後悔
「使い魔からは何も見えないの?」
マリアンからの問いかけに、ランセルは首を横に振った。その手には竿ではなく、杖が握られている。マリアンの目にも何も見えてはいないが、水面に立つ小さなさざ波を見れば、何かが近づいて来ようとしているのは明らかだった。
「船を戻します」
「無理ね。間に合わない」
ランセルの提案にマリアンは冷静に答えた。この狭い水路の中で逃げても意味はない。
「迂闊だったわね。誰にも気が付かれずに行けるというのは、誰にも気が付かれずにこちらを襲えるというのと同じ意味なのを忘れていたわ」
この水路を使った時点で、相手に待ち伏せされたら逃げ場が無いことは分かっていた。それでも限られた時間を考えれば、ここを使わざる負えない。なのでマリアンとしてはランセルを非難するつもりはなかった。
「何者でしょうか?」
そう尋ねたランセルの額からは、冬だというのに汗が流れ落ちている。
「間違いないわ、アルマよ。でもどうして私が南区に向かったことを知っているのかしら?」
そう呟くと、マリアンは体を前に向けたまま、視線だけをランセルの方へと向けた。
「侍従服姿の女を探しているというのは私の事だと思っていた。あの人の目的地が南区だと知っている人は限られている。辻褄が合わないわ」
「十分に気を付けたつもりですが、後をつけられたんでしょうか?」
その言葉にマリアンは小さく首を傾げて見せた。例の屋敷の件でアルマにこちらの存在はバレている。なのでアルマが自分を何らかの手段で見張っているのは分かっていた。
それを避ける為に小さなはしけを使い、大型の平底船を盾にしてまでメナド川を渡ったのだ。
「可能性はあるわね。でもやっぱり辻褄があっていない。それなら追いかける事は出来ても、こちらを待ち伏せするのは無理よ」
「まさかとは思いますが、組の中から洩れたのでしょうか? でもそれを知っているのはマインズの兄貴と自分を含めても、片手もいません」
ランセルに向かってマリアンは首を横に振って見せた。突発的な事であるし、内部から漏れたとは到底思えない。
「あの人が学園から王都の中心部まで、馬車で一緒に来た侍従はまだ見つかっていなかったわよね」
「はい。手配はしましたが、まだ何の連絡もありません」
「そこね。そこから私があの人を追って、ここに来るのが漏れた」
マリアンはそう告げると、ランセルに向かって小さく頷いて見せた。これではっきりした。あの人と一緒だったのはジャネットで間違いない。そうすればすべての辻褄があう。
ジャネットがあの店に行って、アルマにこの件をつないだのだ。マリアンはジャネットがどうしてその様な行動を取ったのかもよく分かっていた。
嫉妬だ。前世で自分がフレデリカに抱いたものと同じ心の闇。それはたとえその相手にどれだけ恩義があろうとも、他の全ての感情を覆いつくし、それ一色に塗りつぶしてしまう。
フレデリカ、前世の風華を森で嵌めようとし、自分も口封じにマ者に襲われた。それを分かっていながら、命を賭して助けに来た風華に対して、前世の自分が抱いた感情だ。それを感謝するのではなく、彼女への嫉妬の焔にその身を焼いた。
彼女が持っている全てが羨ましく、そして疎ましかった。自分はそれを命じた者に慰み者にされていた上に、使い捨てにされた。だけどあの人、風華は本当に彼女の事を大事に思っている仲間に恵まれ、大した腕も無いのに信頼されている。
何より彼女の持つ揺るぎない信念と、屈託の無い笑顔があまりに眩しく、その全てが心に槍の様に突き刺さる。その痛みが彼女に対して尊敬の念を抱く代わりに、黒く粘ついた感情だけを湧き上がらせた。
だがあの人はそんな自分に対して、率直に、そしてまさに体当たりで心の闇を払ってくれたのだ。
寒い冬の空の下で手にしたティーカップの暖かさ。自分の頬を流れた涙の熱さ。そしてあの人が自分の為に浮かべてくれた涙の光を決して忘れることはない。それは前世の事であっても、克明に思い出すことができる。
あの人が自分にしてくれた行動に対して、自分はどうなのだろう。マリアンは心の中で己の未熟さ、フレデリカとの違いを痛感していた。
自分は彼女に、ジャネットに救いの手を伸ばすことなく、ただそれを傍観しただけだ。それは彼女を精神的に葬り去ったのと同じことなのかもしれない。
やはり私はあの人には、フレデリカ・カスティオールにはなれない。だけどあの人を守る剣になら成れる。だからこんなところで命を落とすわけにはいかない。前世と同じ過ちを再び犯すことなど許されないのだ。
マリアンはそう心に決意すると、狭い船の中で足場を固めた。目には見えないが、何かが間違いなくこちらを狙って来ている。
相手はロイスにとりついているのと同じ、神もどきのさらにもどきだろう。あの人の為にも、ロイスの為にも、前世の時の様に心を簡単に明け渡す訳にはいかない。
「ランセル、相手は心を奪って肉体を支配するわ。自我を失ったらそこでおしまい――」
マリアンは続けて言葉を掛けようとしたが、闇の向こうから不意に現れた人影に、そこで言葉を止めた。
「有希?」
マリアンの口から前世の妹の名前が漏れた。そこには真っ白な薄着だけを着た、自分と年がそう変わらない少女が闇の中に浮かんでいる。
いや、浮かんでいるのではない。水路の漆黒の水の上に裸足で立っていた。自分と同じ様に後ろに高く纏めていた髪は前に降ろされ、顔の半分を覆っている。その姿はまるで幽霊の様だ。
「お姉ちゃん――」
少女はそう問いかけると、マリアンに向かって笑みを浮かべて見せた。その声は今にも消えそうなぐらいに弱々しい。
間違いない。前世で自分の妹だった有希だ。だがこの世界に彼女がいる訳はない。考えられる理由はただ一つ、あのロイスに憑りついている奴と同じものが、自分に見せている幻影だ。
『どう言うことなの?』
前世の妹の幻を前に、マリアンは自分自身に問いただした。前世で自分が出会った神もどきは自我を乗っ取って、こちらの体を奪う奴だった。見かけは同じだがこいつは全く違うらしい。
こちらの弱みにつけ込んで、精神そのものを取り込もうとしているのだろうか?
