溝鼠
「あまり端までいくなよ。その手前で立て。それに腕は体の横だ。間違っても伸ばしたりしたら、腕が折れるぐらいじゃすまないからな!」
石のでっぱりにしか見えない小さな船着場の一番端まで行くと、少年がそう私に声を掛けてきた。その説明はとても丁寧で、捕まえた相手に対するものとは思えない。
これでも一応は乙女なので、怪我などされて傷物になったら困ると思っているのだろうか?
乙女と言っても、ドロレスさんやエミリアさんに比べたら相当に芋ですけどね。なにせ二人の容姿ときたら、私の恋人役だと言うのに、トマスさんが我を忘れてガン見し続けたぐらいです。あの二人に比べたら、私は刺し身のツマの様なものですね。
『あれ?』
刺し身って何だ? それにツマって? やっぱり私には前世の記憶だけでなく、色々と変なものが混じっているらしい。
少年はちょっとふてくされ気味になった私を不思議そうに一瞥したが、正しい位置に立っているのを確認すると、四角に嵌め込まれている石のちょっとだけ窪んだ場所に手を伸ばした。
彼が手を伸ばした先にも小さな紋章が描かれているのが見える。どこの紋章だろう。ランタンの微かな明かりによく目を凝らしてみると、そこには一輪の薔薇の紋章があった。何という事でしょう。またもや我が家の紋章です!
ガラン!
思わず手を伸ばしそうになったが、何かが動く音と共に足元の岩がぐるりと回った。確かにこれに腕を挟まれたりしたら、腕ごと無くなりそうなぐらいの勢いだ。慌てて腕を体の横にピタリとつけて足を踏ん張っても、遠心力で体が斜めになる。
ガコン!
再び何かが挟まる音と共に回転が止まった。思わずたたらを踏んでしまうが、足を踏み出した場所もその先も漆黒の闇だけが広がっている。どこが壁なのか、壁があるのかどうかすらも分からない。だが背後で灯った灯りが、ぼんやりと辺りを黄色く照らしてくれた。
「おい、明かりを貸せ」
不意に闇に中からヤスさんの声が響いたかと思ったら、無精ひげだらけの顔が明かりの先にひょいと飛び出して来た。突然の事に心臓が口から飛び出しそうになる。
「いきなり顔を出さないでください! 心臓が止まったらどうしてくれるんです?」
だがヤスさんは私の文句を真っ向無視すると、隣にいる明かりを持つ人物に向かって手を差し出した。少年が諦めた様にその手にランタンを差し出す。
ヤスさんはそれを前に掲げると、おもむろに上へと登り始める。よく目を凝らすと、ここはとても手狭な小部屋のようなところで、前には石造りの階段が上へと続いていた。
一体ここは何なのだろう。そもそも何で我が家のご先祖様はこんなものを作ったんだろうか?
『私たちは籠の中の鳥です』
頭の中にイサベルさんの声が響く。そうでした。それで夜な夜な屋敷を抜け出して街へ遊びに行く為に作ったんでしょうね。王家と張り合う様な意地っ張りで、遊び好きと来ましたか……。そんなことをしているから没落するんです!
「おい、能天気女。何をぼけっとしているんだ? そこに立たれると、後ろの奴らが入れないだろう!」
階段の先からヤスさんが声を掛けてきた。その声に慌てて前へ進む。
確かにそうです。回転する仕組みなので、後ろの人が入ってきたら、今度は私たちが水路へ出ることになります。でもずっと思ってましたけど、その呼び方はあんまりじゃありませんか!?
私がヤスさんに訂正を求める前に再びガコンと岩が動く音がして、誰かがこちらの小部屋へと入ってきた。
「あら、これはとっても面白いですね」
「奥様、足元が濡れております。お気をつけください」
暗闇の中に女性二人の声が響いた。どうやらドロレスさんとミランダさんの二人もこちらにきたらしい。
「あの、これでもう一度出て、また戻ってくることはできますか?」
「はあ?」
ドロレスさんのセリフに、一緒に入ってきたらしい少年が当惑の声を上げた。
「せっかくなので、もう一度やって見たいのですけどダメでしょうか?」
「おばさん、これは遊びじゃないんだ」
「あら、そうでした」
「おばさんですって、なんて無礼な――」
少年の台詞に、エミリアさんは文句を言いかけたが、そのまま絶句してしまった。確かにドロレスさんみたいな綺麗な方におばさんは失礼ですよね。いえ、綺麗かどうかの問題ではありません。全ての女性に対して失礼です!
だけどドロレスさん当人はと言うと、固まっているエミリアさんに向かって首をかしげて見せた。
「エミリア、何を驚くことがあります?」
「で、ですが奥様、失礼にも程が――」
「何せ四人の子持ちですからね、おばさんそのものです」
「えっ! ドロレスさんって、四人もお子さんがいらっしゃるんですか?」
「はい。一番上はマリさんよりも年上ですよ」
「とてもそんな風には見えません!」
「あら、お世辞でもうれしいですね」
「一体何者なんだよ……」
私の隣からも当惑した独り言が漏れる。その気持ちはよく分かります。ドロレスさんが四人の子持ちだなんて信じられません!
