消滅
バシャン!
水の跳ねる音が聞こえる。次の瞬間、私の前にはゆらゆらと揺めく水面があった。その向こうでは、真っ黒な触手に建物が覆い尽くされていくのが見える。そこに向かって、白い何かが上がっていくのも見えた。私の口から漏れた息だ。
同時に自分の体が下へ下へと沈んでもいく。だけど不思議に怖いとは思わなかった。二つの腕が私をしっかりと抱えてくれている。
「期待はずれもいいところだね」
水の中だと言うのに、私の妙に優秀な耳が誰かの話し声を捉えた。水面の揺らめきの向こうに、うっすらと子供の様な小さな人影も見える。
誰だろう? 逃げ遅れた子供なら助けなきゃ……。
でもその人影に慌てている様子はない。それに手には長い板みたいな物を持っているのも見える。いや違う、剣だ。身の丈に合わない、大きなしかも歪んで見える剣を持っている。
「最初から、そんなものはしていないでしょう?」
別の声も聞こえてきた。今度は女の子の声だ。だけど他に人影は見当たらない。それにこの二人の声は、前にどこかで聞いた気がする。
「観測もこの仕事の一部だよ。いや、そちらの方がよほどに大事だ。でも彼の言うように、この中に使える器なんてあるのかな?」
「さっさと試して、壊れたら、また次を探せばいいだけじゃないの?」
再び女の子の声が聞こえた。その声はとてもいらだっている様に聞こえる。一体なんの話をしているのだろう。
「カルミア、残念ながらそうはいかないんだよ……」
「そんなことより、いつまでこの姿でいればいいの? さっさと終わりにしてくれない?」
「そうだね。さっさとお使いは終わらせるとしよう。ぼくは誰かさんと違って、道草は好きじゃないんだ」
水面の向こうの人影がこちらを覗き込むのが見えた。そして身の丈に不相応な、大きな剣をゆっくりと構える。次の瞬間、真っ赤な光が走り、泡だつ水面に眼の前が真っ白になった。
『なにがおきたの!?』
荒れ狂う水面に、訳が分からない恐怖が襲ってくる。だけどもう息が限界だ。でも浮かび上がろうとした私の体を、二つの腕がしっかりと抱えた。でもごめんなさい。もう無理なの。息が、息が続かない……。
「一体これは何なんだ!?」
エドガーは足元の穴が見せた景色に、思わず叫び声を上げた。辺りが炎と煙りに覆われたかと思ったら、普通じゃあり得ないような術の連発だ。
これがナターシャの言った、セシリー王妃付きの護衛役や、イアン王子の護衛役が放った術だとしたら、二人ともナターシャ並みの術者だという事になる。
そして次には謎の赤い光が見えて、辺りの建物全部を丸ごと吹き飛ばしてしまった。その光は建物だけではなく、あの化け物たちも全て吹き飛ばしていく。
エドガーが知る限り、個人でこんな術を振るえるなんてのは、おとぎ話に出てくる魔法職、それも子供向けのものだけだ。
実際の所、ナターシャは間違いなく伝説級だ。自分がこうして腕に抱えて、意識が朦朧としている状態でも、彼女が「聖女の子宮」と呼んだ、とんでもない術を維持し続けている。
ナターシャの凄さは、単に強力な術を素早く召喚出来るだけではない。それを思考の並列化で複数同時に展開、維持できる。そのナターシャでも、化け物を丸ごと吹き飛ばすなんて術を、贄も無しに召喚できるとは思えない。
「違うな……」
エドガーの口から声が漏れた。あの突然に上がった炎や、建物を吹き飛ばした光からは術の痕跡、穴が全く感じられなかった。もしかしたら自分が知らない、強力な紛れを掛けていたのかもしれない。
だがそうだとしても、紛れを掛けたこと自体は間違いなく分かる。魔法職にとって、あれだけの強力な術の召喚は、南大陸まで届くような銅鑼を、耳元で鳴らされるのと同じだ。
「南冥の隠者」、この王都で呼び出すなんて、普通ならあり得ない術が放たれたことは、この国のありとあらゆる塔、いや塔だけじゃない。王宮魔法庁に所属する、ほぼ全ての術者が察知したに違いない。
「う~~ん」
不意にエドガーの腕の中で、ナターシャが小さくうめき声を漏らした。そしてつぶらな瞳を大きく開けると、エドガーの顔をじっと見つめる。
「ちょ、ちょっと! 何をやっているのよ!」
「いや、冷たい床に寝かせておく訳にはいかないので……」
だがナターシャはエドガーの言い訳を無視して飛び起きると、星振が描く穴に駆け寄った。そして口に手を当てて、珍しく驚いた顔をして見せる。
「どういうこと!? それに誰の術!」
「さあ、僕にもさっぱりなんだ……」
「はあ? あんたは見ていたんでしょう!」
「きっと、ヘルベルトとかいう――」
「あんたは馬鹿? ヘルベルトのガキに、こんな力がある訳ないでしょう!」
「だったら、セシリー王妃付きの護衛役かな?」
「本当に役に立たないわね!」
そう地団太を踏むと、ナターシャは背後の穴を振り返った。
「こんなことをするには、街一つを贄にして、大穴をあけでもしない限り無理よ。それにそんな事が出来る人なんて――、まさか、いやそんな訳はないわ。それに贄を使った形跡もないし……」
