彼氏
「――邪魔だと言うのが聞こえなかったのか」
誰かの声が聞こえてきた。夢の中にどこかのおっさんでも出てきたのだろうか? いや違う。どうやらよく寝ていたのに、起こされて誰かの話し声が聞こえてきたのだ。
まだ目が開かないのでよく分からないが、頭が何か固いものの上に乗っていて、いまいち座りがよくない。肩や背中にも痛みがある気がする。
これは体を伸ばさないとガチガチに固まるやつです。とりあえず、寝ぼけ眼のまま腕を上げて背伸びをする。どうやら昨日の夜からの気疲れのせいか、思いっきり熟睡してしまった様です。
そもそもこの馬車の油が切れかかった車軸のギーーという音と、ちょっとばかし大きな揺れが良くありません。何かの呪文のように人を深い眠りへと誘ってくれます。それでも背伸びのお陰か、やっと目の焦点が合ってくる。
「うん?」
次第にはっきりしてきた視界の目の前で、知らないおじさんと、短い髪を逆立てたお兄さんが私を見ています。隣を見るとトマスさんも呆気に取られた顔で私を見ている。一体なんなんです?
それよりも、寝ている間にこれだけ注目されているという事は……。
『いけません!』
これは間違いなく乙女としてはあり得ない何かをしていたに違いありません。乙女は決していびきなど掻いてはいけないのです。
ともかくここは愛想笑いです。それしかありません。こちらは乙女ですから、これで全てが許されるはずです。
「へへへ」
ともかく口の端を持ち上げて、目の前にいる白髪が目立ち始めた初老の男性に向かって愛想笑いをしてみる。だけどその表情は全く変わらない。いや、むしろ不審者を見るような目つきでこちらを見ています。
その眼光は鋭く、それに体つきもとてもがっしりとしている。この感じはどこかの工房の親方だろうか? その姿に思わず前世での店のお得意さんを思い出す。
そこの工房の奥さんは本当にいい人で、売りに行くといつも貰い物とか言って、お茶とちょっとしたお菓子なんかをくれる人だった。
旦那さんの親方も口数が少なく、目の前のおじさんの様に愛想がない人だったけど、家族や弟子たちのことをとても大事にする人だった。
思わず前世で自分が生まれた街を思い出して、涙が流れそうになる。涙をこらえようと俯いた視線の先に、おじさんの抱えていた皮の鞄の中に、何かを包む白い布があるのが目に入った。
「あ、白詰草。それにてんとう虫」
思わず口から声が漏れた。そこには市場で買ったエプロンと同じ柄の四葉の白詰草と、小さな赤いてんとう虫の刺繍がある、
「これってお弁当包みですよね?」
私がそう告げると、初老の男性が少し驚いた様な顔をした。
「弁当包み?」
おじさんは私に答えると、鞄の中にチラリと目をやって怪訝そうな顔をしている。
「見てください。私のエプロンにも同じ模様があるんですよ」
エプロンの裾を持ち上げておじさんに見せる。そこにはおじさんのお弁当包みと同じ絵柄、四つ葉の白詰草と赤いてんとう虫の刺繍がある。
おじさんの視線がエプロンの方へ向かい、そして納得したように頷くのが見えた。よかったです。どうやら私の話の意味はなんとか通じてくれた様です。
よく見ると右目の上下に縦に大きな傷がある。だけど目は大丈夫そうだ。そう言えば、前世の一の街の工房の親方も左腕に大きな傷があり、右手の指がいくつか欠けていた。
一度話を聞いてみた時に、若い時に飛ばしちまったと豪快に語ってくれたのを思い出す。
「とっても可愛らしいお弁当包みですね?」
そう告げた私の目の前を、何か邪魔なものが行き来する。見ると隣に座る無神経男が慌てた様子で私に向かって手を振っていた。
思いっきり邪魔です。人間関係というのは愛嬌が全てなんですよ。先ほどの市場でもそうですが、この男はそれが全く分かっていません。
これは商人にとっては剣士の間合いと同じ物なのです。女性同士の会話だとほとんど果し合いの様なものになることすらあるのですよ。何も戦いとは剣を取り合ってやるものとは限らないのです。
「これを選んだのは奥さんですか? それとも娘さんですか?」
隣でトマスさんがギョッとした顔をしている。これはお店での会話なら、どれだけの量をおすすめするべきか知る為に必要なんです。家族が何人か分からないと困るじゃないですか? 君はもう少し世間というのを勉強しなさい。
「うちの婆さんな訳がないだろう。娘はとっくに嫁に行ってみんな子持ちだ。これは孫が選んでくれたものさ」
「それでとっても可愛い布なんですね。お孫さんはおいくつですか?」
「うちの孫か?」
男性の顔が緩む。やはり世のおじいさん、おばあさん相手には孫の話は無敵です。
「え、まさかそちらの息子さんにはまだお孫さんはいないですよね?」
隣にいる少し目が悪そうな男性に声をかけた。またもやトマスさんがぎょっとした顔でこちらを見る。もういちいち大袈裟ですね。こうやってわざと滑るのは大事なんです。相手が話を勝手につないでくれます。
「息子? こいつがか!?」
無精髭と髪型でよく分からなかったが、よく見るとまだ若い男性だ。少し慌てた顔をしているのを見ると、見かけと違って、実は純情なのかもしれない。
「違うんですか?」
バン!