「あんたたち、ここはどこかの井戸端じゃない。それに用事があるのはあんた達で、俺じゃないんだぞ!」
再び階段の先からヤスさんの呆れた声が響いてきた。そうでした。ヤスさんの言う通りです。
「ふふふ、そうでした。マリさんとは時間を作って、ゆっくりとお茶でもしたいですね」
本当にそうしたい所ですが、さっさと道場に行かないと日が暮れて……。そう言えば何か忘れているような気がします。そうです。私達は捕まっているんでした。
いや、それだけではありません。やはりまだ何かを忘れているような気がします。
ガコン!
「何なんだよ!」
そうでした。トマスさんを忘れていました。だけど相変わらず不平不満しか言えない口ですね。
「男でしょう。グタグタ文句を言わない! さっさと階段を上ってください。みんな先に行ってしまいますよ」
「これで文句を言わなかったら、いつ文句を――」
トマスさんは再び愚痴を言おうとしたが、一緒に入ってきた少年にナイフで背中を押されると、無言で階段を上り始めた。
トマスさんに続いて階段を上ると、ヤスさんが階段の先の短い通路で立ち止まっており、その先に錆びついた大きな鉄の扉がある。少年ではなく、なぜか一番先頭にいるヤスさんがその扉を叩いた。
「誰だ!」
扉の向こうからくぐもった声が上がる。
「溝鼠の歯は伸び続ける」
ヤスさんが扉の向こうに応じた。
「何をかじってそれを削る」
「月のかけらをかじって削る」
扉の向こうで金属のこすれる音と共に、重そうな扉がゆっくりと開きはじめた。
「あ、あんたどうしてその合言葉を!」
ヤスさんはその問いかけを無視すると、私たちに中へ入るように顎をしゃくって見せた。まるで自分の家にでも招き入れるかの様に堂々とした態度です。
「おじゃまします」
捕まっている身ではありますが、やはり挨拶は大事です。軽く頭を下げて扉の向こうへ――
ヒュン!
小さな風切り音と共に何かが私の頭の上を横切った。水路で撃ってきた矢は明らかに威嚇の矢だったが、これは間違いなく狙ってきたやつです。頭を下げてなければ額に直撃でした。
慌てて扉の影に身を隠して、横にいるヤスさんの方をにらみつける。もしかして、私で安全かどうか試そうとしました?
「おい、合言葉に間違いはないだろう!」
私の視線にただならぬものを感じたのか、ヤスさんが慌てて扉の向こうに対して怒鳴った。
「それは昔の奴だ。何者か知らないが、扉の隙間から両手を見える様に差し出せ。ゆっくりと――」
ドン!
警告通りに両手を差し出そうとした私の前で、扉が急に大きく開いた。その勢いに背後へと吹き飛ばされそうになる。
「ジャスパー!」
そして叫び声と共に、小柄な人影が扉の向こうから飛び出してもきた。明かりの陰になって、その人物の表情はよく見えない。だが腰の曲線と、編んだ長い髪が間違いなくその人物が女性だと物語っている。
その女性は扉の影にいた私を見て一瞬立ち止まったが、背後にヤスさんがいるのを見つけると、勢いよくヤスさんに抱き着いた。
明かりに目が慣れてくると、ヤスさんとヤスさんに抱き着く女性の姿がはっきりと見えてくる。少し小柄だけど茶色い長い髪を背中で一本に結った女性が、ヤスさんの胸に顔をうずめつつ、その細い両腕でその体をしっかりと抱きしめていた。
「戻ってきてくれたんだね!」
ヤスさんの胸からくぐもった声が聞こえてきた。そして胸から顔を上げると、しっかりとヤスさんの瞳を見つめる。
「えっ!」
その横顔を見て、思わず口から声が漏れた。見間違いようがない美人です。この地下にいるせいか白い肌をした、それも男性が守ってあげたくなるような、オリヴィアさんと同じ系統の美人です。
一体何なんでしょう。今日は美人のてんこ盛りです。これはしばしの自由を得た私に対する、神様の意地悪としか思えません!
それに、ジャスパー?
「もしかして、ヤスさんの本名ってジャスパーさんですか?」
「そうだ。悪いか?」
「ヤスだって? ジャスパーの事を随分と気安く呼んでくれるじゃないか? あんた一体どこの誰なんだい?」
見かけはオリヴィアさんですが、中身は別物ですね。それに踏んではいけないものを踏んでしまったようです。
「別に怪しいものでは――」
それにご安心ください。ヤスさんとはどちらかと言うと、とても相性が良くない存在です!
「おやっさんの客人だ。案内を頼まれた」
私の台詞をヤスさんが引き継いでくれた。そうです。最初からヤスさんが説明してくれていれば何の問題もないんですよ。
「ザンス親方の?」
女性が少し困ったような顔をする。もしかしたら先程の私に対する発言を悔いているのかもしれない。
「客人というほどのものでは……。それにザンスさんにもヤ、ジャスパーさんにも今日お会いしたばかりですし――」
私の答えに女性がきょとんとした顔をする。そして背後にいるドロレスさんとエミリアさんの方に視線を向けた。
「後ろの二人もザンス親方の客人?」
「いや、こっちは別口だ」
「どういうことなの?」
女性はそう言うと、さらに当惑した表情を浮かべて、一番後ろに立つ小柄な人影の方を見つめた。その視線の先には私達に短弩を打ってきた少年が、所在なげにたたずんでいる。
「ミスリルさん、俺にもさっぱりなんです」
「ミスリル、その子だけじゃない。俺もだ。それよりも中に入ってもいいか? 面倒ごとはさっさと終わらせたいんだ」
そう言うと、ヤスさんは女性に向かって大きく肩をすくめて見せた。