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脱出

 マリアンは炎の明かりに視力を奪われないように注意しつつ、辺りの気配を伺った。隣ではランセルが隠し通路を開けるために、水の中に手を入れて何かを探している。


 火を上げていた小舟の大半は早くも水路に没しており、僅かに水上に残っている船首部分だけが、白い煙りと僅かな炎を上げているだけだ。


 火の勢いが弱まったせいか、その向こうから水の冷たさとは違う、首筋の後ろがぞくぞくするような何かが、再びこちらに忍び寄ろうとしているのが分かった。


 その気配に、マリアンの心の中に抑えきれない感情、焦りが湧き上がってくる。ともかくここから早く離れないといけない。それも明かりがあるうちにだ。


「すいませんが、私の方へなるべく体を寄せてください」


 マリアンはランセルの言葉に素直に従うと、その胸元に体を這わせた。ランセルは片腕で軽くマリアンの体を抱くようにしながら、片手を水の中へと伸ばす。そこには先ほど指先で確認した一輪のバラの紋章、カスティオール家の紋章が見えた。


 ガコン!


 何かが外れるような大きな音がしたかと思ったら、マリアンは自分の足元が素早く回転するのを感じた。いきなりであったこともあって、体が横に振られそうになる。だがランセルが腕でマリアンの体を引き寄せた。


 ガタン!


 次に何かがはまるような音がして、足元の岩が急に回転を止める。その勢いに、今度は上半身が振られそうになった。再びランセルの手が伸びて、マリアンの頭の後ろを支える。


「これって――」


「はい。回転扉の様なものです」


「こんな仕掛けがあったのね」


 マリアンはランセルの腕に抱きかかえられながら、辺りを伺った。周りは漆黒の闇で何も見えない。耳に聞こえて来るのはどこかで水の跳ねる音と、ランセルの息遣い。そして自分の心臓の鼓動だけだ。


「ええ、おそらくは貴族たちが、密会やら命を狙われた時の脱出路として作ったのでしょうね。それが今では水の下になって、地下水路からの隠された出口になっているというところでしょうか?」


 腕の力を緩めたランセルがマリアンに答えた。声の響きからして、ここが狭い通路の中であることは間違いない。それに水路から染み出してくるのだろうか、腰下ぐらいまで水があり、確実にこちらの体温を奪っていく。


 自分だけではない。ランセルの体や手も氷の様に冷たく感じられる。ともかく早くここから抜け出さないと、()()から逃げられたとしても、体温を失って倒れてしまうだろう。


「急いでここから出ないと、体が持たないわね」


「ええ、ですがちょっと待ってください。明かりをつけます。こういう時は自分が魔法職でよかったと思いますよ」


 マリアンはそう告げたランセルが、暗闇の中で杖を伸ばしたのを感じた。


「何も見えないけど、大丈夫なの?」


 魔法職は杖で描いた陣の視覚的な補助に、詠唱による聴覚的な補助がないと、術の発動自体が困難なはずだ。


「明かりをつけるぐらいなら、陣抜きでもなんとかなります。いや、何とかしてみせます。まあ、こんな時でもなければ、明かりをつける程度のことに、術を使ったりはしませんけどね」


「魔法職は――」


「魔法職は役に立たない。明かりをつけるならランプがあればいい。相手を倒すなら殴る方が簡単だ――」


 マリアンの台詞を受けて、ランセルが節をつけて歌い始めた。こんな状況ではあるが、マリアンの口元にも笑みが浮かぶ。


「狩りをするのなら、弓があればいい――」


 最後の一節は二人の声が重なった。ランセルは小さく笑い声を漏らすと、術の詠唱に入った。魔法職ではないマリアンの耳には、ランセルの詠唱は大きな羽虫が自分の回りを飛び交っている音にしか聞こえない。


 詠唱が止まると同時に、マリアンの目の前に小さな鬼火が一つ現れた。鬼火はゆらゆらと空中を漂いながら、辺りに黄色い光を振りまく。


 その光に照らし出された周囲の景色は、マリアンが予想した通り、石の壁で作られた狭い通路だった。横は大人が二人腕を広げたほどの幅があり、上は大人がかろうじて立って歩けるほどの高さがある。


