侯爵令嬢
マリアンの視線の先で、黒い煙がとめどなくロイスの体から湧き上がってくるのが見えた。それは黒い腕となって体を何重にも縛り上げている。そして上へ上へと伸び上がると、その先端を何かの形へと変えようとしていた。
「同じだ……」
マリアンの口から声が漏れた。それはマリアンの目の前で先端を無数の小さな赤子の手の姿に変えていくと、何かを探すようにロイスの寝台の上で蠢き続ける。
マリアンはこれに出会った時のことを思い出した。この世界の記憶ではない。フレデリカと冒険者をしていた前世で、監獄と呼ばれる場所で見たものだ。
正しくは見たとは言えないのかもしれない。それを見たのは自分の意識が、いや、自我が失われる瞬間、消えゆく意識の中で見たものだ。無数の黒い腕と手が自分の魂をがんじがらめに縛り上げて奪おうとしていた。
それは当時の風華、今世のフレデリカが、「神もどき」と呼んだ巨木の様なマ者から伸びていた見えない触手だった。それに捉えられたものは自我を失い支配される。それと同じものがロイスの体の上で蠢めいていた。
「ロイス、いつから――」
だがマリアンの叫びに、寝台の上で横たわるロイスはやつれた顔に当惑の表情を浮かべているだけだ。
『ロイスには見えていない』
その表情に、マリアンはこれが自分だけに見えているものだということを理解した。もしかして自分はおかしくなってしまったんだろうか? いやそんな事はない。この世のものとは思えない情景とはいえ、それはあまりにもはっきりと見えている。
その時だった。小さな腕の一つがゆっくりと持ち上がると、何かに反応したかの様にマリアンの方へと手を向けた。そう思った瞬間、それはまるで放たれた矢のごとくマリアンへと向かってくる。マリアンは咄嗟に体を捻ってそれを避けたが、その指先がマリアンの体をかすめた。
『ああああああ!』
そのあまりにおぞましい感触に、マリアンの心が悲鳴をあげた。同じだ、全く同じだ。前世で神もどきにあった時のことを、その時に自分があまりにも無力だった記憶が蘇る。だが同時に誰かの声がマリアンの頭の中に響いた。
「実季、しっかりして! 貴方は私の弟子よ! こんな奴に負けるんじゃない! あなたがこんな奴に負けるなんて、私が絶対に許さない!」
そうだ。あの人は私のために体を張ってこれを払ってくれた。自分にだって――
マリアンは侍従服のスカートをたくし上げると、太もものガーターベルトに隠し持っていた短剣を抜く。そして寝台の上の黒い手に向かって切り付けた。
「あああああ!」
あまりのおぞましさに、今度はマリアンの口から悲鳴が漏れる。
「マリアン!」
ロイスの口からも驚きの声が上がった。マリアンが振るった短剣には全く手応えはない。黒い腕と小さな手はまるで風にそよぐ葦の様にロイスの体の上でその身を泳がせている。それに触れた瞬間に体が、心が、とても言葉になどできない悪寒に震え、侵入しようとしてくる何かから必死に耐えただけだ。
「な、何を……している」
「ロイス。あなたには見えないと思うけど、あなたの体にはとんでもないものが巣食っている」
「ア……アルマか?」
「間違いない。私が知っているそいつは人の心を支配するやつだった。でもこれはあんたの魂を蝕もうとしている。ごめんなさい。私ではこれはどうすることもできない。でも、ロイス。あの人なら。あの人ならあなたを救える」
「アルマから、今すぐに、逃げろ。お前まで……」
「何を言っても逃げないわよ。あの人も逃げなかった。そして私の命を救ってくれたの。あの人をここに連れてくる。だからロイス、もう少し、もう少しだけ頑張って!」
* * *
トマスは馬車の上で揺られながら、何とも居心地の悪い気分を味わっていた。他の地区へ行く馬車に比べて古く、明らかに乗り心地も良くない。
そもそも何でお使いをさぼって、こんな馬車に乗っているのか自体もよく理解できない。いや理由は良くわかっている。我儘娘のせいだ。だが何でそんな目に会うことになったのかがよく分からない。