初老の男性が若い男の背中を思いっきり叩く音が馬車の中に響いた。男性がよろめいてトマスさんの席の背もたれに手をつく。その顔が面前に迫って、トマスさんが大きく仰反るのが見えた。
その姿に思わず大笑いをしたくなりますが、ここは我慢です。まだこれを大笑い出来るほどの人間関係はありません。
「こいつは不肖の弟子だ。いまだに玉鋼の一つまともに打てない半端者だよ」
「鋼って、おじさんは鍛冶屋さんですか? だからとっても力持ちにみえるんですね」
「小娘、おやっさんをその辺の鍛冶屋と一緒にするだなんて――」
若い男性がこちらを睨みつけている。いけません。もしかしたら、このおじさんはとっても有名人だったのでしょうか?
「てめえは口を閉じていろ!」
バン!!
初老の男性のドスの効いた声と共に、背中を打つ大きな音が響いた。若い男性が再び苦痛に顔を歪める。どうやら師匠にとても可愛がられているみたいです。
同意を求めるべく隣を見るが、横に座る無神経男は馬車に酔ったのか、相変わらず青ざめた顔をしているだけです。それに馬車の乗客も御者さんもこちらの方をじっと見つめています。
『いけません!』
馬車の中だと言うのを忘れていました。それに二人ともまだ立ったままです。
「気がつかなくてごめんなさい。トマスさん、何をしているんです。さっさとそっちに詰めてください」
「え、あんたが寝ていたから――」
無神経男が余計な口を開こうとしていますが、その体をお尻で押してやる。本当に間が悪い男です。
「早くしないと馬車が出発できないじゃないですか!」
トマスさんの腰をこちらの腰でこれでもかと押してやると、馬車の端におじさん一人分ぐらいの席が空いた。だけど二人は無理だ。
「おじさん、一人分は空きましたよ。二人分は無理かな? 反対側に座れませんかね?」
「なにお嬢さん、橋を渡るだけだ。大した距離じゃない。ヤス、お前は床にでも座っていろ。それよりもさっさと料金を払え」
「は、はい」
ヤスと呼ばれた若い男性が慌てて返事をする。やはり見かけと違って中身は真面目な人らしい。
「かわいそうですよ。トマスさんの方が細いから代わりに床に――」
「ちょ、ちょっと待て!」
やはりボケという言葉が分からないつまらない男の様です。関西人には決してなれないですね。あれ? 関西人ってなんだ? 私にはやはり色々と変なものが混じっている様ですが、とりあえず今はどうでもいい話です。
「ハハハ、お嬢さん。それはいくらなんでも彼氏に悪いんじゃないのかい?」
「彼氏?」
おじさんの言葉に思わず首を捻りそうになったが、今日の設定を思い出して、慌てて隣の男性のものとは思えない細い腕に自分の腕を絡める。
「ああ、そうでした。彼氏、彼氏でした。へへへ、似合いますかね?」
横に座った初老の男性に聞いてみる。見えないと、行先で男性に声を掛けられたりしたら面倒ですからね。
まあ、私に声を掛けてくる男性などいないと思いますが、イサベルさんやオリヴィアさんが一緒だと、間違いなく大変なことになりそうなので、三人で来るときは帽子を被るとか対策が必要ですね。
「似合う? まあ俺から言わせればお嬢さんは、その兄ちゃんには勿体無いくらいだな。おい、あんたもそう思っているんだろう?」
そう言うと、トマスさんに同意を求めた。
「え、あ、あの……」
思わず口からため息が出ます。トマスさん、ここはボケるところですよ!
「てめぇ、おやっさんが聞いているんだ。さっさと――」
ドン!
