市場
「あの、すいません。南区行きの馬車はどの辺りからでていますでしょうか?」
停車場で掃除をしていたおじさんに声を掛けてみる。ジャネットさんは待っていろと言ってくれたけど、流石にそこまで手伝ってもらうのは悪るすぎるので、とりあえず自力でなんとかすることにしたのだ。
だけどおじさんは私の問いかけには答えずに、私の顔をまじまじと見ている。もしかして髪をそめるのに失敗して、顔に変なものでもつけてしまったのだろうか?
「南区行きのバスはここからは直接には出ていないよ」
しばしこちらを眺めた後で、やっとおじさんが私に答えてくれた。おかしい。トマスさんはここから王都のほぼ全ての場所へ行く馬車が出ていると言っていたが、やつに嘘を付かれたのだろうか?
「お嬢さんはどこかの貴族のお屋敷の侍従さんかい?」
「はい」
「もしかして、どこか地方から奉公に来たばかりかい?」
なぜでしょう? 南区に行きたいと言っただけなのに、実質的なお上りさん状態がばれてしまっています。
「そ、その様なものです」
「なまりはないけどそうみたいだね。それはきっと屋敷の誰かに担がれたんだよ」
「はあ?」
「あんたみたいな人が南区にいったりしたら、間違いなくろくな目に遭わないよ。まあ川沿いの灰の街に比べたらましなんだろうけど、あんたみたいな侍従のお嬢さんが行くようなところじゃない」
「そ、そうなのですか?」
灰の街という言葉に思わず嫌な記憶が呼び起こされた。あのマリと会う原因になった男達に再び会うことがあったら、マリと一緒にメタメタにしてやります。
前世ではこれでもマ者達と切った張ったしていたのです。私一人だってせめて噛み付くぐらいと種火ぐらいつけられることを教えてやります。一体どこに噛み付いてやれば一番痛いだろうか?
「お嬢さん、やっぱり担がれていたんだろう?」
しばし考え込んでいた私に、おじさんが当惑気味に声を掛けてきた。
「いえ、どこが一番の致命傷になるか考えていました」
「致命傷?」
おじさんが怪訝そうな顔をする。いけません。またも心の声が漏れていた様です。
「心の声です。忘れてください」
灰の街もトマスさんに一人でお使いを頼んでも生きて帰ってこれたから、それよりマシな南区は私一人ぐらいはなんとかなるかもしれない。
だけどイサベルさんとオリヴィアさんという、学園の一年生切っての美少女二人を連れていくのは問題がありそうな気がする。
二人には炭を使ってその美貌を隠してもらわないと、男がわんさか寄って来て間違いなく危険だ。恋する乙女のオリヴィアさんはやると言うかもしれないが、イサベルさんはどうだろう。その場合は運動祭の賭けの一部と言う事で納得してもらう他ない。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
おじさんが再び当惑した表情で声を掛けてきた。
「はい。炭を使えばなんとかいけそうな気がします。それよりも南区ですが、お使いで行けと言われているので、どうしてもそこまで行かないといけないのです」
「炭? よく分からないが、南区に行くにはここからすぐの市場のところまで行って、そこから色無しの馬車に乗ればいけるよ。市場へは黄色以外のどの馬車経由でもいける。そこの今出る馬車でも大丈夫だ。市場までは馬車ならすぐだよ」
「ありがとうございます」
私はおじさんに礼を言うと、まさに今にも出発しようとしていた馬車に飛び乗り、空いていた一番後ろの席に座った。そして袋から小銭入れを出して、半銅貨を隣の乗客に渡す。小銭は前に座る御者まで、何人かの乗客の手を介して渡っていく。
私はその光景にほっと胸をなで下ろした。トマスさんの乗合馬車の乗り方に関する情報は正しかったらしい。
「ハイホー!」
御者のかけ声と共に、屋根のない乗り合い馬車が動き出した。周りを見ると子供を連れた母親に、大きな袋を足下に置いた店主らしき人。それに事務服姿の男性に女性など色々な人が馬車に乗っている。