ナターシャの顔に当惑の色が浮かんだ。そして何かをエドガーに告げようとした時だ。ナターシャが口をつぐむと、歪んで見える周囲に視線を走らせた。
「時間切れね。『聖母の子宮』が解ける。もう余計なことは何もしゃべっちゃだめよ」
そう告げた瞬間だった。まるで芝居の幕がおりたみたいに、辺りの景色が元へと戻る。
「おいおい、『聖母の子宮』なんてもんをかけて、二人で何をいちゃついていたんだ?」
エドガーの聞き覚えのない男性の声が響いた。声がした方を振り向くと、そこに男性が二人立っている。痩せ気味のおさまりの悪い、いや全く櫛を通していないぼさぼさ髪の神経質そうな男と、とても背が高いまるで岩の塊の様な大男がエドガー達を見ていた。
「誰だ?」
「おい、この塔で俺たちに向かって、誰だはないだろう?」
ぼさぼさ頭がエドガーに答えた。
「あんたの先輩だよ。俺は『鎌』、そしてこっちのでかいのは『槌』だ。この塔の中で、『聖母の子宮』なんてもんを呼び出して、何をやっていたんだ? いちゃついていたなんて言うなよ。さっきの台詞はあくまで冗談だからな」
そう言うと、男はエドガーに向かって両手をあげて見せた。
「はあ? 何であんたに、しかも偉そうにそんなことを聞かれないといけないの?」
ナターシャが超不機嫌な声をあげる。
「おいおい、聞いているのはこっちだぞ?」
「あんたたちの尻ぬぐいで、王妃様の跡をつけていたからに決まっているでしょうが! だからこの穴はここを指している。穴の位置を遡れば、ずっと追っていたことぐらい、その中身のない頭でもすぐに分かるはずよ」
ナターシャはそう言うと、ぼさぼさ頭に向かって、手にした棒付き飴を突き出した。それを見た男が大男と互いに顔を見合わせる。
「なんでそれに『聖母の子宮』が必要なんだ?」
「紛れもろくに掛けられないあんた達が、王妃様にブチ切られたからからよ」
「な、そ、それは――」
「こっちはブチぎられないようにする為に、『聖母の子宮』まで使って、こっそり後をつけたの。理解できた、おじさん?」
「こ、小娘のくせに、偉そうな口を――」
「無駄に年を取っているだけのあんたに、言われたくないわね。そんなことより、待機中にあんた達の分まで働いたんだから、私たちの担当分はしばらくはそっちで見てちょうだい」
「何だって!?」
「当ったり前でしょう。レオニートのおっさんにも、そう要求する。間違いなく通ると思うけど? なにせあんた達に代わって、黒曜の塔の面子を保ってあげたの!」
「おい、そっちの新人。お前の方は少しは社会人の常識ってやつぐらい、持ち合わせていないのか? 普通は先輩に対して挨拶ぐらいするもんだろう」
「は、はじめまして、エド――」
「そんなのいらないわよ。これからいくらでも、互いを覗き合うことになるんだから。じゃ、お二人さん、後はよろしくね!」
そう言うと、ナターシャはエドガーの手を引っ張って、塔の出口へと引きずっていく。
「フン、やっぱりアルベールの元手下の坊やだな。あの軟弱野郎と同じで、女の尻に――」
「ちょっと待て、誰が軟弱野郎だって?」
エドガーの足が止まった。
「おや、坊やって呼んだのが気に障ったかい?」
「僕のことなんかどうでもいい。今、アルベールさんのことを、軟弱野郎って呼んだな?」
「ああ、金髪の軟弱男のことかい?」
「もう一度だけ聞く。今、誰のことを軟弱って呼んだ?」
「『大足』!」
ナターシャがエドガーの手を思いっきり引っ張った。
「いくよ。今日の仕事はもう終わったの」
エドガーは肩から力を抜くと、ナターシャに続いて、塔の出口の扉を潜り抜けた。
「フン!」
塔の中に、ぼさぼさ男の鼻をならす音が響いた。
「なかなか面白いじゃないか?」
その背後で、大男がぼさぼさ男に問いかけた。
「面白い? 単に生意気なガキというだけだろう?」
「いや、最後のすごみは中々だったよ。久々にあの人を思い出したな。それにナターシャも、やっぱり若い女の子という訳だ。若いもの同士、気が合うみたいじゃないか」
「どうして女と言うのは、ああ言うなよなよした奴が好きなのかね?」
「母性本能というやつじゃないのかな? それよりも、お前は未だにダリアの事を忘れられないのか?」
「はあ? いつの話だ!」
「俺に嘘は通じないよ。女たちはお前の一途さと純情さにこそ、理解と興味を示すべきだな」
「おいおい、一体何の寝言だ。それよりもどう報告を上げる?」
「そうだな。俺たちは何も見ていなかった。そうするしかないだろうな。この世界で重要なのは、事実かどうかじゃない。筋が通っているかどうかだ。ナターシャの言っていることの筋は通っている」
「分かった。『槌』、お前がそう言うのならそうしよう」
大男はぼさぼさ頭に頷いて見せると、星振が見せる景色へと視線を向ける。そしてそこにいる赤毛の少女と、その周りに集う人々の姿をじっと見つめた。