先輩
「はあ?」
南区が化け物だらけだと告げたエドガーの警告に、ナターシャが呆れた様な声を上げた。
「やっぱり見えていないんだな!? すぐに――」
そう声をあげたエドガーの顔に、今度は棒付き飴が飛んで来た。
「おい、何をするんだ!」
「あんたね。いくら私との実力差があるからって、そんなハッタリをかまさないでくれる?」
「ハッタリなんか――」
自分が目にしているものを説明しようとしたエドガーに、ナターシャがつかつかと歩み寄った。
パン!
そして乾いた音が二人の間に響く。エドガーはびっくりした顔で、ナターシャに張られた頬に手を添えた。ナターシャは張り倒した自分の手も痛かったのか、上着の裾で掌をこすっている。
「あのね、ひよっこさん。あんたの薄っぺらい虚栄心なんかより、『背中に目を持つもの』をヘルベルトのガキに仕掛ける方が先よ。そうすれば王妃様の行先も間違いなく分かって、黒曜の塔の面子も保てる」
ナターシャはそう告げると、上着のポケットから取り出した、新しい棒付き飴を口に放りこんだ。
「それにヘルベルトのガキだって、一応は第六王子の護衛を任されるだけの実力はあるわ。普通にやったんじゃ、こっちが監視を付けた事ぐらいすぐにバレる。王妃様の耳に入ったりしたら、やっぱり塔の面目は丸つぶれね」
「そ、それはそうだけど……」
エドガーはそう口ごもりながら、ナターシャが何かを言外に伝えようとしていることに、やっと気が付いた。
「分かった。こちらは何をすればいい」
「使い魔はもちろんだけど、こちらにも最上級の紛れをかけるわ。そうすれば間違ってばれた時でも、それがどこに繋がっているのかは隠し通せる。穴の維持をお願い。あんたも『大足』の二つ名持ちなんだから、そのぐらいなら出来るでしょう?」
そう告げるや否や、ナターシャの腕が大きく振り上げられた。その手から粉の様に細かな白砂が、真っ黒な床石の上へと広がる。そしていつものピンク色の棒とは違う、銀色の細い杖で、砂の上に複雑で細かな文様を、目にも止まらぬ速さで描いていく。
エドガーは額から汗を流しつつ、ナターシャから引き継いだ穴の維持に全力を傾ける。そして同時に、そのあまりにも美しい幾何学模様で描かれていく陣を、引き込まれる様に見つめた。
普段、ナターシャが何かの術を唱える時、それがいつ行われたのか全く分からないほどの一瞬で、召喚を終えてしまう。それもかなりの手練れと呼ばれる者たちでも、時間をかけて陣を描き詠唱を唱えないと、とても呼び出せない高度な術をだ。
それを簡易陣で一瞬で呼び出すなんてのは、普通の術者なら自殺をするのに等しい。いや、自殺よりも遥かにひどい結末になる。
そのナターシャが時間をかけて陣を描き、詠唱を唱えようとしている。その陣はあまりに複雑で、それを構成する文様が何を象徴しているのか、エドガーにはとても読む事など出来ない。
それでもこれが紛れ、他の術者からこちらを隠すためのものであること。普通なら、多くの魔法職がよってたかって、数日掛けて組み上げるようなものだという事ぐらいはエドガーでも十分に理解出来た。
「――あなたの内に我の魂の存在を収め給え」
術の詠唱を終えたらしいナターシャが、そっと杖の動きを止めた。冬だというのに、その額からは汗が流れ落ちている。ナターシャは小さくため息をつくと、新しい棒付き飴を取り出して、それを口へと放り込んだ。
「とりあえず紛れは張ったわ。間違いなく誰もこちらを覗けはしないけど、強すぎて長くは持たない」
ナターシャの言葉に、周囲を見回したエドガーは言葉を失った。
「これが紛れ?」
エドガーの周りでは絵の具を水に流し込んだ様な不気味な色の世界が、ぐるぐると動きながら辺りを包んでいる。その向こう側にぼんやりと星振の間は見えているが、それはまるで万華鏡を覗いたみたいに、バラバラの断片に見えた。
「初めて見た? これが最上級の紛れ、『聖母の子宮』よ。もっとも私たち二人を隠すだけだから、大したことはないわ」
エドガーはナターシャの「大した事はない」という台詞に、唸り声をあげそうになった。どこが大した事はないのだろう。空間の位相自体を捻じ曲げるような、とんでもない奴を召喚している。
「それと、さっきはごめんなさい。エドガー、あなたには見えるのね?」
そう告げると、ナターシャはエドガーの頬にそっと手を添えた。ナターシャの口調には、先ほどまでのエドガーを小ばかにしたような響きはない。そして水色の瞳で、エドガーをじっと見つめた。
「見えるんでしょう?」
「えっ?」
その瞳の美しさに、エドガーは答えるのを忘れていた事に気がついた。
「ああ、見えるよ。真っ白なトカゲのお化けみたいなやつが、そこら中を徘徊している」
「白血だ……」
そう呟いたナターシャの声にも、いつものぶっとんだ感じは全くない。
「エドガー、何度も言ったはずよ。この世界で物知りになるということは、寿命が短くなることと同じだって」
「ああ、そうだったな」