それに乗客が集まるまでだいぶ待たされてもいた。これでは王都の中心部にあるとは言えないカスティオールの屋敷に戻るのはだいぶ遅くなる。トマスはお屋敷の東館の侍従長であるコリンズ夫人から受けるであろう山程の叱責を思い浮かべると、思わず身震いをした。
南地区は文字通り王宮から見てメナド川の本流を渡った南側、王都の中心部からも少し離れたところにある地区だ。
元々は王都の荷物の集積所だったところで、メナド川から引き込まれた運河が縦横無尽に走っている場所でもある。ある意味では王都の一部というより独立した町のような存在だ。
だが低地であるが故に水害にたびたび見舞われており、メナド川を遡ってくる平底船の大型化に伴い、その狭い運河が手狭になると、船着き場は本流の北側、王都の中心部に近いところへ移ってしまった。その後は小さな工房や、中心部に住めないような低所得労働者の住宅街になっている。
新しくできた北側の大運河と、メナド川の堤防の間に囲まれた灰の町ほどではないにせよ、柄がいいところでは決してない。
もちろん南区に屋敷を構えるような貴族の家などは存在しなかった。故にそんなところへお使いに行く貴族の屋敷の侍従もいない。なのでフレデリカが侍従服を着替えたのは正しいと言えた。
この乗合馬車にもどこかの家のお手伝いらしい、紺の服にエプロン姿の地味な顔の少女がいたが、トマスから見たら貴族の屋敷にいる侍従とは全くの別物だ。何せ仕立てから振る舞いまでまるで違う。
それでも住宅街や工房になっている王都に近いところはまだマシだ。そこから南に行くに従って、周辺から流れ込んできた流民達が住むスラム街の様相になる。
そこがどれだけ危険なところなのかは、田舎から出てきたばかりの時、南区で小さな工房をやっている遠い親戚のところに厄介になったトマスはよく分かっていた。
家の者からある運河の先には絶対に行ってはいけないと口うるさく言われていたし、家の窓という窓に鉄格子が嵌められ、地区の間に柵があるのにも理由があるのだ。
実際、この南区行きのバスに乗っている乗客の服装も、王都の者達とは明らかに違う。落ち目のカスティオールとはいえ、王都の貴族の家で勤めてしばらくになるトマスでさえも、この乗合馬車の中では十分に浮いている。
「ふーごー」
トマスの居心地の悪さの原因のもう一つから、寝息と呼ぶにはいささか大きな音が上がった。そこではなぜか赤毛を栗毛に染めた少女が、トマスの肩に頭を乗せて大口を開けて寝ている。トマスの上着の肩についている小さな染みは間違いなく彼女のよだれだ。
トマスが密かに心を寄せるマリアンも謎な人物だが、トマスからしてみれば主人のこの少女も謎だ。というより得体がしれないとしか言えない。
屋敷に勤め始めた頃は、引っ込み思案で特に何か主張する訳ではない、ともかく頭の中にお花畑が咲いているとしか思えない子だった。
その振る舞いはぼーっと花壇で花の世話をしているか、どこかでメソメソと泣いているかのどちらか。トマスとしても、貴族の令嬢なんてものはそんなものだと思っていた。
だがある日突然に何かに目覚めたかのように快活になったと思ったら、カミラ奥様の嫌味も意地悪も全てへっちゃらになり、皿の下にメモを隠して自分に女性の下着の値段やら、王都での移動の方法などを聞き始めてきた。
挙句の果てには灰の街へお使いに行けなど、ともかく我儘放題のやりたい放題だ。悪魔に魂を乗っ取られたのだと聞いても、トマスとしては驚きはしない。ただし未だにコリンズ夫人やロゼッタさんには敵わない点は同じだった。
当たり前だ。あの二人には魔王だろうがなんだろうが敵うわけがない。いや、コリンズ夫人が大魔王その人だとしても、トマスとしては想定内と断言できる。
今日の買い物でも、支払いの時に店のおばさんと世間話をしながら、エプロンも一緒に買うから少しまけて欲しいとか、さりげなく帳場に飾ってあった小さな赤子の似顔絵を見つけては「お孫さんですか?」と聞いて、とてもそっくりで可愛らしいとかお世辞まで言ってのけた。
そのせいか、一見の客だと言うのになんだかんだでとてもまけてもらっている。市場の店でこれほど上手に代金をまけさせる貴族の令嬢など聞いたことがない。いやそもそも市場に買い物になどいったりはしない!
