追跡
マリアンは走りながら必死に冷静を保とうと努力していた。先ほどの二人の話を聞く限り、フレデリカの目的はそのエルヴィンという実家に居る妹に会うか、その場所を確かめることだ。
あの人はいつでもそうだ。大事だと思えば正面からそれと戦おうとする。その結果、自分がどうなるかなんかは全く考えない。今回もそのエルヴィンとかいう男の妹の命が掛かっていると思ったら、居てもたってもいられなかったのだろう。
でもどうしていつも一人でなんとかしようとするのだろう。どうしてこちらに相談してくれないのだろう。きっとその身を大事にしろと言い過ぎたのが良くなかったのだ。
もちろんあの人の身の安全は自分の命よりも大事だ。だけどあの人が信念をもって行うことを決して止めたりはしない。あの人の信念に喜んで従うだけだ。
『まだまだ未熟だ』
もしこれが前世の白蓮さんや百夜さんならあの人は躊躇なく巻き込んだに違いない。止められると思っていたのだとしたら、自分はまだまだフレデリカに信頼してもらっていないという事だ。
部屋を開けていたのは半刻(1時間)は過ぎていても、一刻(2時間)は経っていないはずだ。それに今日は月末日だから通用口は混んでいる。
『間に合って!』
マリアンは心の中でそう漏らすと、鳩尾の下にあるもやのようなものを意識した。マリアンの呼びかけにそこにあるマナが答える。
前世の黒き森でのみ使えたはずの力はそこから広がると、マリアンの体全体を包んでいく。前世から引き継いだマリアンの力、隠密だ。この力は周りの人の意識から自分の存在を隠す。
マリアンはそれが十分に行き渡ったのを確認すると、通用口の列へと向かった。そこでは手続きを待つ使用人達が、まるで早朝の雀の様にぺちゃくちゃとおしゃべりをしながら列を作っている。
もう昼近くだと言うのに列が捌けていないということは、フレデリカがまだこの列の中にいる可能性は高い。それに出てもまだ馬車を待つ列があるはずだ。
マリアンは注意深く列の中を見ていくが、フレデリカの姿はない。感のいい何人かが、マリアンが横を通り過ぎた際に何かを感じたのか、おしゃべりをやめて怪訝そうな顔をする。
『いけない!』
心が乱れているせいか、隠密の力の維持が不安定になっている。マリアンは再度マナに意識を集中すると、通用門横の警備室を注意深く確認した。
使用人が学園を出る際には各家で発行された身分証に、学園で発行された身分証が必要で、そこに書かれた身体的な特徴との照合が行われる。
フレデリカが持っていた鞄の中にはその両方が入っていたが、その存在自体を知らないはずだ。不審者として警備室に身柄を押さえられているかもしれない。
焦る気持ちを必死に押さえながら警備室の中をのぞき見たが、フレデリカの姿も、そこで誰かが身柄を押さえられているような様子もない。
通用門の外を見ると、出口横の広場では王都の馬車駅まで行く馬車を待つ使用人の長い列がある。これだけ列が出来ているのなら、自分が洗濯とお昼の仕込みに行っていた時間だけではまだ馬車に乗れてはいないはずだ。
通用口を抜けると、マリアンは馬車を待つ人の列へと向かった。だがそこにもフレデリカの姿はない。おかしい。もしかしたら、フレデリカはまだ学園の外へ出ようとしていないのだろうか?