子供の母親に何かをせがむ声。隣同士でおしゃべりする女性の事務員さん達。その全てから本物の人の営みが感じられ、それがとても懐かしくそして心地よい。
馬車は途中で呼び鈴を鳴らして降りる客に、手を上げて乗ってくる客などを拾いつつ大通りを進んで行く。
両側の建物は木造の建物に変わり、さらに両側にはテントを広げてその下で物を売る店がちらほらと見え始める。そして馬車は大きな続きのテントの下に様々な店が集まる市場の前へと到着した。
慌てて床下に置いてある呼び鈴を取ろうとする。だけど前の席の方に座っていた子供が座席の下に手を入れると、そこにある呼び鈴をガランガランと盛大に鳴らした。隣でうたた寝をしていたおじさんが、びっくりして起きあがる。
乗客の半数近くが馬車から降りていき、私もそれに続いて馬車を降りた。思わず大きく胸を広げて深呼吸をする。
魚、香辛料、鶏、肉、漂ってくる匂いはそれをいい香りと呼ぶには苦しい物があるが、私にはとても懐かしく心安らぐ匂いだ。
「いらっしゃい!今日は白菜のいいものがあるよ!」
テントの手前の方で店を広げた八百屋から威勢のいい声が響いてくる。その声に買い物中のどこかの奥さんが足を止めると、置いてある大根を指さしながら店主と何やら話を始めた。なんて素晴らしい場所なんだろう。
朝から夕方まで居ても飽きることはない。今すぐこの中に飛び込んで、心ゆくまで店の数々を見たいという欲求に駆られる。
色々と差し障りがあるだろうから、カスティオールの領地で八百屋は出来ないだろうけど、この王都の市場でならどうだろう。貴族の家が八百屋をやってはいけないという法律があるとは思えない。
申し訳ないですが、家はカミラお母様とアンにお任せします。さっさと学園なんて窮屈な所は卒業して、私はここで八百屋がやりたい!
だがそんな妄想は後回しだ。ともかく今日は時間がない。
「そこの侍従さん、お使いかい? どうだい、このにんじんは。ほら、泥がついているのは新鮮な証拠だよ」
「そうですね。色もいいですし、ひげも伸びていない。それに葉っぱもまだ青々としていますね」
「おや、お嬢さん。見かけによらず目利きだね」
「もちろんですよ。これでも元八百屋ですからね!」
「こりゃ一本取られたな」
八百屋のおじさんが私に苦笑して見せる。本当の事だが、前世だから本当とは呼べないかも。私もおじさんに苦笑して見せた。
「おじさん、南区行きの馬車はどこから出ているか知っていますか?」
「誰かと待ち合わせかい? 向こうに香辛料を扱っている店が集まっているところがあるだろう。ここからは見えないが、そこの角を曲がったところが南区行きの馬車溜まりだ」
「ありがとう。今度来たときには何か買いますね!」
「スリもいるから気をつけて歩きな。奥さん、今日は何が…」
店を覗いた客の相手を始めたおじさんに小さく頭を下げて先に進む。一応持っている手提げ袋は腕で抱えて前に持った。ともかく時間がない。さっさと行ってさっさと戻ってこないといけないのだ。
夕方になってしまえば授業が終わったロゼッタさんが私の様子を見に来るかもしれない。そうなったら無事に戻れても、間違いなく地獄の様な説教が待っていることになるし、次に使えなくなってしまう。
ドン!
香辛料の店の前を通り過ぎる時に、何かが横合いからこちらにぶつかってきた。麻の袋から紙に包まれた香辛料の小分けが道へとこぼれ落ちるのが見える。
「イテテ、なんだよ、突然に走ってくるなよ」
横合いから急に出てきて女性にぶつかっておきながら、文句を言うとんでもない男の声が聞こえる。
「袋が破けたらどうするんだ」
どうやら本当に最低な男らしく、女性の私に向かって詫びの一つも言うつもりはないらしい。
『うん!?』
ちょっと待て、この不平たらたらな声には聞き覚えがある。私は地面にかがみ込んで、落ちた小分けを麻の袋に戻そうとしている若い男性を上から見た。間違いない。
「トマスさん?」