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地元

 はしけから南区の護岸へと飛び降りたマリアンは注意深く辺りの気配を伺った。こちらを監視している者の存在は感じられない。


 頭の上を何匹かの鳶がゆっくりと弧を描きながら飛んでいるだけだ。二人をここまで運んできてくれたはしけはすでに護岸を離れている。


「姐さん、こっちです」


 ランセルはそう小声で告げると、マリアンを護岸近くに置かれた荷物の陰へと誘導した。


 そこには水路沿いに朽ちかけた桟橋があり、小さな小舟が繋がれていた。小舟は大型の平底船が立てた波に木の葉の様に大きく揺れている。


 ランセルはマリアンが辺りの様子を伺っている間に、素早くもやい綱を解くと、手慣れた動作で小舟へと飛び乗った。そしてマリアンに向かって手を差し出す。


「足元に気をつけてください」


 差し出された手を掴みながら、マリアンは心の中で苦笑した。こうして手を差し出された上に姐さんなんて呼ばれると、自分がまるで白髪のおばあさんにでもなった気分になる。


「お願いだから姐さんはやめて頂戴。できればマリと呼んでもらえないかしら」


「そんな、姐さんに対して――」


 竿を持って船をこぎ出したランセルがマリアンに向かって頭を振った。だがマリアンの不満気な表情と、自分の目の前にいるのがまだ若い少女であることに気が付くと、小さく頷いて見せた。


「ではマリさん。頭を下げていてください。ここから先はこんなところばかりです」


 そう告げると、ランセルは船の行く手の水路を指さした。確かにそれは狭い水路ではあったが、それ以上に水路の上を様々なものが覆っている。


 それは干されてそのままになっている洗濯物であったり、板を渡して作った荷物置き場だったりと雑多なものだ。


 そこからは生活感と言うより、何かが朽ちて沈んでいくような暗さがある。辺りに漂うドブの匂いと同様に、灰の街出のマリアンにとってはある意味、馴染み深いものとも言えた。


「まだ半年もたっていないのね――」


 マリアンの口から独り言が漏れる。そうなのだ。あの人に会ってからまだ半年もたっていない。もしフレデリカに会っていなかったら、今の自分はどうなっていただろうか?


 モーガンに手籠めにされ、部屋の中に閉じ込められて、ただただその慰み者になるだけだっただろう。前世でもそうだった様に、あの人は私を救ってくれた。


 あの人だけじゃない。ロイスがいなかったら今の自分はいない。いろいろな人に助けられて今がある。そして今度は自分がロイスを助ける番だ。


「マリさん」


 ランセルの声にマリアンは我に返った。そして小さく頭を振る。今はあの人を無事に見つけることに集中しないといけない。


「ドミニク道場までは地下水路を抜けていきます」


 狭い水路の中で巧みに竿を操りながら、ランセルがマリアンに告げた。いくらはぐれとは言え、その手際は魔法職のものとは思えないぐらいに巧みだ。


「地下水路?」


「はい。この街ではそれが一番早く、そして誰にも邪魔されずに目的地に着けます。もっとも迷路みたいなところですので、迷ったりしたら本当に出れなくなりますが、まかせてください。ここは自分の地元なんです」


