そっくり
その声に、マリアンへ向かおうとしていた執事が、慌てて跪く。そして乾いた靴音と共に、赤いドレスを着た女が、執事の前へと進み出た。
裾から覗く白い足。片手を当てた腰のくびれ。その全てが、どんな娼婦よりも、女であることを主張している。そんな印象を与える姿だ。
「それに比べてリコ、お前の方はなんて様なんだい?」
女は跪く男を見下ろすと、呆れた様に声を上げた。マリアンはそれが誰なのかよく分かっている。王都の顔役の一人、鮮血のアルマ。ロイスの命を奪おうとしている張本人。
マリアンはその無防備な背中を前にしながら、執事姿の男が放ってくる殺気に、動くことが出来ない。
「お嬢様、こちらに来るのはあまりにも危険かと存じます。ここは私の方で対処しますので、すぐに北岸へとお戻りに――」
ドン!
鈍く低い音と共に、アルマの赤いハイヒールが、男の腹へとのめり込んだ。
「火をつけられたぐらいで、頭に血が上っている様な奴に、どうしてこの場を任せられるんだい?」
「決してその様なことは――、ぐぇ!」
男の腹に再びヒールの先がのめり込んだ。たまらず地面へと倒れ込む。それでも顔を上げると、アルマに向かって口を開いた。
「ですが、お嬢様の安全こそが――」
「リコ、何を言っているんだい。この世界に安全な場所なんてどこにもないよ。それよりも、私の大事なおもちゃが壊されていないかどうかの方が、よほどに心配じゃないか?」
そう言うと、アルマはゆっくりとマリアンの方を振り返った。そして鼠を見つけた猫を思わせる目で、マリアンをじっと見つめる。
「やっと会えたね。確か名前は『マリアン』だったかい? それに私が誰か、よく分かっているみたいじゃないか?」
「ええ、分かっているわよ。アルマのおばさん」
その視線に圧倒されそうになりながらも、マリアンは必死に声を絞り出した。ここで怯んでしまえば、すべてがお終いになってしまう。
「お嬢さまに対して失礼な――」
「リコ、お前は口を閉じてな」
アルマは声を上げた男の頭を、ハイヒールで踏みつけると、厚化粧の顔にニヤリと笑みを浮かべて見せた。
「そうだったね。あんたから見れば、私はまさにおばさんだ。何せ私はあんたの母親、ミランダとは姉妹みたいな付き合いだったからね」
「姉妹? 足手まといの間違いじゃなくて?」
「フフフ。その台詞、まさに若い時のミランダを思い出すよ」
マリアンの台詞に、アルマはお腹に手をやって含み笑いを漏らした。だが急に笑うのをやめると、マリアンの瞳をその青い目でじっと見つめる。
「でもね、あんたがそっくりなのはその台詞だけさ。あんたはミランダと違って、中身がない。信念ってものがないね。あんた自身がよく分かっている。誰かの真似でもしているだけなんだろ?」
何か言い返してやりたいのだが、何も言葉が出てこない。マリアンは無言でアルマを睨みつけた。
「本当のあんたは、そこに転がっている男なんて構わずに、さっさと逃げ出したくてしょうがないのさ。それが一番いい手だって事も、よく分かっている」
そう告げると、アルマは地面に横たわるマルセルの体を指差した。
「でもね、ミランダは仲間を決して見捨てたりはしなかった。いや、考えもしなかっただろうね。まあ、女の私でも惚れそうなぐらいにいい女さ。でもあんたはそうじゃない」
「黙れ!」
マリアンは叫んだ。相手の挑発だと分かっていても、母と比べられ、勝手な事を言われるのは我慢出来ない。
「私は母じゃない!」
「違うんじゃない。なれないんだよ。あんたはミランダにはなれない。あんたはね、あんたがおばさんと呼んだ、この私にそっくりなのさ」
そう告げると、アルマは吹き抜ける風に乱れた黄金色の髪を、白く長い指でかきあげて見せた。
「誰があんたなんかと!」
「そうかい? 私もミランダみたいになりたいと思って、真似をしてみた。だけどどんなに真似をしても、ミランダにはなれない。今のあんたと同じだったよ」
その言葉に、マリアンの心に何かが灯った。怒りだ。
