憑依
握りしめたミカエラさんの手はとても暖かく感じられた。いや、温かいのではない。それはまるで火を内に含んでいるかのように、とても熱く感じられる。彼女が必死に命を繋ごうとしている証だ。
「はい。フレデリカです。でもどうして?」
「すぐに分かりました。兄が手紙で教えてくれたんです」
「エルヴィンさんが?」
「はい。どんなことにも立ち向かい、決して逃げたりはしない、とても尊敬できる人だと書いてありました。そのきれいな赤い髪の色といい、私が思っていた方そのままです」
彼女の真剣な言葉に、思わず冷や汗が出そうになる。
「買い被りすぎですよ。私はそんな立派な人間ではありません。厳しい剣の修行だってされたのですから、お兄さんの方がとても立派だと思います」
「ええ。でもフレデリカ様は――」
「ミカエラさん、どうか私の事はフレアと呼んでください」
「はい、フレアさん。フレアさんは兄に剣術の試合で勝たれたと聞きました」
「それは間違いです」
「間違いですか?」
ミカエラさんが不思議そうな目をする。
「はい。私はエルヴィンさんに勝ってなどいません。単に逃げ回っただけです」
「でも――」
「殿方が女性に勝ちを譲ってくれただけの事ですよ」
「フフ」
私の言葉に、ミカエラさんが口元に小さく笑みをもらした。
「フレアさんは、嘘が下手なんですね」
「えっ?」
おそらくは妹のアンぐらいの、年下の少女からの指摘に、思わず声が出てしまう。
「剣に関しては、兄は女性だからって遠慮したりはしません。なにせ、いつもドミニク先生にこてんぱにされていましたから……」
「そうなんですね」
「それよりも、フレアさんはどうしてここに?」
「私の親友にオリヴィアさんという方がいます。その方は以前、病に臥せっていて、それがミカエラさんと似た症状だったそうなのです」
「そうなのですか?」
「はい。それでその方と一緒に、こちらまで見舞いにきたいと思ったのですが、この辺りは不慣れなので、私の方で先に場所を確認しておく為に、お邪魔させていただきました」
「今、その方はどうされているのでしょうか?」
「私が最初に会った時は、車椅子で学園に来られましたが、今はとても元気です。だからミカエラさんも――」
「フレアさん」
「はい」
「お心遣いはありがたいのですが、私は無理だと思います」
ミカエラさんが、悲しそうな目をして私を見た。
「なぜですか?」
「その方はフレアさんと同じく、立派な貴族の家の方かと思います。ですが私は違います」
「そうですね。でもその方が元気なのは本当です」
「すいません。せっかく来ていただいたのに……、余計な事を言ってしまいました」
「そんなことはありません。でもミカエラさん、希望はあります。どんな時もです。それに私がミカエラさんに希望を連れてきます」
「ああ、フレアさんは私が思っていた通り、とってもお優しい方ですね!」
その言葉に再び冷や汗を掻きそうになる。一体エルヴィンさんは私についてどんな妄想を書き綴ったのだろう?
「兄が手紙をくれたときに、フレアさんみたいなお姉さんが欲しかったと、心から思いました。私だけではありません。兄も間違いなく、フレアさんの事が大好きなんです」
『えっ!』
お世辞としてはうれしく思いますが、間違ってもそれはありません。いえ、あっては困ります。これは話の筋を変えないと、とても危険なものを踏みそうな気がします。
「お姉さんですか? でもエルヴィンさんもとっても優しい方ですよね?」
「はい。兄は優しい人ですが、やはり兄は兄で男です」
そう告げたミカエラさんの目が、少し笑ったように見えた。
「その気持ちはよく分かります。私にも妹が一人います。アンジェリカと言う名前の、とってもかわいくて、ミカエラさんと同じ頑張り屋さんです。でもいいお姉さんが出来ているとは思えません。同じ家に住んでいた時も、ほとんど顔を合わせられませんでした」
「そうなんですか?」
「ええ」
貴族の家には、貴族の家ゆえのあれやこれやがあるのです。でも妹と言えば、前世ではありますが、もう一人そんな感じの奴が居ましたね……。
「そう言えば、夢の中にもう一人、妹みたいな子がいます」
「夢?」
「はい。その子はとっても口が悪くて、偉そうで、そして何より食いしん坊なんです。でも夢の中でその子と、それはもうおなかいっぱいというぐらいに冒険をしました」
もう一人、あまり役にたたない居候もいましたが、話がややこしくなるので、奴については割愛させていただきます。
「冒険って、とっても素敵な夢ですね!」
ミカエラさんは声を上げると、その黒い瞳を輝かせた。そして私の握る彼女の細い手にも、僅かに力がはいったように感じる。
「そうですね。先ずは故郷の街から、おばけが住む森を抜けて逃げました」
「こ、怖い夢ですね」
そうですかね。この世界にも目玉おばけが居ますから、大して違いは無いような気もします。
「そこに犬のおばけや、鳥のおばけもいたんですが、湖の島に大きな木みたいなおばけもいて、仲間を助けるために、そいつらと戦ったんです」
これでもかというぐらいに死にかけましたし、水浴びすら出来ないような、乙女とは思えない状態でしたけどね!
