本物
なんだろう。私を抱きしめる王妃様からは、死んだお母様と同じ匂いがした。その暖かさと懐かしさに、やっと止まっていた涙が再び流れそうになる。
「ともかく母上も、フレデリカ嬢も皆が無事でよかったですよ」
イアン王子の声も聞こえた。本当にそうだ。そしてそれはみんながここに来てくれたおかげだ。みんなが呼び掛けてくれなかったら、私一人だったら、間違いなく神もどきに取り込まれていただろう。
「はい。それにどうやら、私たちの杞憂だったようですね」
イアン王子の言葉にイサベルさんも同意した。杞憂? 一体何のことだろう? この二人にはやはり秘密が、とっても美味しそうな匂いの秘密の香りがします。
「本当にありがとう」
背中から腕を離したセシリー王妃が、再びそう告げると、にこやかに微笑んでくれた。その笑顔に、今日一日でおきた事が全て報われた気分になる。
そうだ。もし感謝して頂けるのであれば、学園を抜け出たことを、穏便に済まして頂けませんでしょうか?
正直、学園はどうでもいいのですが、ロゼッタさんを説得して頂けると、本当に助かります。これは絶対に無理ですね。
「お~~い!」
私が真剣に自分の将来、いや、生き残りについて思い悩んでいると、背後からのんきな声が聞こえてきた。
「そちらの方が早かったか? やっぱり馬車には勝てないな」
「ヘルベルト、お前はどこで道草を食っていたんだ?」
イアン王子は大きくため息をつくと、こちらへと走ってきたヘルベルトさんにそう声を掛けた。
「道草? 勘弁してくれ」
「おいおい、あの自信満々の台詞はどこにいった?」
「南区はまさに迷路だな。ともかく壕に邪魔されて、ここまで来るだけでも大変だったんだぞ」
そう言うと、お調子男は辺りを見回した。そしてみんなに指示を出すドミニクさんに目を止める。
「商売柄、南区は美人が多いという話は、本当だったんだな。北区に比べると女性がみんな色っぽい」
そう告げると、ドミニクさんの横にいるミスリルさんにも視線を向けた。全く誰だか気がついていないのか、濡れて体の線が露になっている、セシリー王妃の後姿にまで目を向けている。
年頃の男の子なので、その気持ちは分からなくもないですが、やっていることはトマスさんと同じです。それにドミニクさん本人に聞かれたら、間違いなく命がなくなるやつですよ。
「あれ? お嬢様方まで、ずぶ濡れじゃないですか!?」
どうやらこのお調子男は、やっと私達が近くにいることに気がついたらしい。今度は濡れたオリヴィアさんの方をガン見している。
本当に君は自分に正直ですね。でもいくら濡れたオリヴィアさんが、健気でかわいく見えるからって、ガン見は余りにも失礼です。やっぱり、トマスさんと同じですよ、同じ!
しかし当人は、私の冷たい視線には全く気がついていないらしい。いや、オリヴィアさんを前にして、私の存在自体に気がついていないとしか思えない。
「どこを見ているんだ!」
イアン王子にどつかれて、やっと自分が何をしていたのか気がついたらしい。ヘルベルトさんは、慌ててイアン王子の方を振り向いた。
「火を着けて注目を集めるという手を思いついたのは、お前か?」
ヘルベルトさんが、イアン王子に対して、少し呆れた顔をしながら告げた。
「目立つのはいいが、目立ち過ぎじゃないのか? 王宮騎士団が来ているぞ。ばれない程度に邪魔して来たが、もうすぐここに来る。ばっくれるのなら早めがいい」
どうやらヘルベルトさんも、私たちの知らないところで、こちらを助けてくれたらしい。神もどきの退治中に、騎士団なんかが現れたりしたら、きっと大混乱だっただろう。
「それにこれは『南冥の隠者』だよな。誰だ。こんな大それた術を街中でかけたのは? おかげでこっちまでずぶ濡れだ」
お調子男の文句に、今度はイアン王子が肩をすくめて見せた。
「こっちは目立つなんてもんじゃない。王宮魔法庁はもちろん、下手したら、黒曜の塔が出張ってくるぞ」
「あら、それはイアンさんのせいではありませんよ」
「誰だ。えっ!」
ヘルベルトさんが、慌てて這いつくばるように、地面に頭をこすりつけた。
「セシリー王妃様!」
「ヘルベルトさん。そんな大声を出さないでください。今日の私は私人なんです。それに女性に対して先程の様な発言をするとは、男性としてずいぶん成長したみたいですね」
「も、申し訳ございません。あ、あの? 王妃様が私人ですか?」