マリアンは荷物などを運んできたらしい各家の馬車の列の影に身を隠すと、隠密の力を解いた。そして列の前の方へと近づく。
「すいません。馬車を待つ列に並ばれてから、どのぐらい経っていますでしょうか?」
「えっ!?」
声を掛けられた、マリアンとそう年が変わらない若い侍従が驚いた顔をする。
「もうお昼近くよね。洗濯が終わってからだから…どのくらい経つかしら?」
若い侍従が隣にいる同じぐらいの年の子に声を掛けた。
「四半刻(30分)は優に過ぎていると思いますけど、まだ半刻(一時間)にはなっていないと思います。もう月末日は本当にこれだから困ります」
声を掛けられた子の隣にいた、そばかすが目立つ黒い髪の子がハキハキした声で答えた。
その答えにマリアンは心の中で安堵のため息をつく。フレデリカには髪を染める時間もあったはずだから、間違いなくまだ馬車には乗っていない。
「ハイホー!」
背後で馬車が動き出す気配がして、マリアンは列の側へと身を寄せた。
「また赤札?」
「今日は月末日だと言うのに優先が二台って、本当に腹が立つわね」
マリアンが最初に声を掛けた侍従が不満の声を上げた。
「今のは確かラザフォード公爵家の人よね」
「同じ侍従でも家が違うと、こういうところでも違うのよね」
隣にいた子が相槌を打った。
「でも前の優先はどこの家かな? 二人ともとても大貴族の使用人の様には見えなかったけど」
「そうよね」
「あ、あの?」
「はい」
「優先の馬車はもう一台あったんですか?」
「はい。もう今日みたいな混んでいる日に…」
「どんな人が乗っていましたか?」
真剣な表情をして問いかけたマリアンに、若い侍従が少し驚いた顔をした。
「もしかしたら知り合いが乗っていたかもしれないので、教えて頂けませんでしょうか?」
「えっ、そこまでは…」
「一人は背が高くて、明るい茶色で髪が長い方でした。もう一人はあなたと同じぐらいの背で、同じ様な色の栗毛の方でしたよ」
黒髪のそばかすが目立つ子がマリアンに答えた。
「ありがとうございます!」
マリアンは小さく礼をすると列を離れた。そしてさりげなく各家の馬車が止まっている場所に向かう振りをする。そこで隠密の力をかけ直すと、さらに奥、学園へ搬入する業者の馬車溜まりの方へ向かった。
今は昼に近いのでそこは閑散としている。マリアンはその一番端にいる目立たない馬車に目をとめると、そこに向かって駆けだした。
「誰だ!」
いきなり扉を開けて飛び込んで来たマリアンの姿に、馬車の中にいた年嵩の男が、腰の小刀へ素早く手を動かしたのが見えた。だがすぐに向かいに座っていた男が振り上げようとした腕を押さえる。
「姐さん」
年嵩の男の言葉にマリアンが小さく頷いて見せる。
「すぐに馬車を出して王都の馬車駅に向かって」
年嵩の男は頷くと、軽く馬車の天井を三回ほど叩いた。御者の掛け声が響いて、車軸が回る音と共に馬車が動き出す。
「今日はお屋敷には戻られないのですか?」
「それよりも緊急な用事が出来たの。すぐにロイスに連絡を取ってちょうだい」
「組長は野暮用がありまして、何か用事があれば私どもでお受け致します」
男の言葉にマリアンが首を傾げて見せた。
「この世界の人間でしょう。やぼ用があっても連絡はつくはずよ。それに彼は魔法職だから、すぐに使い魔は送れるのではなくて?」
そう言うと、マリアンは隣に座る若い男の方を指さした。だが向かいに座る年嵩の男の顔を見ると表情を変える。
「ロイスに何かあったの?」
マリアンの言葉に男がため息をついた。
「姐さん、これは仁義に関わる問題なので、今から私が言うのは独り言だと思って聞いてください」
「マインズさん!」
「これは独り言だ。お前は黙っていろ」
そう言うと、声を張り上げたまだ若い男をじろりと睨んだ。
「ある方がどうやらある女から病気をうつされたみたいです」
「それはとても重いのね。医者の見立ては?」
「さあ、さっぱりだそうです。ですが長くないと言っています。これを知る者はごく僅かです。医者に聞こうとしたやつは全て始末しました」
「分かったわ。ではすぐに組の方に連絡を入れて。私の主人が学園の優先の馬車で馬車駅まで向かっている。その安全を確保して」
「それらしき人は見当たりませんでしたが?」
「髪の色は私と同じ栗毛に変えている。それに私が着ているのと同じ侍従服を着ているわ。馬車駅からは南区に向かおうとするはず。南区にある小さな道場に行くつもりだと思う」
「分かりました」
「見つけたら人を出して周囲を固めて頂戴。危険が及ぶ気配が少しでもあったら安全を確保して。そうでなければ手出しは無用よ」
年嵩の男がマリアンに頷いて見せた。
「分かりました。とりあえず優先の馬車を捕まえて確認します。姐さんはそのお嬢さんの後を?」
男の言葉にマリアンは少し考える様な表情を見せたが、すぐに男に向かって顔を上げた。
「ロイスのところに連れて行って。彼がたとえ絶対に連れてくるなと言っていてもよ」
マリアンの言葉に、隣に座る若い男は杖を伸ばすと、連絡の為に使い魔を呼ぶ詠唱の準備を始めた。