執事
マリアンは背後に感じた気配に、自分の剣がそれを捉えるのを確信した。だが何の手応えもない。短剣の切っ先が小さく風切り音を立てただけだ。
『何処にいる!』
マリアンは素早く短剣を前に掲げると、体の重心を落として辺りの様子を伺った。間違いなく相手の気配は自分のすぐ背後にあったはずだ。
「礼儀がなってないですね。流石は灰の街の出身という所でしょうか?」
横手の方、思わぬ所から再び声が響いた。十歩ほど向こうの廃屋と呼べそうな建物、その裏口に細身の執事服を着た男が立っている。
マリアンは短剣をそちらへと向けると、今度は慎重に相手の様子を伺った。どうしてこちらの動きが読まれたのかは分からないが、間違いなくアルマの手の者だろう。
男はおもむろにつば広の帽子を胸元へ掲げると、マリアンに向かって頭を下げて見せた。その仕草は貴婦人への挨拶の如く、礼儀正しく丁寧だが、そこから感じられるのは敬意などではない。別のドス黒い何かだ。
「どなたかしら? どこかでお会いした覚えはないのだけど?」
男の言葉に、マリアンは平静を装いつつ答えた。
「ええ、こうしてご挨拶させていただくのは初めてだと思います」
男が慇懃に頷いて見せる。相手はこちらの事をよく知っているらしい。それに相当な手練れでもある。最初の一撃は完全に見切られていた。いや、こちらの剣先の動きだけでなく、意識そのものが読まれている。しかしすぐにこちらを害する気はないらしい。
付け入る隙があるとすればそこだ。やっかいな相手ではあるが、相手は一人だ。自分に意識を向けられれば、ランセルが何か突破口を見つけてくれるかもしれない。
マリアンはそう考えをまとめると、男との間合いを図りつつ、ランセルと連携が容易な位置へ移動しようとした。
ドン!
そこへ向けて、一歩を踏み出そうとしたマリアンの耳に、何かが地面へとぶつかる音が響いた。それはランセルが杖を手にしたまま、地面へと倒れ込んだ音だった。
「ランセル!」
マリアンの口から、思わず叫び声が漏れた。
「こ、ここは、私が――」
マリアンの呼びかけに、ランセルは地面に腕をつくと、無理やり体を起こそうとする。だが口からどす黒い血を吐くと、すぐに地面に崩れ落ちた。倒れたランセルの体から、赤黒く見える染みが地面の上へと広がる。
『どういうこと?』
あまりに突然の出来事に、マリアンは当惑した。目の前の男に気を取られている隙に、どこかから弩ででも狙撃されたのだろうか?
慌てて辺りを伺うが、目前の男の他には何の気配もない。ランセルの体に矢の様なものは見当たらないし、弩を放つ音も無かったはずだ。ならばこの男の仕業という事になる。
相手はランセルと同じ、魔法職なのだろうか? マリアンの背中を冷たい汗が流れる。魔法職が最大の力を発揮するのは、入念に準備を行った上での待ち伏せだ。自分たちは不用意に、男の罠に飛び込んでしまったのだろうか?