「ここの抜け方は?」


「はい。迷路になっていますが、例の紋章の読み方を知っていれば抜けられます。それにここにある花びらの数は8枚なので、地上まではそれほど距離はないはずです」


 鬼火の明かりで周囲を確認したランセルが答えた。


「それはよかった」


 濡れたまま長時間歩くことになれば、やはり体力が持たない。


「すいませんが、あと少しだけ時間をください」


 そう言うと、ランセルは皮のコートの内ポケットから、何やら銀色に光る容器を取り出した。


「『闇を払う小さき者』を使い続けると、いざという時に他の術が使えなくなりますからね」


 ランセルはマリアンの顔の前で、その容器を軽く振って見せた。中には液体が入っているらしく、ちゃぷちゃぷと音を立てている。


「これは?」


「大人の(たしな)み言うやつですよ」


 ランセルがマリアンに苦笑して見せる。そしてキャップを開けると、中の匂いを嗅いだ。マリアンの鼻腔にも強いアルコールの匂いが漂ってくる。だがランセルは外套やら上着やらのポケットを探ると、マリアンに向かって肩をすくめて見せた。


「火種に使えそうな布を、お持ちではないでしょうか?」


 ランセルの問いかけに、マリアンは外套のフードを脱ぐと、頭の後ろに手をやった。その手には侍従用の紺色のリボンが握られている。


「これでいいかしら?」


「ええ、助かります。それと一口でいいので、こいつをやってください。体が温まります」


 そう言うと、ランセルは金属の容器をマリアンに差し出した。マリアンはそれを口に含むと、一気に飲み込む。ひんやりとしているはずの液体が、喉を、そして胃を熱く焼いていく。


 だがそれは体を中から温めてもくれた。おかげで壊れた歯車の様にカチカチと音を立てていた、歯の震えも収まってくる。


 ランセルはマリアンから容器を受け取ると、自分でもそれを口にした。そして受け取ったリボンを丸めて飲み口へと差し込み、それを鬼火の方へと差し出す。鬼火が一瞬より明るく輝いたかと思ったら、飲み口から出ている布に青白く光る明かりが灯った。


「出口までは十分に持つと思います」


 ランセルはそう告げると、口元で小さく指を動かす。鬼火の明かりが掻き消え、ランセルが手にする、金属の容器の先に灯る明かりだけに変わった。先ほどよりは暗いが、それでも辺りを照らすだけなら十分な明かりだ。


 だがマリアンは急に首筋にざわめきの様なものを感じて、背後の扉の方を振り返った。そこでは一筋の黒い煙の様なものが、僅かな明かりに揺らめいているのが見える。


 いや、これは煙なんかではない。それは上へと漂うのではなく、一か所で渦を巻きながら、黒い塊へと次第に形を変えようとしていた。


「例の奴ですか?」


 壁の辺りをじっと見つめるマリアンに向かって、ランセルが声を掛けてきた。やはりランセルの目には()()は見えていないらしい。マリアンはランセルに頷いて見せた。


「しつこいやつね。ちょっとした隙間があれば、向こうには十分みたい。ランセル、先を急ぎましょう」


「はい。ついています。こいつは余計な遠回りをしないで、一直線に外までいける脱出路の様です」


 ランセルは片手で明かりを持ち上げると、通路の奥へと進み始めた。マリアンもその背後に続いて進む。どうやら通路は少し上っているらしく、最初は膝上まであった水が、膝下、そしてくるぶしの辺りと、だんだんと下がっていく。


 それと同時に、天井も徐々に低くなり、マリアンですら頭をかがめないと前に進めない。そのせいか、それとも強い蒸留酒のせいなのか、あれほど震えていたマリアンの体から汗が流れ、前をいくランセルも荒い息をし始めた。