 そう言うと、ランセルは胸を拳で小さく叩いて見せた。


「迷う以外に危険はないの? 待ち伏せとかは?」


「溝鼠たちがいます。なので、ないとはいえません」


「溝鼠?」


「この辺の私生児のみなしごとかで、地下水路に巣食っているやつらの事です。ちょっとした窃盗や抜け荷なんかで飯を食っている連中ですよ。大した連中じゃありません」


「誰が撃っても矢は矢よ」


「おっしゃる通りです。他の奴らに感づかれない程度の使い魔を送って先を探ります。それに万が一囲まれても、あまり問題にはならないと思います」


「ロイスの息がかかっているの?」


「はい。一応は川筋なので、ロイスの旦那の息もかかっていますが、実は私も元は溝鼠の一人なんですよ」


 そう言うと、ランセルは少し恥ずかしがる様に、あるいは少し自慢する様に鼻の下を撫でて見せた。


「溝鼠? あなたが? でもあなたは魔法職でしょう?」


 ランセルの言葉に、マリアンは不思議そうにニキビの跡が目立つ顔を眺めた。


「はい。もっとも魔法職と言ってもはぐれですけどね」


「でも、どうして魔法職に?」


 マリアンはそう言葉を漏らすと、小さく首を横に振った。


「ごめんなさい。余計な話だったわね」


「姐さん、いやマリさんに謝って頂く様なことじゃありません。本当にたまたまです」


 そう言うと、ランセルはマリアンに向かって小さく肩をすくめて見せた。


「大して働いている様には見えないのに、飯は食えている奴がいたので、小金を持っていると思って忍び込んだんです。それに家主はひょろひょろとした見かけの優男が一人だけだったので、舐めてかかってもいました」


「それでどうなったの?」


「悪夢の中に入り込んだみたいに恐ろしい目に会いました。忍び込んだ瞬間から首の後ろでちりちりと変な感じが止まりません。ちっちゃな家のはずなのに、どこまで行っても居間にたどり着かない。戻っても出口がない。変な鳴き声みたいなやつは聞こえてくるし、もう勘弁してくれと言う感じです」


 ランセルは首をすくめると、その時を演じるかの様にガタガタと震えて見せた。


「ともかく窓でも何でもぶち破って、外へ出ようと思ったんですが、窓の外はどういう訳か真っ暗闇です。下には地面すらみえません。最後は小便をもらして、頭を抱えながらガタガタと震えていました」


「ふふふ、本当に怖かったのね」


 マリアンの口から思わず含み笑いが漏れた。


「はい。今ならそれが『悪夢の担い手』という大した力もない使い魔だと分かっていますが、その時は地獄に入り込んだ気分でした。気がつくと師匠、本当に見かけはひょろひょろとした人なんですが、私の前に立っていて、温めた牛乳を渡してくれたんです」


「牛乳?」


「ええ、師匠の大好物でしてね。最初に異変に気がつけたのは中々見どころがあるとか言って、ここに行けと言って一枚の紙を渡してくれたんです。それが魔法職予備校への推薦状でした」


「そんな夢みたいなことがあるのね」


「そうですね。当時は悪夢の続きだと思いましたよ。でも騙されたつもりで行ってみたら、あっさりと入学の準備をするように言われました。入学金と学費はすでに受け取っているとも言われましてね。自分には弟の様に育った男がいまして、そいつが()()()()、自分の妹と一緒に心から喜んでくれました」


「でも、どうして組なんかに? ごめんなさい、これこそ余計なことだったわね」


「いえ、それを聞いて欲しいのはむしろ俺のほうです。元溝鼠ですから、予備校へ入ってからも相当にいびられました。ですがそんな坊ちゃん達の嫌みや意地悪なんてものは、溝鼠の苦労に比べたら鼻くそみたいなもんです。何とか高等魔法学校への入学も許可されそうだったんですが……」


「何があったの?」


「妹がモーガンに目をつけられました。溝鼠たちの身を守りたかったら、自分の女になれと言ってきたんです」


「そういうクズな男よ」


「妹はそれを俺に黙っていました。妹は俺の兄弟みたいな親友にべたぼれで、奴も同じでした。いつか足を洗って堅気になって、そいつと一緒になってもらいたいと思っていたんです」


「彼が知らせて来たの?」


「違います。奴も黙っていやがりました。でもモーガン自身が俺に知らせて来たんです。それもお前の妹は俺が面倒を見てやるって、恩着せがましくです!」


「本当のクズね……」


 マリアンの口から言葉が漏れた。そして父親がモーガンの所に行けといった日の事を思い出す。自分も彼の妹と同じ運命を歩む一歩手前だったのだ。


「溝鼠から足を洗って、貴族の坊ちゃん達の所にいた俺のことが気にいらなかったんでしょうね。怒りに我を忘れました」


 マリアンはそう告げたランセルの目に暗い影があるのに気がついた。それはマリアンの首筋に違和感を感じさせる程のものだった。


「学校を抜け出して、そのままモーガンの玉を取りに行きました。学校の中ではちょっとは術が使えるほうだったんで、いい気になっていたんです。モーガンは小物も小物ですが、それでも王都の顔役の一人だという事を忘れていました」


