよ。何をにやにやしているのですか?」
その声に、恐る恐る頭を上げると、メルヴィ先生が首を傾げながら、私の方をじっと見つめている。
その背は座っている私とさほどに差はない。だがそこから感じる威圧感は、私の二倍ぐらいの高さから、こちらを覗き込んでいる感じがする。
「あ、あのですね――」
「すでに授業は始まっています。集中してください」
「は、はい。まことに申し訳ありません」
間違いありません。メルヴィ先生の方が神もどきなんかより余程に恐ろしいです。でも上には上がいます。ロゼッタさんの説教に比べたら……。
『いけません!』
めまいが、めまいがしてきました……。
「フレデリカさん!」
オリヴィアさんの叫び声が聞こえた。
「だ、大丈夫です」
多分、大丈夫です……。