 その一方で、背後からこちらに迫るものの気配はなくなるどころか、より濃厚になっていくのを感じる。


「後ろは大丈夫ですか?」


 ランセルが不意にマリアンの方を振り返った。見るとその行く手は壁で行き止まりになっている。


「大丈夫よ。まだ距離はあると思うわ」


「では手を貸してもらってもいいですか?」


 そう言うと、ランセルは頭上にある石で出来た天井を指さした。よく見ると、そこだけ他と違って、大きな一枚岩になっている。


「こいつには仕掛けがないので、ともかく押してこじ開けるしかありません」


「了解」


 マリアンはランセルと一緒に天井に肩をあてた。そして目で合図をして力を込める。だが一向に動く気配はない。それでも二人は石板を押し続けた。


 ミシ…


 小さな軋み音と共に、僅かに石板が動く気配がする。肩に痛みが走るが、それを無視してさらに力を込めて押す。


 ギーーー


 耳障りな音と共に石が僅かに浮いた。ランセルがすかさず手にした杖をその隙間へと差し込む。そして二人でそれをずらす様に動かしていくと、石板はゆっくりと滑っていき、やがて人が一人通れそうなほどの隙間が現れた。同時に二人の力もそこが限界だった。


 バタン!


 大きな音がして石板が落ちる。同時にどぶくさい強烈なにおいがマリアンの鼻をついた。マリアンが素早くその穴から先を伺うと、どうやらこの上は側溝で、上に敷かれた蓋の隙間から淡い光が差し込んでいる。


「自分たちが溝鼠と呼ばれる理由ですよ」


 ランセルはマリアンに明かりを渡すと、杖を伸ばし始めた。


「その杖はとっても丈夫なのね」


 それは銀色の金属でできているらしいが、その表面には金属特有の光沢はなく、まるですりガラスの様な感じになっている。それに差して太くもないのに、あの石板の重さに折れるどころか、曲がりもしなかったらしい。


「はい。何で出来ているかは私も知りません。魔法職予備校に入学して直ぐに、師匠から届けられました」


「師匠?」


「はい。例の忍び込んだ家の主人です」


「本当に変わった人なのね」


「ええ、間違いなくそうです。使い魔で辺りを探ります。こちらが見つかる原因になりかねませんが、奇襲を食らうよりはましだと思います」


 そう告げると、ランセルは足元の泥の上に複雑な文様を描き始めた。


 魔法職が近くで術を使えば、それは他の魔法職から見ると、のろしが上がっているのと同じだと聞く。きっとその通りなのだろう。マリアンとしては、自分で隠密を使った方が確実な様な気もするが、それは最後の切り札だ。


 マリアンはその作業をじっと見ながら、彼が手にする杖に何か文字が刻まれているのに気がついた。


『ハッ・セ・ド・…』


 マリアンは文字を目で追ったが、暗いのと、ランセルが杖を動かすので、それを正確に読み取る事は出来ない。何処かで聞いたことがある名前の様な気もするが、それを気にするのはもっと後でいい。


「何も見えません。ひどい匂いですからね。とりあえず側溝からでましょう」


 呪文を唱え、杖をしまったランセルがマリアンに告げた。マリアンはランセルに頷くと、背中に手を回してそこにさしてある短剣を握る。たとえ確認済みであっても、用心するに越したことはない。


 壊れたのか、蓋がされていないところから地上へと出る。明かりに目を慣らしながら辺りを見ると、そこは建物の間の裏手のような場所だった。崩れた井戸の跡があり、水気のない乾いた洗い場の跡も見える。


 回りにある建物は基礎だけは立派だが、つぎはぎだらけのさびれた建物だ。建物の基礎の隙間からは背の高い草すら生えていて、あたりに人の気配はない。きっと井戸が使えないので、人はほとんど住んでいないのだろう。


「ここは?」


「直接知っている場所ではないですが、南区もだいぶ端に近い所のはずです。目的地まではさほど遠くはありません」


「なら――」


「いや、君たちの目的地はここですよ」


 背後からの声に、マリアンは振り向くことなく短剣を引き抜いた。そしてそのまま体を回転させると、手にした短剣を声の主へと叩き込んだ。

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