顔を上げたヘルベルトさんが、不思議そうな顔をして、イアン王子を見る。だがイアン王子の立てという合図に、すぐに立ち上がった。
「母上、ヘルベルトの言う通りです。騎士団だけでなく、王宮魔法庁もすぐに人を寄越すはずです。私たちの乗ってきた馬車がありますので、それで早急にここから立ち去るべきかと思います」
イアン王子の発言に、セシリー王妃は首を横に振って見せた。
「何を言うのですか。その様な者たちが余計な事をしないようにするためにも、ここにいなければなりません。本来なら私どもの方で、地面に頭をこすりつけて感謝すべき案件なのですよ」
「ですが……」
「宮廷の口さがない者たちには、好きに言わせておけばよいのです。この件については、全て私の方で責任を取ります」
そう宣言すると、セシリー王妃は背後でミカエラさんを運んだり、布や着替を配ったりしている人々を眺めた。その先頭にはドミニクさんや、ヤスさん、ミスリルさんたちがいる。それにシルバーさんたち、地下水路に居た人達もいた。
そう言えば、トマスさんはどこに行ったのだろう? 辺りを見回すと、端っこの方で、家がなくなってしまったおばあさんの小言を聞いている。いつもコリンズ夫人の小言を聞いて鍛えられていますからね。間違いなく適役です!
イアン王子にヘルベルトさんは、セシリー王妃を交えて、何か協議らしきものをしている。やはり国の中枢にいる人たちは違います。そんな事を考えていると、誰かが私の肩を小さく叩いた。振り返ると、イサベルさんが少し不安そうな顔をして立っている。
「先程、フレデリカさんに、黒い影の様なものが纏わりついていたみたいに見えたのですが?」
「イサベルさんも見たのですか? 私も見ました。無数の虫、いや赤ちゃんの手みたいでしたが……」
オリヴィアさんも、イサベルさんに同意すると、悪寒でもしたみたいに体を震わせた。
「えっ、二人とも、あれが見えたのですか?」
ドミニクさん、それに魔法職のセシリー王妃に、エミリアさんにも見えなかったんですよ!
「は、はい。でもきっと煙か何かの見間違いだと思ったのですが、あれは私の見間違いではなかったのでしょうか?」
イサベルさんが不安な顔をして私に聞いた。
「神もどきです」
「神もどきですか?」
そう聞き返したオリヴィアさんが、訳が分からないという顔をしてイサベルさんの方を見た。イサベルさんも同じ表情をしている。これは一体どうやって説明すればいいのだろう。まさか前世であった化け物です、なんて話をする訳にもいかない。
「神もどきはですね――」
ズン!
その時だった。急に足元が揺れたような気がした。慌てて顔を上げたが、前にいるセシリー王妃にエミリアさんも、それに気が付いた様子はない。もしかして、今頃になって、足腰が立たなくなったのだろうか?
ズン!
再び大地が揺れたような気がする。小さな地震だろうか? だけど神もどきに触れた時と同じような、言葉にならないおぞましさを感じる。それもさっきの神もどきなんて目じゃない。もっと邪悪な何かだ。
「こ、これは!?」「なんでしょうか!?」
イサベルさんとオリヴィアさんも声を上げた。
「あれもとても気持ち悪かったのですが、今も同じ感じが、いえ、もっとはるかに気持ち悪い感じがします」
「イサベルさん、私もです!」
「あんた達、いつまで濡れた格好をしているんだ。部屋を借りたから、そこで着替えを――」
ドミニクさんが私達に声を掛けてきた。
ズドドドドン!
私がそれに答えようとした時だ。まるで雷でも落ちたみたいな、大きな音が辺りに響き渡る。それは私たちの正面にある建物が崩れ落ちる音だった。さっきの炎の煙なんて比較にならない、真っ黒なほこりが辺り一面に舞い上がる。それをここにいた全員が、ただ呆気に取られて見ていた。
「ヘルベルト、お前か? 派手にやれとは言ったが――」
「おい、何を言っているんだ。俺な訳がないだろう」
「赤毛、まさかと思うが、お前が――」
何を言っているの!
「逃げてください」
オリヴィアさんの小さな呟きが聞こえた。そうだ。すぐにここから逃げなくてはいけない!
「みんな、すぐにここから逃げてください!」
私は腹の底から声を上げた。目の前には真っ黒な触手が這い回り、それが周囲にある建物に当たる度に、建物が潰され崩れ落ちていく。
「神もどきです。本物の神もどきです!」