「どうして私たちから逃げたの?」
「逃げた?」
「ずっと待っていたのよ……」
少女が再びマリアンに問いかける。その言葉と妹の切なそうな表情に、マリアンは自分が明らかに動揺しているのが分かった。だがそれにあがらうことが出来ない。
「逃げたんじゃないの。私は……私は……殺されたの!」
マリアンは自分が麻袋の中に押し込められ、心臓を一突きにされて、血を流しつつ意識を失っていったのを思い出した。本当に油断以外の何物でもない。あの人を逃がすことも、何もできなかった自分が本当に悔やまれる。
「姉さんがいなくなった後、私たちがどんな目にあったのか知っているの?」
「えっ!?」
マリアンの心に鋭い痛みが走った。そうだ、その時自分は父や妹たちにもう会えないことを悔やんだ。だけどその後でみんながどうなったかについては考えが及ばなかった。ただ無事を願っただけだ。
「姉さんは勝手よ!」
「どういう事?」
「たとえ死んでも、姉さんはここから逃げ出せた。父さんも世をはかなんで、私たちを置き去りに首をくくったわ。死ぬことすら許されなかった私が、一体どうなったか知っているの?」
そう言うと、前に下ろしていた腰まである長い髪にそっと手をかける。
「私も姉さん同様にやつらの慰み者にされたわ。でもそれだけじゃないの――」
そしてそれをゆっくりと持ち上げた。
「な、なんてこと……」
そこには色黒だった自分と違って、色白で人形みたいと言われた妹の肌が、赤黒く焼けただれた別物に変わってしまっているのが見えた。
「顔だけじゃないわ。あの女に、久沙美に体のあちらこちらを焼かれたの。姉さん、知っている? 意識があるままに自分の体を焼かれるのが、一体どんな気分なのか?」
そう言うと、少女はマリアンの方へ顔を寄せた。
「気絶しても薬で無理やり意識を戻されて、そして焼かれるの。傷口がやっとふさがったら、さらにもう一度そこを焼くのよ。自分の体が焼ける音はね、耳に聞こえてくるんじゃないの。耳の中ではじけて聞こえるのよ」
「ごめんなさい。私は、私は、誰も、誰も守れなかった!」
「嘘よ。守る気なんてなかったんでしょう? だから私があんなにお願いしても、姉さんは城砦へ行った。私達から離れて自由になりたかったんでしょう?」
「違う! 違うのよ、有希! 私はみんなを守りたかった。みんなをあの腐ったやつらから引き離したかったの。だから、だから冒険者になって――」
「嘘よ。姉さんは私達じゃなくて、あの赤毛の子を選んだんでしょう。それも違うわね。姉さんはそれを理由にしただけ……」
「お願い! 話を聞いて!」
「ええ、もちろんよ。これから姉さんはずっと、ずっと私達と一緒よ……」
少女がその小さく白い手をマリアンの方へと伸ばす。その指の先も赤黒く染まっている。爪が剥がされた跡だ。そして半分を赤黒く染めた少女の顔が、マリアンの目の前へと迫ってきた。
「有希、許して! あなたに代わって、その苦しみを、その痛みの全てを背負ってあげたい。いや、背負わないといけないのは分かっているわ。でも今はあなたのいるところへはいけないの! だけど、私の魂がこの世界を去ったら!」
「嘘つき!」
少女の顔に怒りの形相が浮かぶ。
「姉さんの嘘つき!」
そう叫んだ少女がマリアンの喉に向かって手を伸ばした。マリアンはそれを避ける代わりに、妹に向かって自分から前へと進んだ。彼女に殺されるのなら仕方がない。
だがマリアンの本能は首を差し出す代わりに、その体に向かって短剣を突き出した。手にした短剣の先が少女の胸の中へゆっくりと沈んでいく。少女はそれをまるで他人事のようにじっと見つめた。
「ほら、やっぱり姉さんは――」
「マリさん! しっかりしてください!」
耳元に響いた声にマリアンは我に返った。目の前にはランセルがいて、その手にはマリアンが差し出した短剣が握られている。
「ランセル?」
ランセルがマリアンに向かって頷いて見せた。だがマリアンの手にある短剣の刃から、妙に赤黒く見える液体が滴り落ちているのが見える。
マリアンは慌てて手の力を抜いた。だが短剣の先は間違いなくランセルの胸に入り込んでしまっている。そして自分の体を黒い触手のようなものが這い上がろうとしているのにも気がついた。
