欺瞞
馬車の中はとても静かだった。驚愕と興奮が過ぎ去った後の焦燥だけがある。座席に座る三人が三人ともそれを表に出さないようにしているが、この場を静寂と呼ぶにはそれぞれがあまりにも息を張り詰めた表情をしていた。
「イアン!」
その張り詰めた空気をヘルベルトが破った。そして何かを問いかけようとしたイアンに向かって、口元に人差し指を当てて見せる。
どうやら魔法職たるヘルベルトにしか見えて聞こえぬ何かが、馬車の中に現れたらしい。ヘルベルトが目を閉じて集中する姿を、イアンとイサベルはじっと息を潜めて見つめた。
「イアン――」
再びヘルベルトがイアンに声をかけた。
「王妃様からの連絡だ。王妃様はすでにもう南区に入られたそうだ。こちらに行き先を聞いてきた。どうする?」
「先ほどの相談通りにともかく予定通りだ。それ以外のことをした方がやはり危険だろう。エルヴィン君達の道場、ドミニク道場へ向かってもらう」
「危険の件は知らせるのか?」
「おそらく言っても母上はそれを取り合わないだろう。話が複雑になるだけだ。それとヘルベルト、お前の方から向こうに秘密裏に連絡は送れるか?」
「それは無理だな。この馬車の中は覗けないように紛れはかけているが、こちらから使い魔など送ったら間違いなく王宮魔法庁の連中にバレる」
「それならドミニク道場の近くに来たら、連絡をくれるように言ってくれ」
ヘルベルトは杖を出すと、馬車の床に小さく模様を書く。そしてしばし目を瞑ったが、すぐに開けて床の模様を消した。どうやらヘルベルトに語りかけていた何かはどこかへと消え去ったらしい。
「こちらの動きは学園を通じて内務省、王宮にも筒抜けだ。だから南区まではバレているだろうが、正確な目的地については知らないはずだ。つまり母上を狙う誰かがいるのであれば、こちらをつけるしかない」
「紛れはかけていても、それが効くのは魔法職相手だけだからな。おそらく目につかない他の手段で俺たちを追っているのは間違いない」
「ならばこちらは母上よりも後に着くべきだ。こちらをつけてきた連中が、母上を待ち伏せするなんて事態だけはなんとしても避けないといけない」
「この馬車はもうすぐ南区へ渡るメナド大橋の手前まで来ていますが、南区にすでに入っていらっしゃる王妃様の方が、道場には間違いなく先に着くのではないでしょうか?」
不意に二人の会話にイサベルが割り込んだ。その言葉にイアンとヘルベルトが互いに顔を見合わせる。
「南区での移動手段が何かにもよりますが、母上は方向音痴というより、間違いなく間違った方向へ進むという特技を持っています」
「えっ!」
「それについては俺も同意だ」
驚いたイサベルに向かって、ヘルベルトも頷いて見せる。
「こちらはエルヴィン君とヘクター君の案内がある上に馬車だ。このままだと我々の方が先についてしまう。だが下手に速度を落とすなんてことをすれば、イサベルさんのいう通りにこちらが気がついていることがばれるな」
イアンが少し困ったような顔をして答えた。
「でも南区だぞ、メナド川に大型船が来れば、橋が上げられてそこで足止めを食うから――」
「無理だな」
ヘルベルトの言葉をイアンが途中で遮った。
「むしろこちらの露払いを喜んでしてくれているはずだ」
「そうだったな。これだけのことが仕掛けられる相手だ」
「自然に時間稼ぎが出来ればよろしいのでしょうか?」
「はい、ですが――」
イサベルの提案に、イアンは声のした方を慌てて振り向いた。
「私が馬車に酔って、気分が悪くなったことにすればいいかと思います。それに背後の馬車に乗るオリヴィアさんにも、この件について予め伝えておく必要はありませんか?」
「そうですね。先に伝えておかないと、何かあった時の初動が遅れる可能性はあります」
「では、ヘルベルトさん。御者に馬車を止めるように伝えてください」
「今すぐにですか?」
当惑した表情を浮かべつつ、ヘルベルトがイサベルに確認した。
「はい。私たち貴族の家の女は生まれてからこの方、ずっと誰かに演技をして来た様なものです。この程度のことはさほどのことではありません」
そう言うと、イサベルはイアンとヘルベルトに向かって、小さく笑みを浮かべて見せた。
道端でハンカチを口元に当てて俯くイサベルの耳に、誰かが道をこちらに走ってくる足音が聞こえた。それは男性のものとは違う、小走りでもっと軽い足音だった。
「イサベルさん、大丈夫ですか?」
少し息を切らせたオリヴィアがイサベルに声をかけた。
