うれし涙
「実季さん! あなたは、私の知っている冒険者の実季さん?」
「はい、お姉さま。はっきりと思い出しました。私は貴方の弟子であなたの剣です。私はこの街で『マリアン』という名前の女の子です!」
「私も今、分かった。私は、『フレデリカ・カスティオール』、侯爵家の長女。と言っても腹違いのお姉さんがいるから本当は次女だけどね!」
「貴族のお嬢様なんですね。流石はお姉さまです!」
いや実季さん、感心するところが違うと思います。
「年は?」
「今年、14になります」
「私と同じという事ね」
記憶の中では、彼女は私より一歳半ほど年下だった。という事は……。
「やはり私達は死んで遠いところ、ここに来たという事でしょうか?」
「そうかも。でも違うかも。正直なところよく分からない。でも実季さん。私達は戻らないといけません!」
思い出したのだから……、それに待っている人達がいるのだから!
「はい、お姉さま」
「遠き御蔵のいます御方にて、闇を集めしその体を――」
背後から聞きなれた声が聞こえてきた。まずい、すぐに止めないと!
「ロゼッタさん!」
私は実季さんの下にあった体を起こすと、背後に向き直った。堤防の上に居る黒い服を纏った姿が、手を上に掲げて、既に呪文を唱え始めている。彼女の掲げた指先に、目に見えない何かが集まろうとしていた。
「その穢れなき眼で――」
ちゃんと説明しないとだめだ。
「違うんです! この方に救って頂いたんです。土手から落ちた私をこの方が身を挺して守ってくれたんです。命の恩人なんです!」
私の最後の言葉に彼女がやっと反応した。その手をすっと下げると、こちらに向かって土手を降りてきた。
「呪文を唱えている最中に、大声を上げないでください。それがどれだけ危険なのか、分かりますか?」
パン!
乾いた音が辺りに響く。その音は堤防に反射したのか、私の耳にはとても大きな音に聞こえた。私は彼女に打たれた左頬に思わず手をやると、隣にいる実季さんに目配せした。ここでロゼッタさんに掴みかかれでもしたら大変だ。
「ハンスから、馬車の側から離れないように言われていたはずです。周りの者の言いつけを守れないとは、どういうことです?」
「ロゼッタさん、本当にすみませんでした」
私はロゼッタさんに深く頭を下げた。
「どうして離れたんです?」
「帽子が風に飛んでしまって……」
「帽子などはまた贖えばいい話です。貴方の身はそうはいかないのですよ」
「畜生、放せ!」
「小僧うるさいぞ。」
背後ではさっきの殿方、いや、やんちゃ坊主がハンスさんに襟首をつかまれていた。ハンスさんから何かされたのか、今はぐったりと両手を下におろしている。
「お嬢様、馬車の手配がつきましたので、館に戻ります」
「あの、ロゼッタさん!」
「何ですか? これ以上、私に何か迷惑を掛けるようなら許しませんよ」
「こちらはマリアンさんです。私を助けて頂いたので、是非にお礼をしたいのですが、館まで一緒に来て頂く訳には、いきませんでしょうか?」
私の台詞に、ロゼッタさんが少し考え込んだ表情をする。
「本日はお嬢様を助けていただきまして、ありがとうございました」
ロゼッタさんはそう告げると、実季さん、もといマリアンさんへ頭を下げた。
「私はカスティオール家で、こちらのフレデリカお嬢様の家庭教師をしています、ロゼッタと申します。こちらの街にお住まいでしょうか?」
ロゼッタさんが、堤防の先の方を指さす。
「はい」
「残念ながら、私の一存では、マリアンさんを館に招待することを、決める事は出来ません。後日、お礼にお伺いさせて頂きます。マリアンさんという名前で尋ねれば、分かりますでしょうか?」
「はい」
「では少ないですがこちらをお受け取り下さい。そちらのお召し物が汚れてしまった分です」
「とんでもありません。このようなものは受け取れません!」
「マリアンさん、どうかお持ちになってください。お願いします」
私は実季さんに頭を下げた。彼女がびっくりした顔で私を見る。それはそうだろう。立場が逆なら私でも同じことを言う。でもお金はいつでもどこでも、大事なものだ。
「お……お嬢様。分かりました。ありがたくいただかせていただきます」
実季さん、もといマリアンさんが私に頭を下げる。いや、下げなくていいと思いますけど……。堂々ともらってください。そもそも私が自分で稼いだお金でもありません。
「お嬢様、日も大分暮れてきました。早く戻らないとコリンズ夫人が心配されます」
ロゼッタさんは私にそう告げると、土手に向かって歩き始めた。気が付くとハンスさんと、あのやんちゃ坊主の姿は見えなくなっている。もっともハンスさんからは教訓という物を、十分にもらった事だろう。
『待機』、『戻る』、『速やか』
私は後ろ手で、前世での記憶を元に、実季さんに手信号を送った。前世で私が、冒険者をやっていた時の連絡手段だ。後ろを振り返ると、マリアンさんの手が動くのが見えた。
『了解』
間違いない。この人は私の知っている実季さんだ。私の『組』のそして私の親友の実季さんだ。思わず私の目から涙が流れた。いや涙だけではない、嗚咽が漏れる。これを止める事など出来ない。出来る訳がない。
『良き狩て手であらんことを!』
後ろ手で彼女に手信号を送る。これは私達冒険者のあいさつであり、誇りだ。ロゼッタさんがこちらを見ている。振り返ってみる事は出来ないが、彼女もきっと私にこれを返してくれている。
今の私がどうして、遠いところに来る前の事を思い出したのかは分からない。
もしかしたら神様が私にとっても意地悪した分を、今頃になって利子をたっぷりつけて返す気になったのかもしれない。気まぐれでも何でもいい。私はそれに感謝する!