無数の小さな手。ロイスに取り憑いていた奴と同じだ。そいつが自分に幻を見せて、心と体を乗っ取ろうとしていたのだ。慌ててそれを手で払う。
だが手が触手に触れるや否や、何百匹ものナメクジが這い回っているような感触が伝わってきた。それらは船底へと落ちたが、またすぐに登って来ようとする。しかしここで怯むわけにはいかない。
マリアンは片手を差し出すと、ランセルの体にも取り憑こうとしている触手を払おうとした。だが触手はランセルの体には取り憑いてはいない。
そこでマリアンはランセルが片手に明かりを最大にしたランタンを持っていることに気がついた。そうだ。神もどきは火が弱点だった。こいつも火を恐れている。取り込まれる前なら――。
「ランセル、火を着けるわ!」
そう告げるや否や、マリアンは短剣の柄から手を離すと、ランセルからランタンを奪い取った。そして給油栓の口を開けてその油を船の上へとぶちまける。そこにまだ火がついているランタンを投げつけた。
マリアンの足元から赤い炎が上がり、体に取り憑いていた触手が慌ててそこから離れようとする。
「姐さん!」
ランセルはそう叫ぶと、炎に包まれようとするマリアンの体を抱えて、そのまま船から水路へと飛び込んだ。その勢いに、マリアンの体は水路の底の方まで一気に沈んでいこうとする。
この地下水路は見かけによらず深いらしい。足が底につく気配はない。目を上げて辺りを見ると、頭の上に赤い光が見えた。その光がそちらが水面だとマリアンに告げている。
マリアンはそこに向けて手と足を必死に動かした。しかし冬の冷たい水が体の自由を奪おうとする。だがすぐに誰かの腕がマリアンの体を水面へと引き寄せた。
「足をつこうとしないでください。泥に足を取られて抜けなくなります」
マリアンの耳元でランセルの声が聞こえた。
「体の力を抜いてください。取り敢えず水路の壁のくぼみに体を預けます」
マリアンはランセルの言葉に従って体の力を抜く。水を掻く音に続いて、マリアンの手が水路の石壁のくぼみへと押し付けられた。
「わ、私は一体――」
「分かりません。急に夢を見ているようになって、よく分からない外国の言葉の様なものでしゃべりはじめました」
「それであなたに切りつけたの?」
「いえ、私が姐さんの体を抑えようとして、下手をうっただけです。大した傷じゃありません」
マリアンはランセルに対して小さく頷くと、白い煙を上げて燃える船を眺めた。その奥にあの不気味な気配はまだ残っている。
「あれはまだ居るわね」
「はい。私の目には見えませんでしたが、確かに何かが近寄ってくる気配だけは分かりました」
「船が燃えているうちは何とかなりそうだけど……」
「船はもうだめですね」
ランセルの言葉にマリアンは同意した。だがこの冬の最中に水に浸かったままではすぐに体が動かなくなる
「ともかくどこかに足をかけて上に登らないと――」
「ほとんど隙間は無いので、登っても動きようがありません。それよりも隠し通路を使って上へ上がります」
「隠し通路?」
「はい。この地下水路は昔の貴族の屋敷の一部だったという話で、ところどころにその紋章が刻み込まれています。その一部に紋章が違っているものがあって、それを押すと通路が現れるんです」
「そんな仕掛けがあるのね」
「はい。まだ生き残っているやつがいくつかあります。それに悪運にはまだ見放されていない様です。丁度ここにも紋章がありました」
マリアンはランセルが指し示した場所に手を触れた。水路の石壁は汚れにぬるっとしていたが、確かに何かの模様が刻み込まれているのが分かる。
「これって――」
「はい。バラです。花びらは普通は8枚なんですが、9枚あるのが隠し扉になります」
マリアンはその紋章を指でなぞった。ランセルの言う通りに、花びらの数は9枚だ。
ザワザワザワ
先ほどと同様に再び水面に小さなさざ波が立つ。振り返ると、燃えていた小舟は傾きつつ、ゆっくりと水路へと没しようとしている。
「先を急ぎましょう」
ランセルの言葉に、マリアンは震えながら頷いた。
「ええ、そうしましょう。しつこいのは大嫌いなの」