「失礼ですね。私は魔法職などと言う、下賤なものではありませんよ」
こちらの頭の中を覗いたとしか思えない呟きと共に、低い風切り音が耳に響いて来る。マリアンはとっさに地面に転がってそれを避けると、そのままランセルの方へ駆け寄ろうとした。だが男がその行く手を塞ぐ。
マリアンはランセルの側に向かうのを諦めると、短剣の柄を腰元に引いて、その切っ先を男に向けた。
「先程の蹴りを避けるとは、やはりただの小娘ではありませんね。それに焦っているはずなのに、闇雲にこちらへも来ない。でも相打ち狙いとは芸がありませんよ。それとも全て諦めましたか?」
男がマリアンに対して肩をすくめながら、さも感心した様な、それでいて馬鹿にした様な声を上げた。
「あなたこそ何者なの? ただの侍従では無さそうね」
「あなたの様な小娘に名乗る必要は……」
男はそこで言葉を切ると、痩せ気味の顔に苦笑らしきものを浮かべて見せた。
「これは大変失礼致しました。あなたのお母さまの存在を忘れていました」
男はマリアンに向かって侍従服の裾を引くと、背筋を伸ばした。
「マリアンお嬢様、主人があなた様をお屋敷に御招待したいと申しております。ついてはお迎えに上がらせて頂きました」
そして芝居掛かった仕草で胸元に手を当てると、それをマリアンに向かって差し出して見せる。
『完全に舐めているのね』
マリアンの心に焦りだけでなく、仄暗い怒りも湧き上がって来る。だが感情で何とかできる相手ではない。マリアンはそれを必死に抑えた。ともかくこの男をなんとかしないと、フレデリカの元にたどり着くことも、ロイスやランセルの命も救えない。
「ランセル、すぐにこいつを――」
「おや、人の事を気にしている余裕などありますか?」
そう告げるや否や、マリアンの視線の先から男の姿が消えた。マリアンはとっさに自分の左側を腕と短剣でかばう。そこにまるで丸太ででも殴られたような衝撃が走った。マリアンの力では、とてもそれに耐える事など出来ない。
その一撃にマリアンの小柄な体は、砂塵を巻き上げつつ、まさに鞠のように地面を転がった。
「気配は消したつもりだったのですが……。中々に鍛えられているようですね。良い師にでも巡り逢いましたか?」
マリアンの頭の上で男の声が響いた。その声は丁寧だが、感情を感じさせぬ冷酷な声だ。マリアンは自分の左腕に走る痛みに耐えながら、体をひねってなんとか男の間合いの外へと出た。腕だけで庇っていたら、腕の骨が折れていたことだろう。だが防御以前に男の動きが全く読めていない。
一対一の命の取り合いでは、相手の動きが読めるかどうかにその全てが掛かっている。その為に視覚、聴覚だけでなく、相手の呼吸や間合いを肌で感じつつ、次の動きを決めるのだ。
だがこの相手からは視覚、聴覚、それ以外も含めて全ての情報が食い違っている様に感じられた。いや、相手がこちらにそう仕向けているのだ。
それを何とか避けられたのは、屋敷に戻ったときにハンスに鍛えてもらっていたおかげだ。それでも咄嗟に防御が出来たに過ぎない。マリアンは冷静にハンスとの訓練を思い返した。
ハンスの動きは目にも留まらぬ速さな訳ではない。だが彼が見せる動きの一つ一つに、耳に聞こえる音の一つ一つにマリアンは混乱した。いつしか相手の動きは目に見えぬ速さとなり、気付いた時には思わぬ所で勝負がついてしまう。
『同じだ――』
間違いない。この男の動きはハンスの動きと同じ、暗殺者の動きだ。相手の仕掛けを待っていてはこちらに勝ち目はない。
マリアンは痛みから意識をそらすために、小さく息を吐くと、みぞおちの下にある黒い靄に語り掛けた。マナ、前世の自分の世界の力。そして黒き森が無いにも関わらず、どういう訳かこの世界でも使うことが出来る力。
靄はマリアンの鳩尾の下で小さく渦を巻きながら、全身へと広がっていく。この靄こそが、相手の意識からこちらを隠す隠密の力だ。相手に注力されているこの状況では、その力は限定的だろう。それでもこちらの動きを隠してはくれるはずだ。
マリアンはマナが自分の体を覆ったのを確認すると、素早く男から離れて、ランセルの元へと駆け寄った。ここからすぐに逃げて、ランセルの手当をしないといけない。
「これが館に侵入できた手品のタネですか?」
男の口から呟きが漏れた。それと同時に、マリアンの体を覆っていたマナが、朝日を浴びた霧の如く四散する。
「この程度のもので、私を何とか出来ると思ったのですか? 小娘の浅知恵とは言え、こちらをなめ過ぎですよ」
