呼び声
そこだけを切り取ったみたいに、建物の間から空が見えていた。そこには一つだけ綿雲が浮かんでおり、暮れようとする冬の日差しを浴びながら、その身を黄色く染めている。
いつかどこかで、同じ空を見た気がした。それはこの世界だっただろうか? それとも前世の世界だろうか? 思い出すことが出来ない。どの世界でも空は青く、そして夕日に赤く染まる。違うのは夜、ここでは月が二つ昇るのだ。
その寒空の下、私は廃材に囲まれた空き地で、頭からこれでもかというぐらいに水を被り、ナイフ一本だけを握りしめつつ立っている。
エミリアさんが掛けた紛れとかいうもので、他の人には見えていないのかもしれないが、私から少し離れた廃材の山の端には、寝台が一つ置いてあった。
私の目に映るのは寝台だけではない。無数の黒い手がとぐろを巻く姿と、その下にいるいたいけな少女の姿が見え隠れしている。ミカエラさん、こいつらに苗床にされているいたいけな少女だ。
『あと少しだけ我慢して――』
私は横たわる少女に心の中で声を掛けた。
「ゴホ!」
その姿を見ながら、辺りに立ち込めるとんでもない酒の匂いに、思わずせき込みそうになった。匂いだけでも酔っ払いそうなくらいだ。
全ての準備は整った。後は私が彼女から神もどきをおびき寄せるだけだ。だけど心の中では疼きの様な不安が頭をもたげようとしている。なぜだろう。すでに心は決まっているはずなのに……。
「そうか――」
その理由はすぐに分かった。前世で囮をしていた時、いつも白蓮か百夜が側にいてくれた。もちろん今日の私も一人ではない。だけど私の心は二人がここにいないことを不安に思っているのだ。それは私の指先や足にも、頭から被った水だけではない震えとなって伝わっている。
パン!
自分の頬を両手で叩いて気合を入れた。こんなぐらいで怯えていてどうする!
それこそ白蓮や百夜に笑われてしまう。そして自分の腰に巻かれている紐に目をやった。その紐は火が着いた後で、私の体を引っ張ってくれる人達、ヤスさんやミスリルさん、それにトマスさんの手に繋がっている紐だ。
『私は一人じゃない!』
心の中で声を上げると、神もどきを見つめた。
「準備できました!」
「術を解きます!」
私の声にエミリアさんが答えた。次の瞬間だった。ちらちらと見え隠れていた寝台が、完全にその姿を、そしてそこに渦巻く神もどきの姿を顕にする。
『えっ!』
私は心の中で叫んだ。それは無数の小さな手の奔流だった。それが大きな一つの手へと姿を変え、私に向かって迫ってくる。広げられた黒い手が空を、いや私の周囲全てを覆いつくした。
「能天気娘!」
背後からトマスさんの声が聞こえる。だけど答えることが出来ない。私は自分を捉えた黒き手と共に、深く、さらに深く、見えぬ底へと沈んでいった。
『キャハハハ!』『ウフフフフ!』『ブーブーブー』
何も、何も見えない。私は暗闇の中に、ぽかんと一人で浮かんでいた。多分そうだ。意識の中では、大勢の子供らしき者の声が、木霊みたいに響いている。
浮かんでいるのかも定かではなかった。地面らしきものは一切感じられない。自分の体があるのかどうかすらも分からない。手も、足も、体も、全て何も感じられないのだ。ただ私の意識だけがここにある。
『これが神もどき?』
私は驚きの声を上げた。前世であったやつは、先ずは私たちの体を捉えようとしたはずだ。いきなり意識が奪われるということはなかった。
『フフフフ』
子供達の笑い声は、闇の中で止まることなく続いている。一体どうすれば、これを追い出すことが出来るのだろう。
「出ていけ!」
私は自分の中で必死に叫んだ。だがそれは声になることもなく、ただむなしく私の意識の中に浮かんでは消えていく。もしかしたら私はこれが何かについて、最初から間違っていたのではないだろうか?
「そうだ。お前は過ちを犯したのだ」
笑い声ではない、はっきりとした言葉が頭に響いた。そして私の意識の中に、うっすらと小さな人影を感じる。
「お前は我を捨てたのだ」
僅かに輪郭しか見えないのだが、私にはその影が誰のものなのか、はっきりと分かった。
「百夜!」
「我だけではない。今度は白も捨てて、お前はここに逃げてきたのだ」
「白? 白蓮のこと? ごめんなさい。ごめんなさい。逃げたんじゃないの! 全ては私の不注意だったの!」
「違うな。お前は無我の世界から、一人だけこちらへと逃げてきたのだ。あの時と同じだ。お前と、我と、白が魂を取り戻した時と同様に、今度はお前だけが無我の頸木から逃れたのだ!」
「無我? 頸木? 一体なんのこと?」
「知らぬ訳はないだろう?」
「分からない。何も分からないの。私は、私は何者なの! どうしてここに居るの!?」
「赤、お前は――我と――真に魂を――だけでない。お前はここの――」
「よく聞こえないの。黒、もう一度、もう一度言って頂戴!」
僅かに見えていた人影が、闇の中に沈んでいこうとする。私はそれに向かって、必死に意識を繋ごうとした。
「石など要らぬ、自分が何かを思い出せ……」
『お願い、黒! 私を置いていかないで!』
「赤毛!」「フレデリカさん!」「フレアさん!」
その時だった。闇の向こうから別の声が聞こえた気がした。そして体があることに、足元には大地があることにも気付く。視界は未だに闇に包まれていたが、さっきまでの真の闇とは違う。体が何かによって覆われているからだと、すぐに分かった。
「赤毛!」
再び私を呼ぶ声が響く。その声は、今度ははっきりと自分の耳に聞こえた。