「はい。少し馬車に酔ったみたいです」
「お水をお持ちしました」
そう言うと、オリヴィアは銀色の金属でできたスキットルの様な水筒をイサベルに差し出した。
イサベルは俯いたままそれを受け取ると、小さく口に含んでわざとそれを地面にこぼして見せる。オリヴィアが心配そうにイサベルの顔色を伺うと、その姿勢は丁度イサベルの顔を横から覗き込むような感じになった。
「オリヴィアさん、話があります。落ち着いて、誰かに気取られない様に聞いてください」
オリヴィアはちょっとだけ慌てた様子を見せたが、目でイサベルに分ったと合図を送ると、イサベルから水筒を受け取り、それでハンカチを水に濡らしてイサベルに差し出す仕草をした。オリヴィアの顔がよりイサベルの近くによる。
「どうやら、この件は誰かに利用されている様です」
「利用!? 誰が何のためにです?」
「目的は私たちでは無い様です。イアン王子様の母上のセシリー王妃様を狙っているものが、この件を利用している可能性が高いのです」
そこでイサベルは再度水筒から水を含んでみせた。
「では学園に戻って――」
「王妃様はすでに南区まで入られています」
「それならば、すぐに王妃様に危険を知らせるべきではないでしょうか?」
「はい。それも検討したのですが、より危険が高いと言う結論になりました。相手が自然な事故に見せかけようとしているのであれば、気付いていない振りをすることで、こちらが付け入る隙があるかもしれません」
イサベルはそこで一度言葉を切ると、オリヴィアの肩を借りる振りをして、その耳元に口を寄せた。
「ですが、セシリー王妃様が王宮を出られたこの千載一遇の機会を狙うことを優先すれば――」
「既に手遅れだと言う事ですか?」
「はい。そうなると思います。でもこちらの目的地はまだ知られていないはずです。このまま南区まで予定通りに行き、そこで王妃様と合流でき次第、一目散に馬車で逃げます」
「フレデリカさんはどうなるのでしょうか?」
オリヴィアが再びハンカチを水で濡らすふりをしながら問いかけた。
「うまくいけばフレデリカさんとも合流できるかもしれません。ですが今回はセシリー王妃様の安全が優先です。フレデリカさんの抜け出しについては南区ではぐれたとか、後で色々と理由はつけられると思います」
「そうですね。私たちが学園から出て南区まで行ったという事実さえあれば、何とかなりますね。でも、ここで止まっていてもいいのでしょうか?」
「はい。私たちが先に到着してしまうと、王妃様を待ち伏せされてしまいます。なので王妃様が先に目的地に着いている方がまだ安全です。そのための時間稼ぎです」
「そう言うことなのですね」
そう告げると、オリヴィアは小さくため息をついた。
「すいませんが、オリヴィアさんにも色々と覚悟をしておいていただきたいのです。そしていざという時は身の安全を優先してください」
「分かりました。イサベルさんも十分に気をつけてください」
オリヴィアは何の躊躇も見せずに答えた。その台詞にイサベルの表情が曇る。
「オリヴィアさん、こんなことに巻き込んでしまってすいません。私が浅はかでした」
「浅はか? 何の話です?」
「イアン王子様にお願いした事です。まさかこんなことになるとは思いませんでした。それに怖くはないのですか?」
「元々わがままを言い始めたのは私の方です。私はこの学園に来る前まで毎日、明日の朝はもう目を覚ますことはないかもしれないと思って生きてきました。むしろこうして生きていることが不思議なくらいなんです。だから慣れているのかもしれません」
そう答えると、オリヴィアはハンカチを口元に当てたままクスリと笑ってみせた。
「それにイサベルさん、お友達というのは迷惑をかけるものです。お互いが迷惑をかけあえるから、それが許されるからこそお友達なんです」
「オリヴィアさんは私なんか足元にも及ばない、本当に強い方ですね」
「違います。これは私が入学式で初めてフレデリカさんに会った時、彼女が私に掛けてくれた言葉です」
「フレデリカさんがですか?」
「誰が一番強いかという点で言えば――」
「間違いなくフレデリカさんが最強ですね。丁度いい頃合いの様です。私は馬車に戻ります。オリヴィアさんも十分に気をつけてください」
「はい。イサベルさんもお気をつけて」
二人は道端から離れると、それぞれの馬車へと戻っていく。二人が去った後は、草の中で弱々しい虫の音が微かに響いているだけにしか見えなかった。