マリアンは肩に担ごうとしていたランセルの腕を地面に下ろすと、再び短剣を男に向かって掲げた。この男はただの手練れなんかではない。もっと別の、遥かに危険な何かだ。
「何者なの?」
短剣の切っ先が震えそうになるのに耐えながら、マリアンは男に問いかけた。
「見ての通り、ただの執事です」
男はマリアンにそう答えつつ、執事服の裾を軽く持ち上げて見せる。その態度に、マリアンは男が自分の事など、最初から相手にしていなかった事を思い知った。初めにランセルを襲ったのも、男にとって、マリアンよりランセルの方が危険だったからに違いない。
「彼に何をしたの?」
「彼? ああ、そこに倒れている彼ですか? 彼が倒れたのは私のせいではありませんよ。単に時が来ただけの事です」
「時?」
「あなただって、とっくに気付いていたはずですよ」
男は手を上げると、ランセルの胸元に広がっている血溜まりを指さした。そこに広がっている血は赤黒くどろりとしている。たとえ静脈を切られたとしても、そんな色の血は流れはしない。そして腐肉の匂いも漂ってくる。それはドブや周りの建物ではなく、間違いなくランセルの体から流れていた。
「そんな馬鹿な――」
呻くように声を漏らしたマリアンに向かって、男が薄ら笑いを浮かべて見せた。
「見ての通りですよ。彼の器はもう腐敗し始めている」
マリアンの頭の中を男の言葉が飛びかった。男の言葉はランセルの肉体は既に死んでいると言っている。だけどそんなことはあり得ない。しかしマリアンの理性は、男が事実を述べていると告げていた。
水路で我を失って切りつけた時、ランセルは浅手と言っていたが、自分の手応えは間違いなく深手だった。たとえ浅手だとしても、あの程度の出血で済むはずはない。そしてその体は、地下水路の水に浸かっていたとしても、あまりに冷たすぎた。
「外道! 彼に一体何の術を――」
「術? 事実から目をそらすのはやめなさい。彼はもう死んでいる。正しくは疾うに死んでいたですかね」
「一体どういうこと?」
「ご招待のついでです。特別に教えてあげましょう。彼の肉体はかなり前に、彼がモーガンの所へ向かった時に既に失われているのです」
そう告げると、男はマリアンの顔に驚きが広がるのを見ながら言葉を続けた。
「その体はある人物が彼の為に作った器もどきにすぎません。まあ、こちらが思っていたよりは持ちましたね。それを作った者と、彼の執念には感服致します」
「器? 器ってなんなの!?」
「おっと、少しおしゃべりが過ぎてしまったようです。それはあなたが自分自身に問いかけるべき問題ですよ。それよりも、わが主を待たせるわけにはいきません。今すぐのご同行をお願いいたします」
男がマリアンに向かっておもむろに歩き始める。マリアンは手にした短剣の柄に力を込めたが、逃げるにせよ立ち向かうにせよ、何も打つ手は思い浮かばない。
「ま、魔法職は役にたたない――」
マリアンの耳に呟きよりも小さな声が響いた。
「明かりを、つ、つけるなら、ランプがあればいい……」
「おや、限界のはずなのに、見上げた執念ですね――」
そう告げた男が足元に視線を這わせた。そこにはいつの間にか小さな水たまりがある。そして倒れていたランセルの手から銀色の円筒が男にむかって転がった。
「ギャーー!」
次の瞬間、男の口から奇妙な声があがり、その体が真っ赤な炎によって包まれた。そして地面を転がりながら必死に火を消そうとする。それを見たマリアンは短剣を素早く背中の鞘へ収めると、ランセルの元へと駆け寄った。
「ランセル!」
だが地面に倒れるランセルは何も答えない。
「道具風情が、この私に傷をつけるなどゆるさん!」
マリアンの背後から声が上がった。侍従服からまだ煙を上げながら、男が一歩一歩、こちらへと歩み寄ってくる。普通なら、少なくとも大やけどを負うべきはずだが、男の体にやけどの跡はない。どうやらここで決着をつける以外に方法はないらしい。マリアンは覚悟を決めた。
「ちょっとだけ待って頂戴」
マリアンはランセルにそう告げると、腰から短剣を抜いて横手に構えた。
『倒してやる!』
マリアンの中にもう恐れはない。代わりに、ランセルの魂を侮辱した男への怒りが渦巻いている。
そうだ。あの人だってこの男を決して許したりはしない。それに今の自分は前世の自分とは違う。前世の自分なら、自分が助かることだけを考えていただろう。だけど今の自分は違う。あの人の魂に、恐れを知らぬ魂に触れてこの生を生きている。
「やはりミランダの娘だね。いい度胸をしているじゃないか」
壊れた井戸の影から、女の声が響いた。