「怖かったでしょう。お側を離れて申し訳ありませんでした」
私の涙を見たロゼッタさんが、いつもは表情にとぼしい顔に、少し済まなそうな表情を浮かべる。
『違いますよ、ロゼッタさん……』
私は心の中で彼女へ声をかけた。これは悲しい涙ではないんです。ましてや怖かったから泣いているんじゃないです。
これは、うれし涙というやつですよ!
* * *
カストロは左頬の痛みに目を覚ました。明日はもっと腫れるかもしれない。あの後、戻ってきた時、この顔を見た女達に笑われたのを思い出し、猛烈に腹が立ってくる。
それにせあのどこかのお嬢さんらしい子を、味見できるかと思ったのに。
カストロはは廃材をくみ上げて作った、寝台と呼んでいい物か分からないものから体を起こした。隙間だらけの壁板から流れてくる、露を含んだ夜風に体が震える。
もう初夏というのに、夜はまだまだ冷えるという事か? 手洗いに行って、水を含んだ布で少しは頬を冷やそうかと思った彼は、寝台の先に何かがいるのに気が付いた。
何だろう?
黒い塵の塊のような、いやもっとどろりとしたものだ。それはゆっくりと寝台の上へと登ってくると、染みがいっぱいある、薄手の布の上へと這いあがってくる。
何だ、塵みたいな奴なのに、なんて重いんだ!
カストロは心の中で叫んだ。本当は口に出して助けを呼びたいのだが、口からは何も出てこない。
それは這うように、転がるように、布の上を進むとカストロの口をふさいだ。今のカストロは叫びをあげられないだけじゃ無い。
息をすることさえ出来なかった。
* * *
ロゼッタは堤防の上で、夜風に乱れた前髪を手櫛で直すと、溜息を一つついた。続けて手にしたステッキで、地面に書いた何かを丁寧に足で消していく。この手の仕事は後始末こそが大事だ。
「王都で無許可に術を使われると、色々と迷惑なのですが?」
ロゼッタは振り返ると、月明かりも無い暗闇の中に、うっすらと浮かび上がる影を見つめた。
「許可はいただいております。カスティオール侯爵家に仇為した者に対する、私的制裁権に基づく行為です。必要なら法務省にお尋ねください」
「尋ねる必要はありません。分かっていますよ。カスティオールでも、昔得た特権と言うのはまだあるということですよね?」
そう言うと、男はロゼッタに向って肩をすくめて見せた。
「家を訪ねて短刀でも小刀ででも、腹の一つも刺せばいいではないですか? 目立つのが嫌なら、そちらの館の地下室あたりに、招待すればいいだけでは?」
影の問いかけに、ロゼッタは何も答えない。
「あんな小物にすらならないごろつきをやるのに、魔法職が出張ってきて、それも『昏き者の御使い』を差し向けるなんて言うのは、黒虫一匹殺すのに騎士団を差し向けるようなものじゃないですか?」
無言のロゼッタへ影が言葉を続けた。だが何も答えないロゼッタに、今度は大きなため息をついて見せる。
「ロゼッタ、こんな夜に呼びつけられる、私の身にもなってもらいたいな」
「それは大変申し訳ないことをしましたね、アルベール卿。今晩は貴方の担当だったのですね」
「不幸中の幸いかもしれないな。どこかの駆け出しが、間違って貴方に問答無用で挑んだりしたら、とんでもないことになっている。無知と無謀ほど恐ろしいものはないからな」
「そんなことはありませんよ。私は魔法職崩れの家庭教師にすぎません、アルベール主任執行官殿」
「君に謙遜なんて似合わないな。それでももっと穏やかな術を使ってくれると……」
ロゼッタは男の台詞を、最後まで聞くことなく踵を返すと、堤防の先へと歩み始めた。背後からは、再び大きなため息が聞こえてくる。
『穏やかな術?』
ロゼッタは心の中でつぶやいた。何を言っているのだろう。あの愚か者達は、私の一番大切な人に涙を流させた。
出来る事なら穴の向こうに、永遠の忘却の彼方へ送ってやっても飽き足らないぐらいなのに……。殺してやっただけでも、私の慈悲に感謝すべきだ。
ロゼッタは土手の陰で待っていた馬車へ乗り込むと、御者席の裏の板を杖で小さく叩いた。
「ハンス。少し急いで頂戴。コリンズ夫人の小言も十分に聞きましたし、今夜は少し疲れました」
「はい、ロゼッタさん」