「木ですか!?」
ミカエラさんが不思議そうな目で私を見た。
「とってもいやらしい奴で、見えない黒い手で人を操るんです」
そいつに関しては、今思い返しても腸が煮え返ります。それにとっても気持ち悪い奴でもあります。
「フレアさんはどうやって戦われたのでしょうか? やっぱり剣ですか?」
「剣は役に立ちませんでした。でも木ですからね。火を着けて燃やしてやりました。犬や鳥のおばけもめんどくさい奴らでしたよ」
「鳥のおばけですか?」
ミカエラさんがやはり不思議そうな目をする。もしかしたら、小鳥とかを想像していませんか? 小鳥も巨大にしたら、十分に恐ろしい姿と仕草になりますよ。
「鳥もどきです。そいつらはその黒娘が全部退治してくれました。それに鳥もどきは、知らないうちに食べてもいましたね」
「お化けを食べたんですか!?」
「はい。食べただけじゃないですよ。踊りも作りました。でもこれはウケなかったんですけどね」
それについては今でも謎です。気が付くと、ミカエラさんは目を大きく開きながら、私の話を真剣に聞いている。
『白蓮は、百夜は、みんなは無事だろうか?』
そしてマリ、実季さんには本当に悪いことをした。私が居なかったら、この世界で侍女になんてなることなく、彼女は城砦の一流の冒険者として、日々を間違いなく過ごせていただろう。
「とってもすごい妹さんだったんですね」
「はい。いっぱい、いっぱい守ってもらいました」
そう告げた私の目から、思わず涙が流れそうになる。
「ああ、私も生まれ変わったら、そんな冒険が……、ごほ、ごほ、す、すみません、ごほ、ごほ……」
ミカエラさんは慌てて口に手をやると、咳を抑えようとした。だがそれが止まる気配はない。咳だけではなく、額にも大粒の汗が滲み出ている。まずい。きっと何かの発作だ。ドミニクさんを、いや、エミリアさんを呼んで――。
『ああああ!』
その時だった。何かが私の手に触れた。同時に無数のナメクジが体の内側を這い回る様な、そんなおぞましさが全身を駆け巡る。この感触は……、神もどきに触れた時の感触だ! でもこれは前世のもののはずでは!?
慌ててミカエラさんの手を握りしめていた、自分の腕に目をやった。そこにはかつて前世の湖畔で見たのと同じ、あの黒光りする触手が、波打ちながら私の腕を上って来ようとしている。
それだけではない。それはミカエラさんの全身を、真っ黒な無数の手となって、まるで嬲るように纏わりついている。
「離れろ!」
どれだけおぞましいかなど関係ない。両手で彼女に纏わりつく、無数の黒い手を払った。だがどんなに払おうとしても、私の手とじゃれあうかの様に渦を巻くだけで、離れようとはしない。そしてミカエラさんの体から滲み出て来てはその数を増していく。
「きゃあああ!」
ミカエラさんの口から悲鳴があがった。その口からひときわ大きな黒い塊が湧き出ると、蛇が鎌首を上げるみたいに、触手を持ち上げて見せる。間違いない。こいつはあの神もどきだ。そして湖畔の時と同様に私を求めている。
私はこちらに取りつこうとした触手を避けると、床を転がって暖炉へと向かった。そこにある半分焼けた薪を手に取って、床伝いに伸びてきた触手へと向けてやる。その赤い炎が触れると、触手は黒い霧となって四散した。この世界の神もどきも、前世の神もどき同様に火には弱いらしい。
「どうした!」
鋭い声と共に、背後で扉が開く音が響いた。振り返ると、ドミニクさんをはじめ、ドロレスさんにミカエラさんが、部屋へと飛びこんで来たのが見える。
そしてまるで何かに掴まれたみたいに体を痙攣させるミカエラさんと、彼女に向かって薪を構える私の姿を見て、あっけにとられた顔をした。
「何をやって――」「エミリア、すぐに彼女を――」
「待ってください!」
私はみんなに向かって叫んだ。どうやら前世同様、みんなには神もどきの触手は見えないらしい。
「ドミニクさん。彼女は、ミカエラさんは病気なんかじゃありません!」
「なんだって!?」
「神もどきです。そいつに憑りつかれているんです!」