「違う、絶対に違う!」
マリアンは渾身の力で地面を蹴ると、アルマに向かって跳躍した。だがそのまま空中でピタリと止まってしまう。
慌てて体を見ると、腕や足に黒い何かが絡みついていた。そこから赤子の様に小さな手がいくつも現れ、それらが一斉にマリアンの体を這い上ってくる。
「あああああ!」
マリアンの口から、悲鳴にすらならない苦悶の声が上がった。
「ハハハハハ!」
そして誰かの高笑いも聞こえてくる。それはアルマが口に手を当てて笑っている声だった。
「そう無下にするんじゃない。みんな私のかわいい子供達さ。それにこの子達はね、ロイスの白い涙から生まれたんだよ。だからあんたのことが、とっても大好きなんだ」
その言葉通り、無数の黒い手が、じゃれる様にマリアンへ纏わりつくと、その体を地面へと押し倒した。誰かがこちらへと近づく音が聞こえる。マリアンの視界の先に、真っ赤なハイヒールと、白く艶めかしい足が現れた。
「フフフ、母親の私よりも、あんたになつくだなんて、ちょっとばかり焼けるね」
再びアルマの笑い声が響く。そしていくつもの黒い手によって、マリアンの体はアルマの前へと晒された。アルマはその体を嬲る様に、頭の先からつま先までをじっくりと眺める。
「ああ、若い体はいいね。やっぱり張りが違う」
そう呟くと、今度は建物の間から覗く空へ、その視線を向けた。
「リコ、どうやら陰気臭い連中が放った、例のやつらだけじゃないね。それよりも遥かにめんどうなのが、こちらに気が付いたみたいだ」
「ですから、今すぐにでも――」
「リコ、お前の言いたいことは十分に分かっているさ。どうやら連中を抑えるのはもう無理な様だ。まさに潮時というやつだね。こちらはさっさと屋敷に戻って、この子の歓迎会といこうじゃないか」
空を眺めながらそう答えると、アルマは背後で跪く、男の方を振り返った。
「お前も痛がっているフリは十分だろう? この子と私を今すぐ隠しな」
「はい、お嬢様」
アルマの言葉に、執事姿の男は素早く立ち上がると、纏わりつく黒い手ごと、マリアンの体を肩に担いだ。その顔にも手にも、あれだけの炎に焼かれた跡は何もない。
「は、放せ!」
そう叫んだマリアンに対して、アルマが不思議そうな顔をして見せた。
「何か勘違いをしているんじゃないのかい? 私はね、あんたを救いに来てやったんだよ。ここは、この世界の全てが自分のものだと思っている、誇大妄想な連中の遊び場なんだ」
「殺せ! 今すぐ殺せ! そうしないと、必ずあんたを後悔させてやる!」
「殺す? 馬鹿な事を言うんじゃないよ。分かっただろう。あんたは間違いなく、ミランダより私に似ているのさ。なにせあんたは私と同じ、『器』なんだよ。あんなもどきとは違う、本物のね」
アルマは必死にもがくマリアンの頬に、白く長い手をそっと添えると、足元の方へと視線を向けさせた。そこにはドス黒い血を流して、地面に倒れているマルセルの姿がある。
その姿を見ながら、マリアンは自分の無力さに、血の味がするほど唇をかみしめた。そしてそれしか出来ない。
『お姉さま、ロイス、ごめんなさい。私は今度も、今度も無力でした……』
だがマリアンの後悔の言葉は、口から洩れることなく、闇がマリアンの意識を覆いつくした。
冬の木枯らしが、朽ちかけた建物の間を吹き抜けていく。辺りに人の気配はない。いや、うつぶせに倒れている男の姿だけがある。
その肌の色は、灰色の地面と、もう見分けがつきそうにない。誰が見ても死体、それも既に腐乱しかけようとしている遺骸にしか見えないだろう。
だが、指の先が僅かに動いた様に見えた。吹く風にもてあそばれたわけではなく、間違いなく何かの意志を持った動きだ。それは小さく震えながらも、倒れている地面に爪を食い込ませた。
「ど、溝鼠を、な、なめるんじゃない……」
その体から小さな呟きも漏れる。それは誰に聞かれることもなく、木枯らしとともに、朽ちた建物の間へと消えていった。