薔薇
夜が明けきらぬ早朝、一匹のムクドリが小さく鳴き声を上げながら、そこにある数多の花の一つをついばもうとしている。一人の男性がその姿をじっと見つめていた。
「ここまでわざわざ持ってくるとは、リリアからの私信かな?」
薔薇の花が咲き誇る庭にたたずんでいた男性は背後を振り返った。
「はい、陛下」
その視線の先では、まだ若い青年が男性に向かって跪いている。
「普段はこちらからいくら送ってもなしのつぶてだと言うのに、リリアの方から送ってくるとは珍しいな」
男性は赤いロウで封がされた信書を受け取るとそう呟いた。そこには家紋の代わりに親指で封がされている。男性はその小さな渦巻き模様を懐かしむように眺めた。その封をゆっくりと剥がして、中にある便せんに目を通す。そしてこの男性にしては珍しく、少し驚いた顔をして見せた。
「何か問題でもありましたでしょうか?」
背後に立つ青年が男性にそっと問いかけた。
「延期する予定だったロストガルへの使節団だが、可及速やかに出発の準備を整えさせよ」
「使節団ですか? そちらはリリア様のご意向で、延期になったのでは?」
男性の言葉に、青年は僅かに当惑した表情を浮かべつつ問い返した。いや、問い返してしまった。
「薔薇が咲いたそうだ」
男性は少しうれしそうな表情を浮かべながら青年に答える。
「それと影をすぐに用意せよ」
「影ですか?」
「そうだ。とてもきれいに咲いたらしい。どのぐらいに美しいのか、私自身の目でそれを確かめる」
「ですが、陛下――」
青年は何かを言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。この人物が断定的な発言をした場合、それに逆らうことは許されない。目の前にいる人物こそ、南大陸の大国スオメラの全てを統べる絶対君主、その人なのだ。
男性はゆっくりと立ち上がると、目の前に広がる広大な庭園を見渡した。熱帯に近いスオメラの王都、イシュタール。そこから少し離れた高原にある離宮は常春であり、いつも花が咲き乱れている。そして妹が愛してやまない場所でもある。
そして懐から白い仮面を取り出して顔につけると、真っ青な北の空を見つめた。そして今はセシリーと名前を変えて、異国に嫁いでいる妹に思いを馳せる。
『リリア、私はお前達の犠牲と献身に、何としても報いてやらねばならぬ』
心のなかでそう告げると、スオメラ王は青年を背後に従えて東屋を後にした。
* * *
ロストガル国王エドモンドは、私室のお気に入りの椅子の横のテーブルへ空になったグラスを置いた。そのグラスには琥珀色の液体が、最初の一杯より半分を僅かに超えた線まで注がれる。
「南区の件はどうなっている?」
エドモンドはそれを手にすると、自分に酒を注いだ人物、マイルズ侍従長に対して声を掛けた。
「はい。地下の基礎に問題があって、建物が崩壊したと言う事になっております。現場は封鎖して立ち入り禁止にしました。数は多くはないですが、あたらしい住区の割り当てが必要かと思います」
「そうだろうな。ともかく日常を戻してやらないと、いつまでも尾を引く。南岸の再開発地区の一部を割り当てるほかないだろう。どのみちその工事で人手は必要になる」
「それもありますが……」
「セシリーか?」
「はい。今回の件で、王妃様が絡んでいたことは、既に一部の者には伝わってしまっております。王妃様には住民たちを救って頂いたとも言えるのですが――」
マイルズが珍しく口ごもって見せたる。マイルズとしても相手が王妃、しかも国外から嫁いできた王妃と言う事で、扱いに困っているらしい。
「宮廷の雀達に、口を閉じろと言っても無理な話だな。むしろ色々と噂を振りまいて、真実をぼかすべきだろう」
「はい。ありそうな話をいくつか流しておきました」
マイルズの台詞にエドモンドは頷いて見せた。相変わらずやることにそつがない。そう思いつつも、エドモンドは口から小さくため息をもらした。
本来王であるエドモンドは、人前でため息をつくことなど許されない。それは多くの憶測を生む事になる。だが私室でマイルズを前にしている時だけは、それが許されるとも言えた。
「体調がすぐれないという事で、しばらく謹慎させよう。公式な行事はもちろん。私的な行動も控えてもらう」
「承知致しました。イアン様についてはいかが致しましょうか?」
「イアンについてはまだ学生の身分だし、何かを問えば色々と物事が厄介になる。今回については不問だ。内務省を通じて学園にも含んでおくように」
「はい。それがよろしいかと思います」
エドモンドの言葉に、マイルズは深く頭を下げて同意してみせた。だがすぐに頭を上げると、背後の扉の方を振り向く。
「急な連絡だな」
この夜更け、しかも私室にいる時間に届けられる連絡にエドモンドは首を傾げた。
「失礼いたします」
マイルズは扉の外へと出ていくと、すぐに部屋へと戻ってきた。手にした銀の盆には小さな封書が乗っている。
封書にある蜜蝋の印をみたエドモンドは、それを確かめる様にマイルズの方を見上げた。
「先方の使い魔が直接王宮に配送してきたものです。私信扱いかと思います」
「差出人が差出人だ。公も私もないだろうが……」
そう言いながらも、エドモンドはマイルズの差しだした封書を開くと、中にある文に目を走らせた。
「マイルズ……」
「はい」
「セシリーの我がままと非礼を詫びたいと言う体裁を取ってはいるが、当初の予定通りに使節団を送りたいとのスオメラ王からの宣言だ」
「予定通りといいますと、ほとんど時間はありませんが?」
「どうやら先手を打たれたようだよ」
「スオメラ王にでしょうか?」
「セシリーにだよ。どうやら謹慎なんてする気は全くないらしい。スオメラからの使節団が来ると言うのに、セシリーを謹慎させられるか?」
エドモンドの台詞に、今度はマイルズが首をひねって見せる。
「ですがセシリー王妃様らしからぬ、少しばかり強引なやり方に思えます」
「今回の件が余程に楽しかったのだろうな。まさに生き生きとした顔をしていた」
「おっしゃる通りです」
「それどころか閨の睦言で、近く学園を訪問したいとまで言っていたぞ。それにスオメラから使節団が来るとなれば、宮廷の雀達も忙しくなる。セシリーについてあれこれ言う暇などない」
「もしかしたら、セシリー王妃様は本気なのかもしれません」
「本気?」
「はい。イアン王子様の婚約です」
「キースにソフィアも決めていないのにか? それに相手はあのカスティオールだぞ!?」
「それを通すために、使節団を呼ぶことにしたのではないでしょうか?」
「自分の息子の婚約を通すためにか!?」
「まさかそれは考えすぎ……、いや、セシリーならあり得る!」
「はい。アンナ様の件もあります。セシリー王妃様は本気なのだと思います」
マイルズの台詞にエドモンドは大きくため息をつくと、空になったグラスをテーブルにおいた。そしてそれをじっと見つめる。
「きれいな薔薇には棘がある。だが薔薇の美しさを前にすると、人はそれを忘れてしまうらしい……」
そう告げると、エドモンドはマイルズに、大きくため息をついて見せた。