「あなたが見ているものはそれの最たるものよ。おそらくだけど、あなたの目は別の何かの目に繋がっている。エドガー、それがあなたに見えて、私には見えないもの、いや、見てはいけないものを見せている」
ナターシャの言葉に、エドガーは思わず自分の目に手をやった。そして初めて星振に己の魂を同期させて以来、何度も見ている夢の事を思い出す。
それは間違いなく悪夢で、同じものだとは分かっているのだが、目が覚めると何も覚えていない。ただ誰かが自分の事を、「おもちゃ」と呼んでいた気がするだけだ。
もしかしたら、ナターシャが言う別の何かとはその悪夢のことだろうか? 得体の知れない恐怖に、エドガーの体が震えそうになる。
「今は紛れが私たちの会話も、その姿も隠している。たとえ腕の力を使っても、そう簡単にぶち抜けたりはしないわ。だけど理由もなしに使ったりしたら、間違いなく二人とも療養所送りになる」
「それじゃ、君まで巻き込む――」
「今回は第3王妃の件で、十分な理由があるから大丈夫よ。だから今のうちに言っておきたいの……」
そう告げると、ナターシャはエドガーの胸にそっと片手を置いた。その掌の暖かさに、エドガーは自分を覆っていた、得たいの知れない恐怖が消えていくのを感じる。
「この世界も私たちの魂も、私たちの目から見えない何かに支配されている。私たち魔法職はその支配者のほころびを使って、僅かな力をふるっているだけよ」
「支配だって!?」
「そう。それに気付いたものがいないか、監視している者もいるし、それを覆そうとしている者もいる。だけどそれらは私達のようなちっぽけな存在の、はるか向こう側に居るのよ」
「ナターシャ、君はそれが何者か知っているのか?」
「知らないし、知りたくもない」
「それじゃ、僕なんかは既に処分されていても、おかしくはないはずだ……」
「そうね。今まで通りなら、すでに療養所送りになっているはずよ。それが私の所に回ってきた。間違いなく何かの秘密がある。それに星振に一度触れた者は、二度と普通の生活になんて戻れないことぐらい知っているでしょう?」
「それも単なる噂じゃないんだな……」
エドガーの呟きに、ナターシャが頷いた。
「だからここでは、誰も彼もが無口になるのには理由がある」
「決して君以外の前では、君の前でも、事前準備なしに不用意なことは言うなという事か?」
「そうよ。私はあなたの相棒。だから私はあなたの事を守るし、あなたに私の事を守ってもらう」
そう少しはにかんで答えると、ナターシャは年相応の若い女性らしい、柔らかい笑みを浮かべて見せた。
「君は僕なんかに守ってもらう必要は――」
「何言っているのよ。あんただって男なんでしょう? かよわい女性の盾ぐらいにはなりなさいよね!」
エドガーもナターシャに対して、心からの笑みを返した。そして初めて見る彼女の素の表情に、自分の心臓が高鳴るのを感じる。
「もちろんだよ。盾ぐらいにはなるさ。なにせ君はナイスバディな僕の相棒――」
この息苦しくなるような、いたたまれないような、いや、そのどちらとも違う、この妙な気分は一体なんなのだろう。そんなことを考えながら、エドガーが言葉を続けようとした時だった。
『おもちゃ、おもちゃ。私のおもちゃ……』
不意にエドガーの中に小さな黒い影が現れた。小さな少女らしき影だ。それはニヤリと笑うと、変な歌を歌いながら、エドガーの心をいきなり覆いつくそうとする。
「や、やめてくれ!」
エドガーの口から恐怖の叫びが上がった。
「エドガー!」
ナターシャは崩れ落ちたエドガーから、慌てて穴の同期を引き継ぐと、思考の並列化で紛れの維持も続けた。そして床に倒れているエドガーへ腕を伸ばそうとする。だがその体が凍りついた様に止まった。
「おじゃま虫は、おじゃま虫!」
エドガーが、まるで小さな女の子にでもなってしまったかの口調で、いきなり謎の言葉を喋り出した。
「誰?」
ナターシャは素早く杖を振り上げると、床からゆっくりと立ち上がろうとしている、先程まではエドガーだった存在に身構えた。
「これは私のおもちゃなの。でも今は特別に許してあげる。あんたみたいな羽虫程度の小物なんかより、もっと面白そうなのがいっぱい、いっぱいいるんですもの!」
そう告げると、ナターシャに対してニヤリと笑って見せた。
「うんうん。いっぱい、いっぱい!」
そしてよく分からない鼻歌を歌いながら、星振の示す穴の中へ手を入れては、ナターシャの目には見えない何かを握り潰していく。
ナターシャは杖を掲げた。母から譲り受けた杖。そして今までは、それだけが自分の拠り所だったもの。だが今は違う。自分にはもっと大事なものが目の前にある。
「エドガー、あなたの片腕ぐらいはもらうかもしれない。だけど私はあなたを助ける」
ナターシャの声に、もとはエドガーだったものが振り返った。その口はいつの間にか真っ赤な鮮血に染まり、さらには得体のしれない白い鱗がついた皮までもが、こびりついている
「うん? まだそこにいたの? 邪魔だから――」
「黙りな化け物。何で私が『斧』の二つ名を持つのか、今から教えてあげるわ!」