店を出る頃には周囲の店のおばさん達まで集まって来て、茶飲み話でもするかの有様だった。遠慮のないおばさん達に「この幸せ者!」とか言われて、小突かれまくった背中や脇腹がまだ痛む。
この大口を開けて寝ている少女は本当に侯爵令嬢、しかも家の跡を継ぐ長女なのだろうか? もしかして実は影とかで、本物はどこか別のところ、領地に旦那様と一緒にいたりするのではないだろうか? 馬車に揺られながら、そんな妄想がトマスの頭の中を行き来する。
ギィーーーー!
ほとんど荷台のバネが効いていない馬車が、制動板と車軸の軋む音を立てた。どうやら客が乗ってくるらしい。気がつくと馬車は南区の入り口。メナド川を渡る南大橋のたもとまで来ている。
止まった拍子にフレデリカの頭がガクンと動くと、女性らしい柔らかい体がトマスの胸の上にまともに乗った。
「ひっ!」
トマスは口から悲鳴の様な声を上げた。向かいに座ったお手伝いさんらしい少女が、不思議そうな顔をしてトマスを眺めている。トマスは慌てて作り笑いを浮かべると、フレデリカの頭を自分の肩の方へと押し返した。
「おい、もっと席を詰めろ!」
不意に乱暴な声が馬車の後ろの昇降台から響いた。続いて背の高い筋肉質な男が、馬車の床を大きく踏み鳴らしながら荷台へと登ってくる。短く刈り込んだ髪を逆立てて、使い込まれた皮の上着を肩に引っ掛けた、とても目つきの悪い男だ。
「俺はもっと詰めろと言ったんだぞ!」
男はそう怒鳴ると客の方を睨んだ。そして床に置いてあった誰かの荷物を蹴っ飛ばす。トマスの目の前を蹴飛ばされた荷物がまるで蹴鞠のようにすっ飛んでいく。その声と態度に、トマスの前に座るお手伝いさんの少女が、慌てて馬車の前の方へと身を寄せた。
「ヤス、時間がないんだ。さっさと奥にいけ!」
その背後からさらにドスの効いた低い声が響いてきて、乗客の顔がさらに緊張する。
「おやっさん、すいません。すぐに席を開けさせますので、ちょっとだけ待ってください」
その声に男が昇降台の先に向かって慌てて頭を下げる。やはり南区は王都の一部なんかじゃない。ここは弱肉強食の別の街なんだ。トマスの背中に冷たい汗が流れる。
「おい、あんちゃん。お熱いのは分かるが、もっと端によってくれないかな?」
「は、はい!」
トマスは慌てて隣のフレデリカの肩を叩いて起こそうとした。だがどんだけよく寝ているのか、頭をぐらぐらとさせるだけで反応がない。気がつくと男が口を開けて寝ているフレデリカの顔をじっと見つめている。トマスの背中をさらに冷たい汗が流れた。
「なんだい。随分と可愛い子を連れているじゃないか? お疲れかい? 狭いからな。俺が膝の上に乗せてやるよ」
そう言うと、卑下た笑いを浮かべつつ、フレデリカの方へ手を伸ばす。トマスとしては行きがかり上、その手からフレデリカを守らないといけないと分かってはいるのだが、蛇に睨まれたカエルのように体が動かない。
そんなことを考えている間にも、男の手はフレデリカの胸の方へ伸びていく。他の乗客は見て見ぬふりをしているだけだ。
「ヤス、邪魔だと言うのが聞こえなかったのか」
再び低いドスが効いた声が上がった。フレデリカに手を伸ばしていた男は慌てて体を起こすと、直立不動の姿勢を取る。
声に続いて、昇降台からどっしりとした白髪まじりの男が乗ってきた。その初老の男性の眼光はとても鋭く、顔の右側には右目の上下に刻まれた切り傷もある。間違いなく只者ではない。その姿はトマスに灰の街で自分を取り囲んだ男達を思い起こさせた。
「う〜〜〜ん!」
不意にトマスの横で何かが動く気配と共に、間の抜けた声が上がる。トマスがそちらに視線を向けると、そこにはフレデリカが寝台の上でよく寝たとでも言うように、大きく腕を上げて背伸びをする姿があった。