 そう告げると、ランセルはマリアンに自嘲気味に口の端を上げて見せた。


「モーガンの玉を取るどころか、奴が雇っていた魔法職に穴の向こうに送られる寸前でした。あの時に穴の向こうへ落ちなかったのは九死に一生以外の何物でもありません」


「それでなのね」


「はい。モーガンから逃げるために、そしていつかその命を奪ってやるために、王都を離れてあちらこちらを転々としていました。妹はとっくに殺されたものだと思っていたそうです。ですが姐さんとロイスの旦那がモーガン、いやそれだけじゃない、川筋のゴミを丸ごと全部掃除してくれました」


 そう告げると、ランセルはマリアンに向かって小さく笑みを浮かべた。


「それで決めたんです。俺は拾った命をこの人たちのために使うです。それでロイスの旦那のところに側に置いてくれるように頼みにいきました」


「残念ね」


「何がですか?」


 マリアンの台詞にランセルが当惑した表情を浮かべた。


「モーガンの玉はあなたに取らせてあげたかったわ」


「きっと自分じゃ怒りで手元が狂って、()()()()返り討ちだったと思います」


 そう言うと、ランセルはニキビの跡が目立つ顔に苦笑を浮かべて見せた。


「すいません、余計なことを長くしゃべりすぎました。地下水路に入ります。すいませんが、船首にあるランタンに明かりを入れて、下向きに覆いを下ろしてください」


 ランセルはそうマリアンに告げると、竿の先で船の右手を指した。そこでは枯れた灰色の蔦の根が、風に微かに揺れているだけにしか見えない。だがよく見ると、その向こう側に黒い穴がぽっかりと開いているのが見えた。


「あの先の地下水路の中こそが、南区の本当の姿、古の本物の王都です」


 ランセルが少し自慢するような声でマリアンに告げた。冬の木枯らしに蔦の根が舞って、黒い穴がはっきりとその姿を現す。ランセルの巧みな竿使いに、水路に浮く雑多なゴミを避けて、小舟は吸い込まれる様にその中へと進んでいく。


 小さな管の様な狭い穴を抜けると、表の光も遮られ、辺りが暗闇に包まれた。ランタンの微かな明かりが、きれいに積まれた水路の石壁を僅かに照らしている。


「上なんかよりもよほどに立派だと思いませんか?」


「そうね。もしかしたら下手なお城の城壁よりも立派かも……」


「はい。自分が聞いた話では、ここはあっという間に水没した昔の王城の跡だそうです」


「そんな話はあまり聞いた事がないけど……。でも灰の街の人間にとってはどうでもいい話だから、きっと聞く機会が無かっただけね」


「灰の街も無関係じゃないそうですよ。あれは古の王都の外壁の跡という話です」


「本当かしら? 何処かの大魔法職の仕業?」


「はぐれとはいえ、自分も魔法職の端くれですが、そんな大魔法は聞いた事がありません」


 ランセルはそう口にしながらも、次々に現れる分かれ道、下手したら三叉路以上に分かれていく水路を迷うことなく抜けていく。


「良く分かっているのね」


「はい。かなり久しぶりですが、体が覚えています。暗い家の中を歩くのと同じですよ。それにこれはある種の秘密ですが、この水路には目印があるので、迷ってもそれで何とかなります」


 そこまで告げてから、ランセルは船首側に座るマリアンの様子がおかしいのに気が付いた。その影にしか見えない背中からは明らかに緊張の色がある。


 ランセルは目を凝らして水路の奥を見た。そして自分が先行させていた「我らに目をもたらす者」魔法職が「覗き魔」と呼ぶ使い魔がもたらす視界も確認する。だがそのいずれにも何の異常も認められない。


「姐さん?」


「ランセル、あなたは溝鼠がいると言っていたわね」


「ええ」


「どうやらここで私たちを待っていたのは、その溝鼠だけじゃないみたいよ」


 そう告げると、マリアンは外套の下から短剣を抜いて、それをゆっくりと体の前へ掲げた。

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