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野心

 ヘクターは木立の中を注意深く走り抜けていた。その動きは木の枝と枝の間を飛び交う木鼠の様に軽やかだ。そして大きな切り株を見つけると、そこで立ち止まり、切り株に耳を当てて気配を探った。


 何の音も振動も聞こえない。どうやら自分に対する追手はいないらしい。御者には小用だと言って馬車を離れているから、それほど時間を掛ける訳にもいかない。


 ヘクターは制服のポケットに右手を入れると、そこから一枚の紙切れを取り出した。それを切り株の上に置く。これを渡してくれた人物は、これでいつでも連絡が取れると言っていたが本当だろうか?


 ヘクターはあれだけ素早い動きをしながらも、全く息を乱すことなく、切り株の上に置かれた複雑な紋様が描かれた呪符をじっと見つめた。何も起きない。もしかして、自分の使い方が間違っているのだろうか?


 そう考えた時だった。切り株の上に黒いもやが湧き出すと、その中から小さな子供のような姿が現れた。だがそれは間違いなく人ではない。


 人にしては小さすぎたし、その目には瞳孔も瞳らしきものもない。ただ暗闇のような漆黒があるだけだ。何よりもその姿は人とは比べ物がないほど美しかった。


 魔法職という連中は日々こんなにも美しいものを眺めているのだろうか? ヘクターの頭の中にそんな考えが浮かぶ。だがすぐに頭を振った。今はそんなことを考えている場合でも、これに見とれている場合でもない。


「行き先だ」


 ヘクターは小さな紙切れをその人ならぬ存在の前へと差し出した。ほのかに金色に輝く光を纏った手が、ヘクターの差し出した紙片の方へと動く。


「ククク」


 心に響いた笑い声と共に、ヘクターの手から紙片がひったくられる様に消えた。見ると先ほどまではあれほど美しいと思えた顔が、今では鋭い歯が生えた口を大きく横に広げて、瞳のない目で嘲るかにこちらを見ている。


 それだけではない。蛇の様な赤く長い舌でその口の周りを舐め回してもいる。そして少し残念そうに小首を傾げると、忽然とヘクターの目の前から消えた。あとには何の気配もない。


 ヘクターは反対のポケットに入れていた左手から、やはり複雑な紋章が書かれた呪符を取り出した。先ほどの使い魔を呼び出す時には、絶対にこれを身から離すなと言われて渡されたものだ。


 どうやらそれは単なる脅しではなかったらしい。身を翻すと、ヘクターは馬車の待つ道筋へと駆け戻った。


「お待たせしてすいません」


「丁度お嬢さん達が馬車の中に戻られたところですよ」


 この手の仕事についているにしてはまだ若い御者が、戻ってきたヘクターに声をかけた。


「急な出発だったので、手洗いに行きそびれました。一度止まってくれて助かりました」


 よく見ると、御者は肌の色も日に焼けて真っ黒というわけではない。もしかしたら臨時に御者を務めているのか、それともこの仕事についてから、まだそれほど時間が経っていないのかもしれない。


 ヘクターはそんな事を考えながら御者台の上に飛び乗った。辺りの気配を探るが特に誰かがついてきているような様子はない。


「まあ、高貴な家の出の方々は本当に気まぐれですからね。おっと、余計なことを言ってしまいました。お坊ちゃんやお嬢ちゃん方には内緒でお願いします」


「もちろんです」


 ヘクターは御者に愛想笑いを返すと前を向いた。まさかこんな形で機会が飛び込んでくるとは思わなかった。これが無事に終われば自分達の未来は明るい。たとえそれが普通の人生を踏み外す未来だとしてもだ。


 少なくとも支配される側ではなく、支配する側に回れる。


「前も出発した様です。ではこちらも出発です。ハイホー!」


 御者の掛け声と共に、馬の蹄が細かい石と砂で突き固められた地面を叩く音がする。馬車は車軸を回転させて軽やかに進み始めた。




「イエルチェ、これは何かの啓示かしら、それとも誰かの罠?」


「お嬢様、何のことでしょうか?」


 馬車の中で水筒を受け取った侍女のイエルチェは、不思議そうな顔をしながらオリヴィアに問い掛けた。


「フレデリカさんが無断で学園を出た。そして私たちがそれを追いかける。それにセシリー王妃様が絡んで、今度はセシリー王妃様を追いかける者達がいる」


「その様な大事を私の様な者に――」


「イエルチェ、心にもないことを言わないで。もっともあなたに心があるのかどうかは分からないけど」


「何をおっしゃいますか?」


「私は分かっているの。私が死にかけていたあの夜に、私へ声をかけてくれたのはあなたよ。だからあなたは私の一部なんでしょう。そうでなければこんなに早く回復なんてしない」


「お嬢様、何のことやら……」


「そしてこの学園に来てからと言うもの、あなたはまるで別人になった。いや別人ね。でもどこかで既に会った気だけはずっとしていた。気のせいじゃない。間違いなくあの夜のあなたよ」


オリヴィアの言葉に、イエルチェが侍従らしくない態度で肩をすくめて見せた。 


「初めは何であなたなのか、よく分からなかったけど、あの男が選ぶだけのことはあるわね。少なくとも洞察力はある」

 

「あの男?」


「それは教えないわよ。だけどあなたも不思議な子ね。どれが本物なのかよく分からない」


「本物って?」


「友達を思っている時のあなたが本物? 初恋に乙女心を燃やしているあなたかしら? それとも友人達に抱く嫉妬心をひた隠しにするあなた? その全てを隠して優越感に浸っているあなたなの?」


「どれも私よ。私はあなただし、あなたは私だから。それに私はこの世の全てを恨んでいた人間なの。母親を心から憎む様な娘よ。きっと私があなたに助けてもらえたのも、私があなたと元々似ている存在だったからじゃないのかしら?」


「ならば答えは簡単ね。この件も、この馬車の御者に座っている坊やの企みも、全ては面白いから付き合っているのでしょう」


「一番楽しいのは何かわかる?」


「ええ、知っているわよ。あの赤毛の女の子。あなたは彼女が欲しいのね。そして同時にそれを一番疎ましくも思っている」


「大当たり。でも当たり前よね。私はあなた、あなたは私ですもの」

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