泣き声
「目を覚ませ!」
名前だけじゃない。私を励ます声も聞こえた。どうやら私は神もどきに取り憑かれて、気を失っていたらしい。誰かと話をしていた気もするのだが、よく思い出せない。
それよりも、私にはやらねばならない事があるのを思い出す。同時に何かが私の体に纏わりつき、うごめいているのにも気が付いた。
『出ていけ!』
私は自分に入り込もうとしている無数の手に対して、心の声を張り上げた。
『アハハハハ!』『フフフフ!』
でも一向に奴らが離れる気配はない。
『遊ぼ!』『一緒に遊ぼう!』
そう声を上げる無数の手が、私の体にじゃれつこうとする。やっぱり子供なんだ。だからと言って、許すことなど出来ない。
こいつらをほっておけばミカエラさんの命を、そしてもっと多くの人たちの命を奪うことになる。そしていつかは、前世の神もどきと同様に、人を支配する存在になるだろう。でもどうすれば、私でこいつを何とか出来るだろうか?
その時だった。私は鳩尾の辺りに、黒い靄が渦巻いているのに気が付いた。マナだ。確かにこの世界でもそれを感じることは出来たが、今はそれがはっきりとそこにあるのが分かる。
私はマナに意識を集中した。それは小さな赤い光となって私の心に灯る。それが赤く燃え盛る炎へと、私自身が炎へと変わる姿を思い描いた。
「ここはあなた達の遊び場じゃないの。自分たちのいるべき場所に帰りなさい!」
私の視界が真っ赤に染まった。目を開けると、そこでは黒い小さな手が、火の付いた落ち葉みたいに舞い上がっている。そして最後は一筋の黒い煙となり、建物の間の空へと昇っていく。
だが舞い上がる火と煙が、瞬く間に空を覆いつくそうともしている。気が付くと、辺りの廃材は私が心に描いた姿そのままに、真っ赤な炎を上げて燃えていた。
「ごほ!」
神もどきは、奴らは全部燃やせただろうか? 立ち込める煙りに咳込みながら、私は辺りを見回した。
視線の先、寝台があるところに向かって、火を纏いながらも、黒い塊が這うように向かっているのが見えた。最後にミカエラさんの口から出たやつだ。
でも紐か何かで引っ張っているらしく、寝台は廃材の間を、向こう側へと動いている。これなら大丈夫、そう思った矢先だった。
ミカエラさんの寝台が、崩れ落ちてきた廃材に、行く手を阻まれるのが見えた。黒い塊が逃げ場を求めて、そこに迫ろうとしているのも見える。
『いけない! 奴に追いつかれる!』
「引け!」
こちらでも背後から声が響いた。ヤスさんの声だ。それに合わせて、腰に巻いた紐がすごい力で引っ張られる。
「待って!」
私は声を張り上げた。だけど紐を引っ張る力は緩まない。このままでは、奴がミカエラさんの中へ戻ってしまう。私は手にしていたナイフで、自分の紐を切り離した。
「何をしている!」
背後から慌てた声が聞こえた。私はそれを無視して、炎を上げて燃える廃材の間を走る。吹き上がる熱風が私の肌を焼き、熱いなんてもんじゃない。自分の着ている外套からも、白い水蒸気が上がっているのが見える。
『お願い、力を貸して!』
私は鳩尾の下のマナに、黒い塊に向かって、炎が伸びる姿を思い描いた。
ゴゴゴゴ!
私の思いが通じたのか、両側の廃材の山から赤い炎が伸びて神もどきへと向かう。神もどきはそれを振り払おうと、とぐろを巻くような動きを見せたが、炎に包まれて黒い灰へ、そして煙へと変わっていった。
だけどこれで終わりではない。崩れた廃材の山から寝台をずらさないと、今度は炎と煙に巻かれて、ミカエラさんが死んでしまう。
私はそのまま走り続けると、寝台へ体当たりをした。右肩に走った鋭い痛みと引き換えに、寝台がガクンと動く。そして地面の上を滑りながら、廃材の向こうへと動き出すのが見えた。
「やった!」
私もミカエラさんと一緒にここを抜ければいい。だが目の前に何かが大量に落ちてくる。それは私の体当たりで崩れた角材や板だった。そのどれもが、赤い炎をあげて燃え盛っている。それは私の行く手を遮り、炎の壁を作り出した。
『前はだめだ。後ろに戻るしかない!』
ガタン!
今度は背後で音がした。振り返ると、後ろの山も前と同様に崩れ落ちたのが見える。同時に周りが瞬く間に真っ白な煙で包まれ、全く何も見えなくなった。
『助けて!』
思わず心の中で悲鳴を上げる。だけどここには白蓮も百夜もいない。それを聞いてくれる人も、助けに来てくれる人もいないのだ。
『ここでの人生も、これで終わりなのかもしれない』
煙に意識が遠くなりながら、そんな思いが心に浮かんだ。でも全てがだめだったわけじゃない。今度も神もどきは燃やしてやることが出来た。それにミカエラさんの命は救えたのだ。
そう思って頭を上げた時だった。煙の向こうから、何かがこちらに迫って来るのが見えた。火の粉を上げながら倒れてくる柱だ。その光景に私は覚悟を決めた。
「赤毛!」
その声と共に、誰かが真っ白な煙の中から飛び出してきた。そして私の体を腕に抱いて地面へと引きずり倒す。
バタン!
すぐ横で、柱の倒れる大きな音が響いた。
「重い。さっさとどけ!」
私を地面に引きずり倒した声はそう告げると、体を腕に抱きかかえた。遠くなりそうな意識の中で、前にもこんな事があったのを思い出す。煙に霞む視線の先、その時と同様に、鳶色の髪と鳶色の瞳が見えた。
「どうして!?」
だけど私の問いに答えることなく、彼は濡れた外套で私の体を包むと、じっと辺りを見回した。私たちが進むべき先を見つけようとしているらしい。でも辺りはすべて炎に囲まれてしまっている。それに前後だけではない。私たちの横にある廃材の山も今にも崩れ落ちそうに見える。
「いけない、あなたも――」
思わず心の声が漏れた。熱風で舞い上がった火の粉が、私達に向かって振ってくる。これだけでも肺が焼けて――
『なんだろう?』
向かってきた火の粉が、鉄を打つ時の火花の様に、黄金の光を上げて、私たちの周りへと降り注いでいる。それはこちらに手を伸ばそうとする炎が、私達を包む何かに弾かれているみたいに見えた。
それに見ているもの全てが、ゆっくりと、まるで止まってしまったみたいにも感じる。そして一陣の風が辺りを吹き抜けると、周りを覆っていた白い煙を払った。
「こっちだ!」
私を抱きかかえた人物が声を上げた。その腕に導かれるままに走る。もう走れない。そう思った時だ。
ザザ―――――!
目の前が開け、轟音を立てて何かが落ちてくる音が、辺りに響き渡った。それは私の体にもこれでもかと降り注ぐ。それはまさに滝の様なとしか言えない豪雨だった。
「勘弁してくれ」
耳元で声が響いた。
「どうしていつも、勝手なことばかりするんだ?」
そう告げると、その声の主は、私を見ながら大きくため息をついて見せた。
「お前は間違いなく、ある種の災難そのものだな……」
私がそれに答えようとする前に、誰かが私の体に縋りついた。
「あ~~ん!」「フ、フレアさ~~~ん!」
大声で泣く声が聞こえる。ああ、この声も私がよく知っている声だ。
「うわ~~~~ん!」
さらに泣き声が重なる。それはイサベルさんとオリヴィアさんと一緒にあげている、私の大きな泣き声だった。