声を上げた若い男が、初老の男性の足に蹴っ飛ばされて慌てて口を閉じる。やはり彼は親方にとっても愛されている様です。
「うちの彼氏はとっても恥ずかしがり屋さんなんです。それよりもおじさん、その右目は随分と酷い怪我をしたみたいですけど、目は大丈夫なんですか?」
「これか? これはこいつぐらいの年でまだ碌な腕もないのに、大金槌でヘマをこいた時に作ったやつだ。運がいいことに片目にならずに済んだ」
「それは不幸中の幸でしたね。可愛いお孫さんを見るのに、片目ではもったいないですよ」
「もったいないかい?」
「はい。そうです」
「でもうちの孫が可愛いと言うのはなんで分かるんだ?」
「その白詰草にてんとう虫を選ぶ子なら、可愛いに決まっています。だって私が選んだエプロンと同じですよ!」
「違いないな。フハハハハ」「フフフ」
二人で声を上げて笑う。そうでした。まだ挨拶をしていませんでした。やはり挨拶と乾杯は大事です。
「初めまして、私はマリと申します」
改めておじさんに挨拶をして右手を差し出す。やはり呼び慣れているせいか、マリの名前だと偽名もすんなりです。
「マ、マリ!」
だけど横から余計な声が上がる。どうにも間が悪い男です。
「なんですか? 人の名前を今頃になって気がついたみたいに呼ばないでください。そんなことよりトマスさん、何をしているんです。挨拶は大事ですよ」
「ト、トマスです」
「俺は鍛冶屋のザンスだ。そこにいるのが弟子の一人でヤスだ」
私が差し出した手をザンスさんはしっかりと握ってくれた。それは大きな、そしてとても厚い手だった。手のひらにいくつもの固くなった豆があるのを感じる。まさに働く男の手だ。
この手できっと家族を養い、弟子たちを育ててきたのだろう。間違いなく尊敬出来る手だ。それをトマスさんに告げようとした時だった。馬車の中を一陣の風が吹き抜ける。その風は私のおろしていた髪を前へと巻き上げた。
それはメナド川の川面に吹く風だった。気がつくと、いつの間にか馬車はメナド川にかかる大きな橋の上を渡り始めている。その長い橋は下を通る船のために真ん中は水面よりかなり高くなっているのが見えた。馬車はその橋の上の坂道を真ん中に向けてゆっくりと上がって行く。
「ハイホー!」
御者が馬に気合を入れる声がした。橋を登る坂はそれなりに急で、馬の激しい息遣いも聞こえてくる。橋の下に目をやると、一杯に木箱を積んだ平底船が下を通り過ぎようとしていた。船の前で白波が立っているのは、船を引っ張っている海馬達が上げている飛沫だ。
「トマスさん、見てください。本当に長い橋ですね」
「なんだい、嬢ちゃんは南区に来るのは初めてかい?」
「はい。初めて南区までお使いを頼まれたので、トマスさんにも一緒に来てもらったんです」
「そうかい。ちょうどいい時に来たな。今日は帆を張る大型船が少ないから、橋の真ん中を跳ね上げて通行止めになる時間が短くて済んだ。多いとはね上げられっ放しになって、まるで陸の孤島だからな」
「そうなんですか? 一度は跳ね上げるところを見てみたいですね」
「風車に繋いだ鉄鎖の巻き上げ音が耳に痛いだけだが、初めてみる分には物珍しくていいかもしれんな。それに南区は運河が多い上に、建物が密集していて迷路みたいな所だ」
馬車は板で出来た橋の中央を、木が軋む音を立てながら渡っていく。進行方向には橋の巻き上げ用らしい大きな風車と、その背後に背の低い建物の密集した街並みが見えてきた。
「私はこちらの街並みの方が落ち着きます。昔に住んでいた街もこんな感じでした。最もこんなに大きな街ではなかったですけど」
隣でトマスさんが不思議そうな顔をする。たまには前世の思い出に浸ってもいいと思うんですけどね。
ガラン!ガラン!
御者のベルの合図で馬車が速度を落とす。気がつくと馬車は長い長い橋を渡り終わって、反対側の橋のたもとの近くまで来ている。
程なく馬車は橋を渡ってすぐの馬車駅に止まった。乗っていた客達が次々と馬車の後ろにある昇降口から馬車を降りていく。私も立ち上がって馬車を降りようとしたが、隣に座るザンスさんが私の袖を軽く引いた。
「マリさんだっけかな」
「はい。気をつけな。今日は色々と面倒がありそうな日だ」
そう告げると、ザンスさんが背後の方を指差す。首を回して背後を窺うと、何人ものいかにもやばそうな感じの男達がこちらに向かって来るのが見えた。
「あの人たちですか?」
「そうだ。どこかの顔役が探しているやつが南区にでも逃げ込もうとしているのかもしれない。この辺りじゃたまにあることだ。だが警備庁の山じゃないと言う事はよりやばいやつだな。ヤス!」
「なんすか、おやっさん!」
「この子の横について、彼氏と二人で挟んでいきなり引っ張られないようにしろ。お嬢ちゃん。あんたは俺の後ろから降りるんだ。そしてあんたは俺の身内のマリさんだ。いいな?」
「は、はい」
「あ、あの、何か?」
馬車の昇降口の向こうから、若い女性の戸惑う声が聞こえてくる。
「お嬢さん、ちょっと面を確認させてもらってもいいかい」
先に降りたお手伝いさんらしい子が、男達に囲まれているのが見えた。どうやら南区がやばい地区だと言うのは決して嘘ではないらしい。少なくとも女性に対して失礼過ぎです。